「体罰自殺」を機に考える、学校教育での生徒の導き方は?
1:設問テーマの背景 (facts)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
昨年12月23日、大阪市立桜宮(さくらのみや)高校のバスケットボール部主将の2年生男子(17)が所属するバスケットボール部の顧問教師からの体罰を受け自殺していたことが、1月に入って明らかに
なりました。
顧問教師による男子生徒への体罰は頻繁に行われていたと見られ、自殺の前日、男子生徒は30、40発殴られたことを家族に話しています。
さらに、他の部員に対する体罰も行われ、部内での体罰が常態化していたことが明らかになっています。
・
2011年9月には、大阪市公益通報制度の電話に「桜宮バスケ部で体罰が横行している」と匿名の電話が寄せられていながら、高校内部での顧問教師への聞き取りのみが行われ、生徒への聞き取りは行われず、
高校から教育委員会の報告で体罰はないとされていました。
顧問教師は桜宮高校を過去5年の間に3回インターハイ出場させるなどの実績があります。
・
大阪市の橋下市長は、1月12日、生徒の自殺について「司法判断は別だが、社会常識としての因果関係はある」と述べ、行政の責任を認めるとともに、今後、大阪市立の全ての学校で、体罰の現状について
調査するとしています。
・
体罰は学校教育法第11条(昭和22年)によって禁止されています。
学校教育法第11条では、
「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」
とされています。
また、文部科学省は、2007年に「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」を
発表しており、この中で、肉体的苦痛を与えない限りにおいて、教室内の残留や、学校当番を多く割り当てる指導を体罰にあたらない懲戒方法として挙げています。また、生徒から教師へ暴力行為があり、
制止させるための行動であったりする場合は、体罰にはあたらず、「正当防衛、正当行為等」として刑事上又は民事上の責めを免れると明記しています。
2:番組として (our aim)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
今回の男子生徒が受けた体罰と自殺の関係は、未だ確定的な状況ではありませんが、学校教育法に定められる通り、体罰を教育方法として、肯定することはできないと考えます。
一方、今回の自殺と顧問教師の指導方法とは別の次元で、今、学校教育の中での教育的指導と体罰との違いや、境界についての議論が主にネット上などで、活発に行われています。
世代や経験によって、体罰についての考え方はさまざまなようです。かつては学校で生徒が叩かれることや、給食を食べられない生徒の居残りなどが日常的に行われていたという指摘もあります。
そこで、番組では、今回の男子生徒の自殺原因の背景を考えながら、この痛ましい出来事を機に、「学校教育での生徒の導き方」、そして、今回の件の背景にある「日本の学校・教育の問題」について議論をしたいと考えております。
この議論には、コンパス・オピニオンリーダーのみなさまからさまざまなご指摘をいただくことが必要です。
どうかご意見をお送りいただけますようお願い申しあげます。
《参考資料》
「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」
問題行動を起こす児童生徒に対する指導についてへの対処の別紙として、文科省の見解が明示されています。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/07020609.htm
※コンパスで掲載された全ての意見・回答は各氏個人の意見であり、各氏所属の団体・組織の意見・方針ではありません。
Q1:学校教育の中で、教育的指導と体罰の境目はどこにあると思われますか?
ご自身の経験も踏まえ、お考えをお聞かせください。
もし体罰を受けたことがある場合「どんな理由で、どんな体罰を受け、それをどう思っているのか」についてもお聞かせください。
Q2:(問1つづき)学校教育の中で、教育的指導と体罰の境目についてお考えをお聞かせください。
Q3:上記の回答を踏まえ、学校教育での生徒の導き方について、どのように考えていますか?お考えをお聞かせください。
Q4:桜宮高校の男子生徒が体罰を受け自殺した事態で、最大の問題は何だと考えられますか?また、その問題の解消のために、今後どうしたらよいでしょうか?ご意見をお聞かせください。
Q5:今回の事態は、日本の教育にどんな問題を投げかけていると思われますか?日本の学校・教育の現状や、社会環境の変化を踏まえ、お考えをお聞かせください。
( 26件 )
1. 回答する(問2にお答えください。)
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
体罰とは何かという定義があいまいなままでは、この議論は難しい。また指導と言っても、体育と部活、屋内での授業と場面を分けて考える必要もあるでしょう。
まず、体罰の定義をしなくてはいけない。肉体に対して負荷を与えることのみを指すのであれば、運動部等での練習、教育的指導と体罰の境目は不明確になります。体育等のもともと肉体に負荷を与えることを目的とする教育活動と講義等の教育活動を分けて考えなくてはならない。
こうした微妙な問題に対して、「味噌もくそも一緒」(下品な物言いですみません)のように議論することは難しい。今回の場合は体罰の域を超えているし、部活の勝利至上主義と無関係ではないでしょう。私は体罰には寛容です。それは体罰であって暴行ではありませんし、権力関係に端を発する指導でもありません。基本的には、体罰という言葉づかい、教員が言葉以外で指導することをできなくしていることに、近年の学級崩壊や児童の犯罪、いじめの増加などと関連があると思っているからです。統計的なエビデンスがあるわけではなく、いい加減な皮膚感覚です。
もちろん肉体的な負荷をかける(体罰 : 殴る蹴るではなく、頭をはたく程度や立たせる、居残りで掃除させる等です)場合でも、説明は必要であろうかと思います。そうした言葉による説明で、原則は注意される学生や生徒が納得することが必要でしょう。個々が境目になるのではないでしょうか。生徒が納得しないと反論することは、難しいことですが。
Q3. コメントする
基本は、教師と教え子がお互いに納得したうえで教育を行うことです。誰でもいやなことはしたくないですが、しなくてはいけないこともあります。それを理解させたうえで行わせることが教育です。たとえば、目標のためにつらいことやきついことを我慢する、受験や将来の目的のために遊びを我慢して勉強するなどです。ただし、小学校の低学年似は無理な相談ですので、ある程度は叱ることやペナルティを与えることは必要となるかもしれません。
Q4. コメントする
今回の事件は報道を見る限りでは、体罰ではなく暴行であって、このケースから教育と体罰について語ることは不適当ではないでしょうか。
このことで話がどんどん拡散しています。部活の勝利至上主義、教育と体罰、しつけと体罰、そんなものではありません。数十発も殴るあるいは叩くことは、体罰ではあり得ません。今回は体罰にターゲットが絞られてしまっていますが、言葉による暴力についてもこの機会に考えなくてはいけません。生徒や学生に、打つなどの精神的な症状がみられる者が増えているように思います。体罰よりも、悪質なものもあるでしょう。総合的に教育を考えなくてはいけないし、何でも禁止すればいいものではないと考えます。
Q5. コメントする
日本社会全体が、あらゆる意味で余裕がなく、不安定であるので、そのしわ寄せが教育や弱者である若者に来ていると考えます。教育そのものは教育の現場の先生方がすることですが、教育政策は現場ではない政治家や官僚が決定しています。こうした政策の決定者が責任をもたなくてはなりません。まだまだ政策決定者に危機意識が足りないのではないでしょうか。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
横浜の下町にある学校だったからでしょうか、小・中学校時代、何度も体罰を受けました。繰り返し激しく殴打されたこともあります。もしかしたら教諭、教員たちはその時、教育的効果を意識し、僕たちを善導しようとしたのかもしれません。でも僕はそのような思いや意図をまったく受け取ることができませんでした。彼らの表情に垣間見えたのは怒りや不安、嫌悪の感情であり、僕が感じたのは痛みと恐怖でした。
体罰は、それがどのような意図に基づくものであったとしても、教育的指導から逸脱した行為だと考えます。それは暴力の範疇に属するものであり、生徒のみならず体罰を振るう教師(教諭、教員)自身をもスポイルしかねません。
Q3. コメントする
小・中学校時代を通して、僕を感化し、いささかなりとも良き方向へと導いてくれたのは言葉でした。「お前が人の悪口を言うのは弱いからだよ」「真面目であることに引け目を感じるなよ」。大人(教諭、教員)が発する本当の言葉には子供たちの心を揺り動かす力があります。教育関係者はその力を信じてほしいと思います。
