数々の有力選手を指導する長光歌子さんが
フィギュアスケート界を楽しく語ります!

歌子の部屋

最終回

対談企画 ゲスト:村元哉中選手&髙橋大輔選手

 今回で歌子の部屋は最終回を迎えることとなりました。そこでジュニア時代から長光歌子先生に師事し、現在は現役の日本男子選手で最年長である、バンクーバーオリンピック銅メダリスト髙橋大輔選手と、そのパートナーでオリンピアンの村元哉中選手にアイスダンスや歌子先生についてお話を聞いてきました。

歌子先生との出会いについて

3人

僕は中学校2年生ですね。

中学校1年生じゃない?ジュニアになるからショートプログラムとフリーがいるって言ってきたんだよね。

中学校1年生まではノービスAだったと思う。

そっか!じゃあ中学校2年生か。3月生まれだからね。

中学校1年生で野辺山の強化合宿にノービスAで初めて参加したんです。合宿中は佐野稔先生に見ていただいていたのですが、ちょうどその頃にずっと習っていた先生を離れて、来シーズンから誰に教えてもらおうという話になっていて、佐野先生から直接「仙台に来ない?」って話をいただいたんです。でも両親は高校までは親元を離したくないということで、それはダメということになりました。じゃあ来年のプログラムはどうしようという話になって、親から「プログラムだけ佐野先生にお願いする?」みたいな(笑)。お誘いは断っておきながら仙台に行ってプログラムを作っていただくことになったんです。プログラムを作ってもらっている間、両親は仕事の関係でどうしても抜けなきゃいけないし、家も裕福な方じゃなかったので期間を伸ばせなくて困っていたら、その時たまたま歌子先生のチームが仙台のリンクに合宿に来ていて、「歌子先生お願いできない?」って流れでお願いすることに…。

すごーい!初めて聞いた。

いつもは7月末くらいに合宿をしていたんだけど、その年は何かがあってたまたま8月の後半に行ったんですよ。

すごい。

でも前半部分は佐野先生に作ってもらっていたんですよね。

急に佐野先生がテレビのお仕事で東京に行かれることになって、大輔が仙台にいる間にはプログラムが仕上がらないということになり、急遽私がピンチヒッターになったのよね。

僕はその裏の話を知らないから、「すごいプログラムが変わっていく!だっ大丈夫かな?!」みたいな(笑)。

曲もちょっと編曲を変えさせてと言いました。

それでジュニア用のプログラムを作ってもらったのが歌子先生との最初の出会いで、その後「ショートプログラムあるの?」って聞かれて「ないです」ってなって、じゃあ岡山は近いから大阪に作りに来たら?という感じで通うようになりました。習うというよりプログラムを作ってもらうのがスタートという出会いですね。すごいでしょ。たまたまの話の連続です。

そうなんですよ。仙台の長久保裕先生と佐野先生のところには、毎年7月末に行って8月になるかならないかのころまで選手を連れて行ってたんですけど、大輔と出会った年だけたまたま8月のお盆過ぎてから。もう合宿から帰る頃には8月も終わりで、9月の末か10月の初めにはブロック大会が始まるのに、「ショートがない?!」みたいな。「1回ショート見せてよ」って言ったら「ないです」って言われて「なに?!」ってこっちが焦りました。長久保先生に相談して「ショートがないって言ってますけど、どうするんですか?」とか言って、それでもう大阪に近い岡山だから来たらって言って。大輔は気にしてなかったみたいだけど私は一人凄く焦ってたよ。

一応めちゃくちゃ古いショートはあって、それ使えばいいやってなってた。

でもなんか嫌だって言ってたよね。

3年くらい使ってたからね。

前のプログラムでちょっとアレンジしようかと言ったら「あれは嫌いです」って言って、じゃあ作らなきゃねって言ったのを覚えてる。

その時作ってもらった曲覚えてる?

フリーはワルソー・コンチェルトだった。

ショートは?

ハチャトゥリアンじゃなくて…。

アラビアのロレンス。

そう、アラビアのロレンス。

へえ!

懐かしいね。

歌子先生から見た髙橋大輔選手は

私は当時教え子だった林(祐輔)くんが、私のレッスンじゃない時にO2のリンクに自主練に行ったら、たまたま大輔を見たらしいのね。それで「先生、岡山にすごくいい子いますよ」って言ったので、実際に見たことはなかったけれどそういう噂では聞いていました。その後さっきの合宿での出会いになるんですが、合宿には私だけ選手より1日前入りしていて、選手たちが来る日は長久保先生のお手伝いで氷に乗っていたんですよ。その間に理髪店のお姉ちゃんと大輔がリンクサイドの長久保先生に挨拶に来たんだけど、大輔が入ってきた時に、リンクの入口からパーっと光が差していて、その中を歩いてきたのをすごくよく覚えているんです。そのあと「先生のお弟子さん来たよ」と長久保先生に言われたけど、「いや、私あの子知りません」って(笑)。それが大輔でした。

そうらしいです。僕は最初、歌子先生の事めっちゃ怖かったですね。普段何もしてない時の雰囲気がめっちゃ怖かったです。話したこともなかったし、本当に知らなかったので。

本当に知らなかったね。全く会った事もなかったし。

いきなりプログラムからスタートだったから。でもそれはすごく楽しくて、小さい時からずっと同じプログラムを滑っていたし、踊るプログラムというのをずっとしたかったんですよ。だけどなかなかプログラムを変えてくれないし、踊れるようなプログラムにしたいっていう思いが強かったんです。それをちゃんとやってくれたというか、本当に細かく作ってくれたのでそれが楽しくて。本当に当時はシャイだったんでそんなに話してはなかったんですけど…。

プログラムの振付に関してはすごく貪欲でした。すごく吸収が早くてびっくりしました。佐野先生が振付ってなった時に、ワルソー・コンチェルトなんていい曲、悪いけどそんな中学2年生の地方都市の少年にこんな曲選んで!とか思っていました(笑)。それでも滑るのを見たら結構よく滑る子だなって思って、私が振り付けを始めてもこの曲はこのまま使おうと思いました。普通は男の子って10の振付を覚えさせてようとしても、1できるかわからないのよね。なかなか理解しないし、恥ずかしくてやらないし。でも10言ったら本当に100くらいになる感覚でびっくりしました。

以前は恥ずかしかったんですけど、褒めてくれるのを否定しないようにしてるんです(笑)。いつまで言ってくれるかわからないから(笑)。なので、ありがとうございます。

(笑)。私も教えるのがすごく楽しかった。

すごい。そんなすごい出会いがあったんだ。

村元哉中さんとの出会いは

哉中ちゃんはいつから関大に来たんだっけ?

2013年ですね。

じゃあ高校生か。高校生の時に濱田(