Q4. コメントを控える
Q5. コメントする
教育現場で、これほどの体罰(暴力)がいまだに横行している事実を今回の事態は浮き彫りにしました。安易は想像は禁物ですが、大阪市立桜宮高校バスケットボール部顧問教師の行為は氷山の一角ではないでしょうか。だとすれば、大阪市の橋下市長は今後、大阪市立のすべてての学校で、体罰の現状について調査するとの考えを表明しましたが、国としても全国的な調査を行うべきではないかと思います。
加えて体罰を受けた(暴力を振るわれた)子供たちが心にどれほどの傷を負うものなのか、教育関係者に周知、徹底すべきです。そのためには実例や学術的な知見を踏まえた研修・指導が必要でしょう。
伊東乾
作曲家・指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
物理的暴力だけに注目するのは誤り。精神的暴力を含め、信頼や愛情を欠く反教育的な行動を教育と混同するのがそもそもの大間違い。
ほかの人は言われないと思うが、私は体罰が必要だと思っている。これは主に家庭教育の中での話で、小さな子供のしつけに、言って判らぬものは尻を叩くなど必要だと考える。愛情と信頼の確立された関係の中で体罰は大切なものだ。子供時代から親は元より、音楽のレッスンでどれだけ苛烈な目にあってきたか知れないが、あれがなければ今日の自分はない。
問いは「学校教育」での体罰であるが、私は体罰だけを特化すべきでないと考える。これは体罰ではないですよ、という教師によるイジメなども自身経験しており、教育的指導と体罰の境目という設定が間違っている。
小学校3年のとき、私の通っていた私立の小学校では不法な雇用が行われており、短大卒で事務員として雇用した20歳の女性が無資格でクラス担任するという事態があった。この無資格教師Tさんに私は悪質なイジメを受けた。親が盆暮れの付け届けなどをしなかったのがきっかけらしいが、叩かれたこともあったし、それ以上に嫌だったのは意味なく廊下に立たされることだった。休み時間に下級生などに笑われたのは辛かった。私と、同級の「徳山君」をたたせた事を忘れて5時すぎまで放置し、親から「帰宅しないのだが」という電話で知れたということもあった。子供なので、立たされるということ自体が恥ずかしく、親に言えなかったのだが、これで発覚するところとなった。クラスをおとなしくさせるため、みせしめに私をいじめたものだった。おかしな指導が続くところから調査が入り、最終的には無資格教員の雇用など学校ぐるみの問題が明らかになり、当然ながら校長は引責辞職するという不祥事だった。
この話を表で書くのは初めてだが、体罰であるかどうか、という無意味な議論に流れては、自殺した高校生が浮かばれない。彼がしんどかったのは、物理的暴力として殴られるという表層以上に、精神的に追い込まれてそうなった事を粒さにみるべきだろう。
信頼や愛情のないところで、物理的暴力であろうと、それがない言葉その他による精神的暴力であろうと、子供をむげに追い込むような「反教育的行動」そのものに照準をあてて、断固たる姿勢で対策に臨むのが本来の筋と考える。それをしないなら、教育現場の内在論理による腐敗と崩壊以外の何ものでもなかろう。
Q3. コメントする
子供を一人ひとりきちんと見ろ、教師が自分のキャリアや職場の内在論理でふらふらするから、子供にも足元を見られるんじゃないか?
Q4. コメントする
問題行動のあった子供を殴るのが体罰であるなら、報道を見るかぎり、この生徒が受けたのは「体罰」ではない。キャプテンとして、むしろバイクにのった同級生のフォローなどに尽力していたという責任感あるこの子に、47歳という私と同い年の顧問教師がしていたことは、学生自身のしたことへの罰ではなく、それとは違う何かの理由による暴力、あえていえば「いじめ」あるいは「みせしめ」の何かであって、そういう了見のバカ指導者を飼ってることが、教育として間違いだといわねばならぬ。
殴れば殴るほど良くなるのは「兵隊」だ。これは旧日本軍で徹底していたと聞く。強いチームを作るためには殴るのも必要、と顧問教師は言ったそうだ。軍隊でやればよい。可能なら教員免許は懲戒のうえ剥奪したほうがよいだろう。
Q5. コメントする
形骸化。内実の欠如。指導のはき違え。社会環境の変化を踏まえ、と出題しておられるが、そんなものは大して関係なく、ピント外れと思う。教育の現場に軍隊式の運動部慣習を引きずっているのは日本独特の現象かと思う(少なくともドイツやアメリカの学校課外活動で同様のことは考えにくい)。昨今の変化うんぬんではなく1945年以前からの軍隊式スポ根メンタリティを根底から改めるべきだろう。
再び、私の基本は「体罰是認」だ。親が愛情をもって、言って判らぬ子を生涯で数発 殴るような局面は本当に大切だと思う。逆に、愛情も配慮もない他人が、別の意図をもって子供に物理的・精神的迫害を加えるのは、単なる犯罪だ。司直あるいは責任を持つ部署の手にゆだね、適切に処罰するのが本来だろう。
南淵明宏
医療法人社団 冠心会 大崎病院 東京ハートセンター 心臓外科医
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
真に尊敬できる教師による厳しい指導は大歓迎だ。だが権力を振りかざすだけの、あるいは理不尽な指導は暴力と言える。
教師は生徒を厳しき指導するべきだ。ただし、しっかりとした教師であること、つまり広い心、尊敬できる地勢、品格が備わっていることが最低の条件だ。自分の経験では中学一年の時の国語の教師だった。体罰というべきか、漢字の書き取り試験で一事でも間違えたら鼻の頭をピンと指ではじかれる、厳しい指導を受けた。それが嫌で一生懸命勉強した。そのおかげで生涯、感謝してもしきれないほど恩のある先生だ。何年も前に逝去されたのだが、残念でならない。今でも本当に感謝している。つまらないことで逆上する教師もいたが、惨めだった。子供は教師の人間性に非常に敏感である。立場上、あるいは成り行き上、どう考えても尊敬できないアホ教師に強権を握られ、体罰を受けるとしたら、それは本当にやるせいあにことだろう。とにかくやはりその教師の人間性そのものがまず問われるのではないだろうか。
今回の強豪スポーツクラブの指導においては、出場メンバーの決定権がその教師にあるなど、圧倒的強い立場、つまり権力がが付与されていたようであるが、もしそうであるなら、その立場を利用して何でもやりたい放題、という流れの中での体罰であったのであるから、これは指導でも何でもない、卑怯極まりない、あるいは幼稚な示威行為、または個人的な欲求不満のはけ口、であったのではないか。だとするならば、これは体罰ではなく暴力であり、指導死などではなく、生徒の人間性を猟奇的に弄んだ殺人だ。その点をしっかりと検証してほしい。
Q3. コメントする
人間は弱い。弱い人間がより弱いものに襲いかかる。まずはその道理を社会のみんながしっかりと認識すべきだ。心ある生徒は親もふくめてそのように対応していると思う。これは今に始まったことではない。昔からそうだろうと思う。幼年が呼応やWest PoitやMITにだってそういうダメ人間ダメ教師はいるだろう。「人間、こんな人生を送る要になったらおしまいだ!」と生徒に心底思わせる彼らもまた有能な教師、つまり「反面教師」なのである。黙って座っていれば教育を受けられる、というものでは決してないのであるから、まず教わる側がしっかりと覚悟を決めて校門をくぐる、これが人間として当たり前に要求される姿勢だ。
Q4. コメントする
日本の教育現場によく見受けられる、教育者側の保身のために見て見ぬふりをした意図的で悪質な不作為行為、つまり犯罪行為なのではないか?
しかし教育現場の人材を100%完璧なものにするのは難しいので(医療現場はもっと質が悪いのがうようよいるのだが)、これはもう、教わる側、つまり生徒側がそういう状況、つまり「弱い人間性の教師(狂師)が世の中にはふつうにうようよいっぱいいる」ということをしっかりと悟りきって、学校に行く必要があると思う。
それと体罰と言う名の暴力行為でどうしてバスケットがうまくなるのか?なんで試合に勝てるのか?だれにもわからない。何ら合理性がない。もっとまじめにスポーツをやったらどうか。スポーツに対するこころがけがなっていない。指導とかそういうことより、バスケットボールと言うものをもっとしっかりと勉強したらどうか。
それにしてもみんな不幸せでお気の毒だ。これがスポーツなのか?
Q5. コメントする
インチキ精神論が支配するスポーツの指導現場では弱いチームを作るだけ。
自分の権力を振りかざしたいだけ、あるいは心底意地の悪い指導教官や、レギュラーのポジションを脅かされる後輩にリンチを加えるスーパーに卑怯な先輩、ほかにもいろいろ、日本のスポーツの指導現場では反スポーツ的で恥知らずな醜い醜い犯罪行為が蔓延し、結局才能ある逸材をつぶし、チームを弱体化させ、さらには国際競争力を根絶やしにしてきた。そう考えると、日本のスポーツの指導現場は「勝つため」ではなく、権力を握っている先輩や指導教官の欲求不満のはけ口として機能する、卑怯者、恥知らずの天国だ。
そういう事情もあるので、学校の枠組みでのスポーツ指導を全廃して、欧州のサッカーチームのようなクラブチーム一本にしたらどうか?
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
私はわりとまじめっこで優等生だったため、教師に怒鳴られたり怒られたりしたことはほとんどありません。
ただ一度だけ、高校1年生の時に、男性の担任教師から手ひどいげんこつをもらったことがあります。
全校集会の時、校長や教頭の話に飽きていた私は、前に座る女友だちの背中に指文字を書いて遊んでいました。その時、後から何の前触れもなく「ガツン!」とやられたのです。かなり痛かったので、今でもその場面は強烈に覚えています。
全校集会でふざけていたのは確かに私が悪いかもしれません。
でも、だから殴られても当然だとは今でも思えません。
私は家庭内でも学校内でも、体罰は反対です。
肯定派の人は「しつけ」「教育」と言いますが、程度を越せば虐待になるのは明白です。
では、どの程度ならアリなのか?その境界線は非常に曖昧です。
たとえば「ビンタくらい」といったって、ふるうほう、ふるわれるほうの力や体格、強さや弱さによって程度は様々です。教師のビンタで鼓膜が破れたという話はよく聞きますが、どう考えてもやりすぎでしょう。でも教師は、「このくらいで破れるとは思わなかった」はずなんです。
暴力をちょうどいい程度でコントロールするなんて誰にも不可能なんです。
そして私がげんこつを受けた時、痛み以上に感じたのは恥ずかしさでした。
皆の前で殴られるというのがとても恥ずかしく、後で友だちに同情されるのもまた恥ずかしくて教師に対して怒りの気持ちばかり沸々と湧いていました。
二十年以上時が経った今でも、「愛の鞭」とは思えません。
暴力は受け取り手によっても意味合いが大きく変わります。
殴られることで素直になれる人ばかりじゃないんです。
教育の場合、何かをすることでいい効果と悪い効果両方出るのなら、悪い効果を避けるほうが優先されるべきだと思います。
Q3. コメントする
生徒に阿る(おもねる)必要はまったくないけど、恐怖や悔しさ、怒りなどマイナスの感情で操っても仕方ないと思います。
ちょうどいい距離の取り方を保つのは大変難しいこと、なので教育関係者にはどんどん優秀な人材が流入してほしい。
Q4. コメントする
教師からの体罰に苦しんで自殺する子もいる、体罰を受け止めきれない子もいる、ということを教育現場が認識できていなかったこと。
体罰を愛情の一種と感じる子もいるだろうが、ただただ悲しく辛いこととして自分の中で消化しきれない子もいて、その差は外見では分かりません。
「このくらいの暴力は許容範囲のはず」というのは、あくまで自分の認識の上にだけ成り立っているということを忘れてはいけない。
「あの時、先生に殴られてよかったと思う」という思い出話も聞くが、誰かが死ぬかもしれないリスクは犯すべきじゃない。殴る、蹴る、何かをぶつけるなどの体罰は全面禁止にするしかないと思う。
Q5. コメントする
昔から生徒の自殺はあったけど、こうやって社会全体が大きな問題としてとらえることで、学校側がただほっかむりをして逃げることが許されなくなった。
おそらく減ったとはいえ、未だ体罰やいじめの問題を見ぬ振りしている学校に、一石を投じたと信じたい。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
小学校の頃、自分自身は怒られたことがほとんどなかったので、体罰の経験もありませんが、まわりの子供たちはよく担任の先生から「こら」とお尻をたたかれたり、頭をぽんと叩かれたりしているのを見ました。でも、どちらかというと、熱血教師の先生ほどそういう行為があり、だから、クラスも収まっているそんな昭和の時代でした。なので、今回のような行き過ぎた体罰とは一線を引いたものだと思います。今回は殴られた回数なども、体罰というより、暴力に近いものだと感じます。
Q3. コメントする
国によっても体罰への考え方は色々とあるようです。基本体罰には賛成できませんが、一部の荒廃した学校があるなら、また、生徒同士のいじめの問題を含めて考えても、体罰を全くなくすということが有効なのかどうか疑問に思うことがあります。ただ、今回の場合は体罰という枠組みをはるかに超えていて、賛成できません。
Q4. コメントする
体罰という名前の暴力を許し続けた学校の姿勢にあると思います。活動停止になったバスケ部、バレー部の生徒たちは被害者でもあるのに、無念だと思います。
Q5. コメントする
先生とはどうあるべきか?という根幹の問いかけになると思う。先生も人間であり、万能ではない。家庭での教育も重要であり、先生に全責任を負わせることも難しい。ただ、今回のようなケースが長年見て見ぬふりをされていたことが残念であり、もっと学校そのものが、ガラス張りである必要性を感じる。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
小学校時代のこと。私自身は体罰を受けた記憶がないが、同級生が宿題や給食費等の提出物を忘れてビンタを、隣のクラスでは担任が誰か何か問題行動をすると連帯責任でクラスの全員に体罰を行っていた。教師が「感情にまかせて怒りをぶつけている」ように見えて理不尽さを感じていた。
今から数十年、ちょうど東京オリンピックの頃の私が小学校時代の様子。私自身は体罰を受けた記憶がないが、同級生が宿題や給食費等の提出物を忘れてビンタを受けていた。隣のクラスでは誰かが何か問題行動をすると担任がクラス全員に体罰(足をかけて倒される)を行っていた。子供ながらも、教師が「感情にまかせて怒りをぶつけている」ように見えて強く理不尽さを感じていた。
Q3. コメントする
教師と生徒という絶対的な(特にスポーツ関連では)力関係を前提にした体罰による指導はいかなる場合でもまずい。現場の教師が個々の生徒の個性をも考えた対応ができるマンパワー増員と再教育が必要である。
Q4. コメントする
高校野球等では、選手の喫煙等の行為で出場停止まで行われる。その現状と指導側の体罰含めた問題行動への対応に対する差が大きすぎる印象。それもスポーツの結果がメディア等で報道され、学校も地域も勝利至上主義になって、本来のスポーツの意義(個々の気力・体力と人間力を高める等々)を見失っているため。それが結果を残す(チームを強くする)監督を優遇・特別扱いし、勝つためには体罰も黙認するという悪循環になっている。
Q5. コメントする
日本の医療費や医師数が先進国最低な状況と同様、日本の教育予算も先進国最低で一人の教師が担当する生徒数も多い。個々の生徒の素質を伸ばして、多様性に対応するたには絶対的マンパワー不足だ。それが、手っ取り早い体罰という形の指導の温床になってしまっているのではないか。
さらにわが国の教育現場が、本来は人間のごく一面の評価に過ぎない、偏差値、大学入試ランキング、スポーツの結果等に大きく左右されている。グローバル化した社会を生き抜くための教育には、生徒の個性を伸ばして、社会で柔軟に活躍できる人材作りへの転換が求められている。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
体罰を加えた時点で教育的指導に値しない。いくら愛情があってもDVが許されないのと同じである。
体罰との境目については、文科省が通知した考え方(18文科初第1019号)に概ね賛同する。ただ、たとえば「直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる」ことも体罰としているが、「長時間」の境目は明示されていない。「機械的に判定することが困難」(同前)とはいえ、目安くらいは示したほうが、現場の萎縮や混乱を防げるのではないか。(もし廊下に一時間立たされることが体罰なら、私も受けていたことになってしまいます。)
Q3. コメントする
「体罰は勉強不足による安易な指導方法で決して強くならない」(桑田真澄)。以上は、極限までの精強さが求めれる軍隊(自衛隊)にも当てはまる。私自身、自衛隊で教育隊区隊長を務めた経験を持つが、体罰によることなく記録的な成果をあげた自負がある。体罰容認論は、能力や資質に欠ける〝負け組〟指導者の、最も安易な自己正当化(負け惜しみ)にすぎない。
Q4. コメントする
体罰を加えた教員の刑事責任に加え、歴代校長の監督責任は重大(前校長の無責任な態度には呆れた)。
文科省通知が認めたとおり、体罰か否かを「機械的に判定することが困難」なため「ややもすると教員等が自らの指導に自信を持てない状況を生み、実際の指導において過度の萎縮を招いている」。体罰容認の風潮は、その反動、反作用でもあったのではないか。教員が自信をもって懲戒権を行使できるよう、体罰の定義(境目)をより明確化すべきと考える。
Q5. コメントする
相次いだ「いじめ自殺」問題と同様、今回も教育委員会の限界が露呈した。法令上も誰の責任なのか判定できない現行教育制度は抜本的に改正すべき。単線化から複線化へ。固定化から流動化へ。飛び級も認め、学制も全面的に見直すべき。教育長の扱いを含め、安倍内閣(下村文科相)が打ち出した「教育再生」の方向性を基本的に支持する。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
境目はない。教育的指導として、殴って考えることは良いと信じている指導者が日本にかなり存在している。
間違いです。
Q3. コメントする
この問題についてかなり調べたことがあります。なぐることは日本では今日始まったことではない。
だから悪い循環が続いています。日本全国に誤解がある。
例えば、1964年女子バレーの大松監督はスパルタ指導で有名でした。日本全国で
今も大松さんの強いイメージをもつ人は少なくないですが、実は大松さんのバレー指導は厳しかったですが、選手に対してただの一度も殴ったことはなかったです。
なぐって選手を強くするという迷信はこのへんにもあるようです。
Q4. コメントする
スポーツの基本は遊びです。楽しく愉快にするものです。
練習には努力も大切ですが基本は楽しく愉快に面白くやるものです。
根本的に勝利至上主義が蔓延り過ぎている。
学校側も指導者にも逆にききたい。
あなたにとって部活は、スポーツは何ですか?!
思いもしないような事を思っている気がします。
Q5. コメントする
問4で答えましたが、スポーツが強い事で名を上げるとか、知名度の高さを誇ること
ばかりに力が注がれている現状をみつめなくてはならない。
苦しい練習をいかに面白くやらせるかが指導者の力量です。
なぐって言い聞かせるのは愚かの骨項です。
また殴ることで自分の大きさを示そうというのも大バカ指導者です。
(自分の胸に手をあてて考えてほしい、カン違いしてませんか?)
中津孝司
大阪商業大学総合経営学部教授,国際問題評論家
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
問題の元凶は教師の指導力不足にある。体罰に走るのは当該教師が指導力がないと自らの恥を内外に晒していることと同義だ。
教育的指導とは当該児童・生徒・学生の成長を念頭に置いた対応であり、体罰とは当該教員の感情的対応である。ただ、これは言葉遊びに過ぎず、問題は教員の能力にある。体罰に依拠する教員は指導力が欠如しているのである。
Q3. コメントする
児童・生徒・学生は個人によって千差万別だ。このありとあらゆる教え子たちに対応していかなければならない。指導力とはこの対応力に他ならない。にもかかわらず、一般常識が通用しない教師が多い。それは学生から一般社会を知らずに、学校という閉鎖社会に埋没してしまっているからである。おそらくは当該教師の学生時代はある程度、成績の良い優等生であっただろう。しかし、真の優等生であれば、学校社会とは別の領域に飛び出し、挑戦していたはずである。この意味で教師は中途半端なのである。ところが、この中途半端な人物が教室に立つと「先生」と呼ばれるようになる。教師同士でも「先生」と呼び合う。これを繰り返しているうちに感覚が麻痺して、自分を「先生」だと勘違いするようになる。この勘違いが高じて体罰に走ることになる。学校内では当該教師に逆らう者はいない。校長や教頭は上司であって上司でない。お山の大将的な存在が問題の元凶となっている。
教え子への導き方を論じる前に、教師を見つめ直す必要がある。これには教師の多様化を推進していかなければならないと思う。
Q4. コメントする
事件がスポーツ関係であったので、スポーツ関係の課外活動に限定する。
中高では3年に1度、大学では4年に1度、生徒・学生が入れ替わる。ところが、指導者は同一人物であることが多い。やがてこの指導者が当該部活を私物化するようになる。そうなると、選手ではなく、指導者のための部活と化してしまう。当該指導者は自らの功績のために、スポーツ推薦制度を最大限に活用して、優秀な選手のスカウトに奔走する。場合によっては外国人も標的となる。強豪チームともなれば、この悪循環が継続し、そこから学校を越えた大人たちの上下関係が出来上がり、この上下関係に即して生徒・学生が移動(入学・入部)することになる。
要するに、最大の問題は成績至上主義の課外活動にある。もっと肩の力を抜いて、選手とともに楽しみながら部活を運営すればよいのではないか。選手たちは公式試合であれ、練習試合であれ、負ければ悔しいだろう。次は勝ちたいと痛感して厳しい練習に挑戦するだろう。しかし、これは選手が自主的に実践していくべき領域だ。指導者は助言をする存在であることを忘れてはなるまい。指導者が自らのプライドを優先するから、成績至上主義に陥り、強豪チームに仕立て上げることだけが目的となってしまう。今回の事件は課外活動のあり方をわれわれに教示してくれている。
Q5. コメントする
さまざまなタイプの児童・生徒・学生と向き合える教師の資質という大問題をわれわれに投げかけている。教育現場の問題は煎じ詰めれば教師の資質・能力にある。改善策としては、実社会を知る層出身の教師を採用することである。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
体罰の加減は教師の感情により左右されるもの、厳正な境目などありえない。
体罰なき説得こそが教育的指導。
体罰の加減は教師の感情により左右されるもの、厳正な境目などありえない。体罰なき説得こそが教育的指導。
Q3. コメントする
殴ってわかる生徒は、殴らなくてもわかる。
Q4. コメントする
大会での成績を重視し、暴力教師を野放しにしてきた同僚、学校、教育委員会に責任がある。体罰は暴力という認識が欠落していたことが最大の問題。
Q5. コメントする
教育で大切なことは知識と合わせ、公序良俗、礼節、思いやりなど人間の基本的美学を教えることであり、教師自身がそれを体現すべきである。
森信茂樹
中央大学法科大学院教授 東京財団上席研究員
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
ベストを尽くしている、尽くそうとしている人を結果が出ないからといって失跡することはやめるべきだ。
区分は難しいですが、私自身体罰を受けた中学時代の体験からいえば、次のように言えると思います。
「悪ふざけ」は、強く叱責されても仕方ない。
「一生懸命やっているのだが、ミスをする」 これは、叱責すべきではない
わが国では、後者のケースで叱責したり体罰を課す人・ケースが多い気がするので、これは禁止すべきだ。
Q3. コメントする
「結果は出なくても、ベストを尽くすことが尊いこと」というように教えるべきだ。
Q4. コメントする
自分の見聞きしたところでは、英国でも、中高での鞭を使った(ちょっとした)体罰は残っており、それなりに有効とも言われている。
「ベストを尽くすこと」が「いい結果を残すこと」より重要、という価値観を、教師に持たせるようにするべきではないか。
Q5. コメントを控える
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
体罰と指導の境目は指導側と受ける側の双方に個人差があり大変難しい。
境目や区別ということより、結果命が失われるのであれば、暴力行為による指導は一切きんしとするものだ。
自分自身、愛の鞭やついつい一生懸命な余りというこれまでの考えが変わった。
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手を出したからといって上達したかという実証は何もない。
もしかしたら上手くなった人もいるのかもしれない。
でも、そこまでしてまで上手くなることがいいのだろうか。
上手くならなくてもその部活に参加しているだけで嬉しいものもいるだろう。
学生を鍛えると言いながら、自分が指導者として成績優秀という評価が欲しくて動いているのではないかとも思える。
Q4. コメントする
本人にとっては、そういう指導が好きではなかったということだろう。
死ななくてもいいと思うが、本人の受け止め方の問題だから、他人が決められない。
ただ、部活動ごときで自殺することになる姿はおかしい。
ならば部活をやめればよかったのにと思うが、
やめられなかったのであろう。そんな状態から逃げるという考えが生まれなかったのであろう。
それも含め、他人が決めることではない。
だが、防止策ということであれば、体罰は一切禁止ということを決定するしかない。
犯した場合には罰則が生じるので、
歯止めにはなる。
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こんな事態が起こると、何のためのスポーツか、部活かと考えさせられる。
好きということではできないのか。
いやいやでもやるのか。
楽しくやるということでいいのではないか。
私自身はぎりぎり追いこんで、限界を尽くすことで自らの能力を引き出すことはいい日―ことだという思いもなかったわけでないが、
スポーツや部活の持つ意味を改めて考えさせられた。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
学校教育、特に、私の専門分野と、実経験が重なる部分として、学校体育教育のなかでおこなう指導について述べる。
1)「殴る蹴る」について
私の考えとしては、殴る蹴るは論外の「あってはいけない体罰」である。
しかし、「殴る蹴る」を「教育的指導だ」と言い張る現場のスポーツ指導者は実際いる。
実際に出会うこともある。
「もしも教育的指導なのだとおっしゃるのなら、どういった教育の一つなのですか?」
と私は聞いたりする。
しかし、これまで誰一人として、この質問に冷静に「その人なりの正論」を言えた人はいない。
それはなぜか。
結局、彼らに理由なんてない。そこが問題である。
彼らは自らで自問自答すらしたことがないのかもしれない。
「なぜオレは、私は、選手を殴ったり蹴ったりするのか?」
この自己内省的な質問は、当然、自己客観視をせざるを得ないわけで、そう考えれば、明白な「全うななぜ」がないのだ。
殴る蹴るを教育的指導だと言う彼らは、そもそも、勝利至上主義なんてものですらない。
本当に「勝利」を大事にするのなら、殴ったり蹴ったりが、どれだけ「継続的なスポーツにおける勝利」にはマイナスかがわかる。
勝利主義なんかじゃない。そのレベルにすらいっていない。
たんに、彼らの「べき思考」と、彼らの「指導に対する自信のなさ」と、彼らの「セルフアウェアネスの欠如」が、彼らをそうさせている。つまり、彼らが、彼ら自身の感情に支配されているだけだと、いつも思っている。
なぜ私がそう思うか。
なぜなら、私の目の前で、よく、彼らは感情に支配されて、吠える。
理論的に説明ができないからこそ、彼らは「自分の能力のなさに、いらつき」、目の前の私に、怒鳴ったりする。
「おまえのようなスポーツの現場を知らない机上の理論ばかりの心理屋に、現場の苦労がわかるか」と怒鳴られたこともある。余談だが、その時は、静かに立ち去ることが大人の行動だったかもしれないが、自分は非常に未熟なので、「自分は元五輪選手で、元五輪代表コーチです。競技を極めることについては知っております」と言ってしまったが。
2)教室の外で立たせたり、遅くまで残って掃除などをすること
これは、文科省の言うところの「体罰ではなく懲戒」にあたる。懲戒なのだから、なんでもよいでは決してダメだと考える。私の考えでは、こういったことを罰とすることに決めるのであれば、必ず事前に「ルール」として情報共有をしておくことが前提である。
これは、心理用語でいえば、パニッシュメントによるネガティブレインフォースメント(諸説あり)といわれるもの。パニッシュメントを体育指導でおこなう時のガイドラインは、米国のスポーツ心理学ではある。たとえば、生徒自らにも、「我々運動部のルール違反には、〇〇といった罰をすることにする」といった罰ルールを決めさせるといった提案も書いてあったりする。
3)しかし、もしも生徒本人が、競技を極めるというような選手としての目標が高いのであれば・・・
ここからは、賛否両論かもしれないが、自分の選手時代の経験から述べる。
たとえば、下記も「身体的苦痛」という意味では、体罰なのかもしれない。
負けた後に、ランニングを〇周するとか。
遅かった選手は、腕立て伏せを〇回するとか。
この練習ドリルは、ちゃんとできるまでは、終わらないぞ、とか。
つまり、人の身体に傷を負わせるものではなく、トレーニング負荷をかけるというものでも、もしも体罰というのならば、これらは、確かにスポーツ現場では存在するのだ。
これは賛否両論かもしれないが。
自分は、実際、「もうこれが限界だ」と自分が思った後にも、たとえネガティブなアプローチであろうと、ネガティブレインフォースメントで、限界の先の世界に行けた、という経験が多々ある。
それまでに経験したことのない、「筋繊維への意識」とか「心身の連動感」とか。言葉で表現すると怪しいかもしれないが、究極に身体を極めてしか体感できない世界がある。
だからこそ、私は、自己の限界を超えるために必要な、異常な身体行動はあると思っている。
その、異常な行動(身体を自らでトレーニング負荷によって痛みつける)は、絶対、自分ではできない。
すでに頭では限界と思っている時に、さらにもっと!という時には、それこそ、地獄だと思うようなことをやるわけだから。誰かに無理やりやらされないと、できないことだと思っている。
しかし、それには、師弟関係の深さが影響する。
目指している目標が、師弟ともに一致していることも重要だ。
さらに、その選手のモチベーション傾向が、towardなのかaway傾向なのかにもよってくる。
おわりに、スポーツ心理学的には、運動の指導者には下記を参考にしてもらいたいと思っている。
1)体罰という言葉を聞いて、あなたは、何を想像するのか?そもそも、あなたの定義は、範囲は何か?
2)何のための「身体への刺激」なのか? その刺激が、顔が腫れるまで殴ったりという意味不明なものなのか、その刺激が、トレーニング負荷など、少なくとも、心身の限界の先に行ける道につながっているものなのか?
3)師弟関係がどうなっているのか?
4)選手のモチベーション傾向が、towardなのか、awayなのか?
5)目の前の選手の選手人生、そして引退後の人生に、スポーツ経験をどう影響させたいと思って、あなたは指導をしているのか?
Q3. コメントする
上記の問2でコメントしたなかに含まれる。
Q4. コメントする
当事者である指導者の、トレーニング五側面の認識の欠如。
本来、スポーツ指導では、技術トレーニング、身体トレーニング、戦略トレーニング、心理トレーニング、そして、哲学(人間力)トレーニングという五側面からの指導が必要である。
これらの講義は、認定指導者であれば、受けているはず。それにもかかわらず、こういったことになったのであれば、その講義などの受講後の、客観的評価体制の欠如でもあると思われる。
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若い頃に、スポーツ界で心身を育ててもらい、今、スポーツの指導者に心理分野を指導している立場としてのコメントであるが、そもそも、体育・スポーツで、何が学べるか、ということの原点に、現場指導者も、そしてシステム構築側も立ち返ってもらいたい。
体育・スポーツは、「頭も筋肉」と言われるような人間を育てているのではない。根性だけを育てているのでもない。様々なメンタルスキル、ライフスキルをはぐくむことができる素晴らしい経験を学べるものである。
体育・スポーツの存在意義を、再確認する必要があるという問題を投げかけていると思っている。
浜辺陽一郎
青山学院大学大学院法務研究科(法科大学院) 教授,弁護士
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
暴力による恐怖を与え、それをもって従わせようとすることは、「教育的指導」ではない。体罰は許されないと考える。
学校教育の中で、暴力による恐怖を与え、それをもって従わせようとすることは、「教育的指導」ではない。体罰は許されないと考える。
自分の経験では、体罰を受けても、素直に受け止められないし、反感を持つだけだったように思う。大学以降はないが、自分が高校以前の生徒の頃を思い起こせば、体罰を受けたことがある場合は、大した理由もなく、変な教師が勝手にやっていただけだったという印象しか残っていない。
Q3. コメントする
社会の中では、私人が何等の手続きにもよらずして、「暴力による恐怖を与え、それをもって従わせようとすること」ができる場面は、まともな組織においては存在しない。したがって、体罰には何らの教育的意味もない。
もっとも、裁判などによって何らかの責任が確定もして、その責任を果たすべき場合に、それに抵抗した場合は法による強制が、時に暴力による強制という形で実行されることもあるが、これは、その前提のプロセスに相当なエネルギーをかけているのであって、恣意的に暴力を加えるのとは異なる。
学校教育での生徒の導き方は、基本的に、教員による説得、人格による感化、その他の平和的方法によって行われる必要がある。
Q4. コメントする
バスケットボール部主将として責任感のある男子生徒を追い詰めて、その生徒を助けるべきはずの顧問教師からの常軌を逸した体罰がされたのであれば、そこに男子生徒は何らの救いも見出すことができなかったのではないかと思われ、そのような教育現場の環境を許した学校の体制の在り方が根本的におかしい。
しかも、顧問教師による男子生徒への体罰は頻繁に行われていたとか、部内での体罰が常態化していたにもかかわらず、その通報に対して、いい加減な対応しかしていない関係者は、意図的に学校教員による体罰を隠ぺいしていたものと言われてもやむを得ない状況のように思われる。
今後は、教育現場から体罰を一掃するだけではなく、万一それが発生した場合には、きちんとした対応ができるように、日ごろから教員に対する指導を徹底するとともに、通報などに対しても適切に対応できる人材を配置するなど、総合的な施策が求められる。
Q5. コメントする
日本の教育現場における非合理性、社会と隔絶された閉鎖的な空間で違法なことが蔓延していることをうかがわせる事件のように思われる。
日本の学校・教育の場に、合理的な規律を行き届かせ、また無法を許さない体制作りが必要である。
一般社会では、民間企業でさえ社会的責任やコンプライアンス・プログラムを推進して、その活動を適正なものとする努力をしているのであって、それが教育現場だけは不要だと考える教員の非合理的で自分勝手な発想は捨ててもらう必要がある。ただ、教員が自ら変わることを待っていても自己改革は無理だろう。
いじめでも、体罰でも、深刻な犯罪行為があった場合には、法的な介入をさせるべきであり、このような無法を許すことは、もうやめる時機である。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
私も、50年近く前、小学校低学年の時、殴られたことはあります。(当然お亡くなりになられている)先生は、倫理的に厳しい人で、自分を守るための嘘をついた時に殴られたと思います。いい思い出ではありません。騒いだときなど、廊下に立たされたことはしょっちゅうでした。
窃盗、嘘、人を傷つけるなど、倫理的にいけないことをした生徒にたいしては、多少厳しいことは必要でしょう。ただ、感情的に任せてなぐるというのは、決してしてはいけないと思います。どんな場合であっても、生徒の命を守るのが、最低限の教師のルールです。命を失うことにつながる行為は、絶対に禁止すべきです。
Q3. コメントする
日常生活の中で、倫理的なものは、年齢を問わず、指導すべき。しかし、「自分を守るための嘘をつく」のが当の教師であるとするならば、効果があるか疑問。結局、教師の姿をみて、生徒は育つ。倫理的に普通の教師が普通に生徒に対していれば、よいのでは。
Q4. コメントする
言語道断。
これは、倫理を破ったから体罰したという問題ではない。
単に、自分のチームを強くするという自己利益に基づき、倫理的に何も悪くない生徒を一方的に殴った。これは、指導ではなく、単に暴力による脅迫をしていただけ。倫理的に悪いのは、生徒でなく、先生の方である。
これを「体罰」と言ってはいけない。すると、倫理的なものと区別つけることができなくなる。「暴行」事件とマスコミで呼んでほしい。
Q5. コメントする
教育と言うよりも、大人社会の問題でしょう。自分の利益のために、他人の人権を無視してもかまわないという風潮の一環であるとするならば、問題。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
児童や生徒といえども、いかなる暴力的な指導法は許されるものではない(暴力をふるう児童や生徒に対する教職員の正当防衛を除く)。指導者が体罰に依存するのは、指導能力に欠けるからである。
Q3. コメントする
体罰を一切用いず、口頭での指導能力(ひいては教員の説得能力にもかかわる)の向上を目指すべきである。
Q4. コメントする
最大の問題は、教員が悪弊を抱えたまま長期間にわたり同じ学校に勤め続けたことである。体罰を行った教員を、他の教員が奇妙な仲間意識でかばい合って、事態を事実上隠ぺいしていたことは重大な問題である。
Q5. コメントする
今回の事件を契機に、日本の教育現場で、あらゆる意味での体罰を根絶することを目指すべきである。特に、今回の事件が象徴的であるように、スポーツの指導では、指導者が体力的にたけていることからか、体罰が相対的に多いため、体罰を行った指導者に対する懲罰を厳格化すべきである。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
学校教育や部活動での体罰ではありませんが、スイミングクラブでのいわゆる体罰のようなことを受けた経験はあります。
ビート板で頭を叩かれる、ケツバットと言われていたプラスチック製のバットでお尻を叩かれる、プールに立たされ続けたこともあります。
しかしその時の私は、なぜ自分がそのようなことを受けているのか、自分自身で分かっていました。
クリアできるはずの設定されたタイムで泳げなかったときや、練習に対する姿勢が良くなかったときです。
コーチは頭ごなしに叱り、体罰とされることをしていたわけではなかったと思っています。
頑張ってるとき、いい泳ぎのときにはちゃんと褒めてくれていました。
その当時の行為は、私のことを考えた上での指導だったと思います。
教育的指導とは、なぜ怒られるのか、その理由説明が必要なのだと思います。
また子供たちの目標を達成するために、指導者がどんな想いでそこに立っているのかを理解させること。
指導者の感情でその行為に至っている場合は体罰になるのだと思います。
また肉体的苦痛を与える事だけが体罰ではないと思います。
手をあげなくとも、言葉を敏感に受け取る子供に対しての傷つくような言葉の体罰もあると思います。
Q3. コメントする
子供一人一人に人格があり、叱られて頑張るタイプもいれば、褒められて伸びるタイプもいます。
また、周りを巻き込んでその場の雰囲気を壊す子もいますし、子供がチームをまとめてくれる場合もあります。
多くの小学校や中学、高校で指導するとき、それぞれの雰囲気があり、色々な子供がいることを実感しています。
ですから、指導する場合に、子供たちの性格やチームの雰囲気を見極めることが必要になってくると思います。
指導者の方もそれぞれのカラーがあり、経験のもとにプライドを持って指導に当たっていると思いますが、
時代の変化による子供たちの性格の変化だけではなく、それぞれの子供やチームに対応し指導方法も変化していく必要があると考えます。
確かに子供の成長過程では、時に厳しい指導が必要な時期もあると思います。
でも、学校教育法で定められているように、決してそれが体罰というカタチであってはなりません。
いい、悪いということだけでなく、目標達成のためにどうすればよいのか、子供にしっかり考えさせるよう導くことが指導ではないでしょうか。
Q4. コメントする
結果を残している部であるがゆえ、その方法に対して先生方や学校側に過信があったのではないでしょうか。
学校での部活動で結果を出す事によって、夢や目標が大きく広がることも確かにあると思います。
ただ、スポーツにおいて、特に学校での部活動においては、結果だけが全てではないと思っています。
子供たちが目標に向かって努力し、その中で仲間と出会い、成長して行くことが大切なのではないでしょうか。
学校としての部活動のあり方、そして、成績を残すことの意味、また子供たちにその時間をどのように過ごして欲しいか、子供たちがどう成長して欲しいかを、学校側、それぞれの先生方、そして保護者のみんなで、再度確認することが必要と思います。
Q5. コメントする
学校に授業しに行ったり、水泳を指導する機会があります。
その時に感じるのが、担任の先生によって、クラスのカラーが違いです。
同じ学校でも、挨拶がしっかり出来るクラス、発言がしっかりできるクラス、一方、夢が持てないとの発言が多いクラス、また人を馬鹿にするような発言のあるクラス。
一番近くにいる大人である先生のことを子供たちはしっかり見ています。
情熱や想いを感じます。
もちろん、先生方も様々な工夫をされながら教育していると思いますし、熱意が伝わらない事もあると思います。
素晴らしい職業だと感じると共に、本当に大変なお仕事と思います。
子供にとって、先生は必要な存在です。
だからこそ、教育委員会から伝えられた方針を書類だけのものにせず、学校で議論し合い、いまの子供たちにどんな時間を作ってあげることが大切かを考える必要がある気がしています。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
教育は英語でeducationだがその語源はeduce(〈隠れた才能・能力などを〉引き出す)である。英語の意味からすると、教育的指導とは「才能を引き出す」指導を意味する。
この意味から出発すると、教育的指導は、まず各人に備わった潜在的「才能」を見つけ出すことから始めなければならない。このこと自体もたやすいことではないが、「才能」を見つけ出した後にそれを伸ばす作業はより一層の努力が必要となる。
才能を伸ばす方法としては、自助努力を奨励し、そこで得たよい結果を「ほめる」ことが最も効果的とされる。もちろん「ほめる」だけで才能が花開くものではない。才能を伸ばす上で一定方向に集中させる「建設的強制」が必要な時はある。どちらにせよ自助努力が実を結ぶには教育者(指導者)の理論・実践面から指導(手助け)がなければならないということだ。
しかし人々は往々にして「教えこむ」ことが教育だと錯覚する場合が多い。過去に多くの実績を残した自信過剰の人ほどこの傾向に陥りやすい。「名選手必ずしも名監督にあらず」とされるのはそうしたことが関係していると思われる。
「教えこむ」ことが教育と理解している人たちは、自助努力を引き出して「伸ばす」よりも、何らかの「型」や「公式」に無理やりはめ込もうとする方向に流れやすい。この時、説得能力が備わっていなければ、結局暴力的強制すなわち「体罰」へと向かうことになる。
「体罰」は対等な人間関係では行使できない。必ず「教師と生徒の関係」というような強者と弱者の関係の中で発生する。そういった意味では「体罰」は、暴力行為であるだけでなく、自己の権限を利用して弱者を迫害する「パワーハラスメント」でもある。
教育的指導は暴力を伴ってはならない。暴力を伴う体罰はいかなる場合でも教育的指導にはなりえない。
Q3. コメントを控える
問2で述べたとおり。
Q4. コメントする
桜宮高校男子生徒自殺事件には、二つの大きな問題がある。一つは「教育」を「体罰」で行なったことである。もう一つは「体罰」を許容し、自殺者が出るまでその事実を組織的に隠蔽しようとしたことである。大津のいじめ事件でも「隠蔽体質」が生徒の命を奪っている。生徒の自殺との因果関係をいうならば、この隠蔽体質の方により大きな責任があると思われる。
教育界の隠蔽体質を一掃する改革を早急に行なう必要がある。
Q5. コメントする
深刻な問題は日本教育界の「隠蔽体質」である。大津のいじめ事件の時もそうだった。「隠蔽体質」を除去しないかぎり問題の究明は徹底されない。問題点の究明が行なわなければ、真摯な反省と貴重な教訓は得られず「悪習」はそのまま残る。
「隠蔽体質」を取り除く教育改革を早急に行なう必要があるだろう。それとともに、教育者は教育指導とは何かをもう一度問い直し、真の教育を実践する理念と方法論を身に着ける必要がある。
現在の日本教育を見ていると「進学」のための「方法論」だけが重視され、生徒・学生の才能を見つけ出し育てていく本来の「教育」がなおざりにされているように思われる。
教育者を「才能を引き出せる教育者」に改造・育成する作業も急がなければならない。今回の「桜宮(さくらのみや)高校事件」はそれを人々の前に示した。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
体罰なしのスポーツ指導をしながら、全国大会で優秀な成績をおさめている模範的な学校の例をみんなで発掘しましょう。
教育的観点から技能向上のため、生徒に対して暴力を行使しないで指導を行うことを教育的指導という。暴力を行使しないでも「ミスをしたからグラウンドを百周走れ」とコーチが指示をし、体力の限界に近かった生徒が走ったら体力の限界を超えていたために、健康を損ねたという場合、体罰になるだろう。医学的見地から疑問が生じるような、常軌を逸脱した訓練を課したというときは体罰になる。教師の指導が、いかに教育のためであっても、人体に悪影響が及ぶような指導は、言葉の暴力も含めて体罰になる。各生徒の身体条件には個人差がある。グラウンドを100周走っても平気な人と、10周走ったら、危険だと医師が判断する人がいる。「個人の身体に悪影響が及ぶ基準」は個別に判断することになるが、健康を害さない練習量は、医学的な基準と個人の身体的条件でおおよその検討はつくのではないだろうか。
自分は中学と高校時代に陸上部、サッカー部に所属した。体罰を受けた記憶はない。体罰と認定すべき場合は、どのような場合か。教育的指導をしているのか、体罰を与えているのか、教師側は心のなかで明確に区別しているのではないか。つまり「いじめてやろう」「心の傷を与えてやろう」という意思があるかないかの違いはあるのではないか。第三者は教師の心のなかまではわからないから、外部に表出してしまった結果をみながら判定をすることになる。教師の行為を判断する側(教育委員会、学校の管理職の会議、傷害罪の疑いがあれば、警察、医師、弁護士、検察、裁判官)は、結局は指導内容の合理性、そのときの社会通念、文科省通知、身体に与えた影響を考えて判断する。
記憶に間違いがなければ、かつて五輪で金メダルをとった、ニチボー貝塚チームの練習風景では、ミスをした選手の顔面にボールが容赦なく飛んでいた。これは「厳しい練習」であり、当時は体罰とは言わなかった。
Q3. コメントする
まずは教える側が自覚をしっかりと持つことが大事だと思う。体罰、セクハラ、パワハラは、被害を受ける人々にどのような傷を負わせてしまうのかを、先生がもういちどしっかりと考えておくべきだと思う。
次に、社会はいま、特定の学校の特定の先生の問題点を発掘することに一生懸命だが、全国大会で優秀な成績をおさめている学校で、体罰なしの立派なスポーツ指導をしている学校の例を発掘して紹介して模範にするといったことのほうが大事なのでは。
Q4. コメントする
いま問題になっている先生は、教育指導と体罰の境界を理解していなかった。身体に傷を与えることは体罰であり、教師として行なってはならないという自覚が教師に欠落していた。そして報道によれば、それまでにも体罰があったという通報があったのに、学校と教育委員会の調査がずさんだった。「体罰によってチームのレベルを引き揚げる」という信仰が教師の側にあり、それを容認する雰囲気が学校の管理職の側にあり、それを受け入れてきた教育委員会の3つが相乗作用を起こして、生徒の心と身体を傷つけた。
文科省によると、教師が生徒を「たたく」行為は、06年度の文科省通知が体罰として挙げた「身体に対する侵害」に該当しており、通知では、長時間の正座や直立など肉体的苦痛を与える行為も体罰と断じており、「いかなる場合も行ってはならない」としているそうだ。先生がそれを守り、違反行為の疑いがでてきたとき、学校と教育委員会は生徒の人権を守るという観点から対処していれば悲劇は避けられた。
Q5. コメントする
教育は密室のなかでおこなわれるものであるだけに、教師を管理する学校の管理体制を総合的な見地からチェックする教育委員会の体制を改革すべきではないか。チェック機能が働く仕組みがあっても、それが正常に働いていなければ意味がない。重大な体罰の事例などに関する案件は、通報があった時点から法律の専門家を含めた第三者の機関に調査を依頼をすることはできないだろうか。
原田曜平
博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダー
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
昔は体罰が当たり前で、私も小学生の時に当たり前のように受けたことがあります
が、今ふりかえってありがたかったと思えるケースは大分少なかったように思いま
す。
先生と生徒の強い信頼感が前提としてあった上で体罰でなくてはダメなケースがな
いとは言いませんが、昔から実は少なかったのではないかと思います。
Q3. コメントする
ゆとり教育以降に育った、成熟ステージの日本しか知らない若者たちは、大変マイ
ルドな気質になっていますので、やはり、体罰や強権的な態度は彼らに受け入れら
れないと思います。彼らを導くという意味では、時代を鑑みて、彼らが導かれ易い
伝え方にマイナーチェンジしていく必要はあると思います。
Q4. コメントする
今回の事態については、生徒さんを死に追いやるまで体罰を繰り返した先生
と、それを看過してきた学校側の問題が大きいのは言うまでもありません。
今後、先生が生徒に対して、体罰ではなく指導を行うために必要なことは、ジェネ
レーションギャップが大きいということを認識することだと思います。
アジア各国を見ていても、発展ステージにいると先生の言うことを聞いて、一生懸
命勉強して、いい学校に入ると、いい会社につけ、いい賃金が得られる、という
ルートを信じられる人が多いのです。だから、多少強権的なやり方でも、若者の方
も未来を強く信じられたので、受け入れることができます。何クソというたくまし
い上昇志向も持てます。
しかし、成熟ステージに入ると、そのルートが途絶え、先生の言うことに信憑性が
なくなり、先生への敬意が減少する傾向があります。若者の方も上昇型、競争型か
ら調整型になるので、あまり競争型なやり方が受け入れられなくなります。こうし
た時代の変化を先生たちも勉強すべきかもしれません。
Q5. コメントする
マーケティングの世界では、日々刻々、生活者のニーズが変化し、それに対応し
て、企業側も戦略を変化させていくのは至極当たり前のことです。教育をマーケ
ティングと完全に同じ土俵で語るべきだとは思いませんが、時代は刻々と変化する
ので、教育側も多少はマーケティング発想を取り入れるべきだと思います。
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
殴らなければならないほどの「指導」などまったく必要ないと思う。
どういう理由があろうとも、暴力に訴えるのはやってはいけないこと。
自分自身も中学時代に部活でも教室でも体罰を受けたが、暴力が横行する場所では、
それに対するハードルが下がり、どんどんエスカレートしていく傾向があった。
それが生徒間のいじめの激化にも繋がっていたと思う。
とにかく、体罰に名を借りたただの暴力が、教育現場で横行することは大問題。
当時を振り返っても、明らかに教師のストレス解消のような体罰が横行していた。
Q3. コメントする
暴力に訴えた時点で、教育的指導でもなんでもないと思います。
Q4. コメントする
現場が学校でなければ普通に犯罪だということ。
そういった意識が広まることが解消につながると思います。
Q5. コメントを控える
クロサカタツヤ
株式会社 企 代表取締役/
総務省情報通信政策研究所コンサルティングフェロー
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
体罰が暴力によって行われる以上、暴力行為である体罰は明確に否定されるべき
教育的指導というのは、教育や矯正を目的とした指導に関する行為全般のことだと考えます。
体罰は、その具体的な手段の一つですが、教育や矯正を目的としているからといって、暴力であることに変わりはありません。
一定以上の倫理観をもった人間社会において、暴力が肯定される局面は、極めて限定的です。たとえば、誰かの生存を脅かすような行為などを、暴力を使ってでも制止しなければならないというような、極限の状態に限られるでしょう。
それ以外のケースにおいて、暴力が肯定されることはありません。だとしたら、暴力を伴う体罰は、ほとんどの場合において、肯定されてはならないはずです。
Q3. コメントする
生徒の「良い面を引き出す」方法は、多様な可能性を秘めた子どもたちに合わせて、いろいろな手段が模索されるべきであり、ここで論じきれるものではないと思っています。
一方、「悪い面を矯正する」ことも考えなければいけません。それは、その生徒の指導というためだけでなく、学校というシステムを安定的に維持することで、他の生徒たちの環境を守る、という観点からも、必要となります。
もちろん、教育機関はできるだけ懐を広く深くしていてくれることが、社会全体の利益に資するとは思いますし、私も幼い子供の親として、子供のわがままや至らなさを、できるだけ広く受け入れてくれる学校であった欲しい、とは思います。
しかし学校とて人間が作るものであり、それゆえの限界もあります。先生たちに過度の負担を強いたり、学校全体で特定の問題児を受け止めるだけでは、学級はもちろん学校全体も崩壊してしまうかもしれません。
教師と生徒の間には、(社会学的な意味で)権力関係が一定程度存在しなければ、システムとしての学校は成立しません。その権力を裏付ける根拠として、問題児を学校から排除すること(停学や退学の柔軟な運用)も含めた措置の担保が、必要となるでしょう。
Q4. コメントする
亡くなった男子生徒の背景や心理は、到底私に分かるものではなく、それ自体についてのコメントは控えさせていただきたいと思います。
ただ、もしご遺族がそれを許諾してくださるのであれば、男子生徒がどのように学校生活やクラブ活動を送ってきたのか、そして何に苦しみ、どう抗おうとしていたのか(あるいはできなかったのか)を、可能な範囲で広く一般に伝えていただきたいと思います。
同じことを繰り返さないために、亡くなった男子生徒の苦悩から私たちが学べることは、たくさんあるはずです。そしてそれを学ぶことが、私たちの責務でもあるでしょう。子供を抱える一人の親として、そう思っています。
Q5. コメントを控える
Q2. 「1 - 回答する(問2にお答えください。)」の回答理由
学校教育の中で、教育的指導と体罰の境目は、「学校教育法第11条」に明確に定義している通りであり、「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」に噛み砕いて書いてある通りである。
「学校教育法第11条」に明確に定義している通りであり、「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」に噛み砕いて書いてある通りである。
‥‥‥‥‥
私は18才で日本に来るまでは、スリランカのキャンディー市にあるSt Anthonys College(http://www.antonians.org/)で学んだ。ここは、英国植民地時代から続く、小中高の一貫教育を行っているミッションスクールで私を含め大半が寮生として育った。
先生にはたくさん叩かれました。特に神父だった校長先生とdiscipline担当の先生が‘悪い事’をした私たちを見つけると手にもっていた鞭でお尻を叩きました。また教室の外で立たされたり、「膝まずき」させられた。‘悪い事’こととは、学校の規律を守らず、授業中雑談したり、学校で騒いだり、走り回ったり、人をいじめたり、喧嘩したり、他人に迷惑をかけたりなどなどです。叩かれた自分が言われる前から悪いことをしている自覚もあった。あの鞭は、今になって振り返ると、座禅の時の警策ようなものだった。教員はしっかりとした信念に基づいた客観的に罰を与えるに匹敵する真実に基づいて鞭を取り出した。今でも恩師たちを大変尊敬している。
鞭は、教育指導でもあったし、体罰でもあったことから考えると、「教育指導としての体罰」または「体罰をもって教育指導」という表現になろう。教員が鞭を使うことは、ある時期を境になくなった。今から考えると「教育指導としての体罰」を辞めるようスリランカの文部省から学校側に指導があったのだろうか。今はスリランカの何処の学校に行ってもかつてのような鞭で叩くとい教育指導は見当たらない。
しかし、日本の今回の事件に関連させて言うとクラブ活動では、体罰は一度もなかった。クラブ活動は当たり前ながらあくまでも「スポーツ」だった。日本とはここが最も違うように思う。つまり日本の場合、クラブ活動が「あくまでもスポーツ」であることを忘れていること。日本の場合、「気合」などの精神論への期待も背景にあるのだろうか。精神論は否定しませんが、それにしても、精神論に基づいて、一回につき30-40回顔を引っ叩いて、バスケットボールの成果を出せると思えない。
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学内外を問わず、多様な立場の人間が互いの知恵を出し合い、連携し常に情報共有して教育に取り組む必要がある。もちろん行き過ぎた互いを監視合い指摘し合う必要性もある。
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最大の問題は、加害者の顧問が学校教育法を遵守・厳守していないこと。そして、周りの大人がその事を知っていて、「見猿」(見ようとしない)、「言わ猿」(言わない)、「聞か猿」(聞かない)、「関ら猿」(関わらない、無関心)であったこと。共犯である。乱暴な言い方をすると、周りの大人が力をあわせて有能な若人を死に追い込んだのである。
少なくても「教育的指導と体罰」に関しての、日本の教育法上の定義は、他の先進国などと比べても引けを取らないと考える(相変わらず、若干難しい日本語を使っている点は歪めないが)。残るは、教員に対しての法律の徹底と再教育である。合わせて家庭教育、学校教育と社会教育による三位一体で教育体制の再構築も必要である。
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教育崩壊の危機に対する警鐘を鳴らしてくれている。「教育」とは家庭教育・社会教育・学校教育の3つがバランスとれて初めて成り立つものである。毛利元就がいう三本の矢の話だが、三本を束ねても、互いに隙間があった場合は、三本の矢でも折れる。
家庭、学校と社会と一緒になって教育を行わないといういけないところ、三者間の密度も連携がないと教育制度も、折れるし、実際に折れている。家庭教育が崩壊し、社会教育も死語になり、教育がすべて学校に押し付けられている中で、教師は『聖職』だったハズが、『デモシカ先生」などと揶揄された教員が増えた。多くの先生はただのサラリーマンで、日々なにもないのが一番いい。その反面、一部の学校では、なにがなんでも知識を詰め込んで成果を出し、それを誇る。進学もスポーツも同じだろう。
個人として、チームとして、うまくなって、強くなって大きい大会に出られるだけが目的と化して、そうなるため、本人だけでなく、親も、先生も、学校も、「暴力・体罰」を口に出さない。間違った方法に方向に進んでいる教育に対して警鐘を鳴らしている。命を絶った若人の死を絶対無駄にしてはならない。
2. 回答を控える
Q2. 「2 - 回答を控える」の回答理由
一般論は意味がないと思います。個別の議論を積み重ねる必要があります。
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教育のような高度に個別化した対応が求められる分野で、規範論を振りかざし、政治や行政権力が介入することに危険性を感じます。
あくまで生徒と教師、さらに父兄の話し合いによって解決すべき問題だと考えます。もし、今回の体罰が行きすぎたものであれば、刑事・民事で対応すればいいでしょう。
生徒を中心に、その子供がどうすれば成長するか、父兄と教師は一体になって考えるべきです。外野は、その邪魔をしてはなりません。
そのためには、一層の情報開示が必要ではないでしょうか?なぜ、問題の教師は、あそこまで暴走できたのか?周囲は生徒をサポート出来なかったのか?具体的な議論が必要だと考えます。
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風通しの悪さです。
なぜ、問題の教師は、あそこまで暴走できたのか?周囲は生徒をサポート出来なかったのか?具体的な議論が必要だと考えます。
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規範論を振りかざし、権力やメディアが介入することで、短期的に社会合意を得ることができても、早晩、「副作用」が出てくると思います。
この世から戦争がなくならないように、規範を作っても、体罰などの暴力はなくならないでしょう。別の嫌がらせをする可能性が高いと思います。
教育現場を「支配する」のではなく、「支援する」形で議論しない限り、何も解決しません。
教育こそ、「国家強靱計画」の要の筈です。
山本博
日本体育大学体育科准教授/アーチェリー選手
Q2. 「2 - 回答を控える」の回答理由
問3に回答
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体罰を利用した教育手法は、教育に手間と愛情をかけない手抜き指導です。
体罰で生徒や選手を管理監督しても、生徒達の自主性は育ちません。
体罰を利用して教育しても監督と選手の関係には恐怖と不安しかうまれません。
スポーツにおける理想の師弟関係は、監督と選手が尊敬と信頼で結ばれていることです。
運動部は、スポーツを通じて、子どもの人間形成に大切な向上心、創造力、耐性などを育む事が目的であって、勝つことは目的達成への手段のひとつです。
教師はもっともっと学び努力して、ひとりひとりの子どもたちに、真剣に向き合う、
最も身近にいる大人でなければならないと思います。
Q4. コメントを控える
Q5. コメントを控える
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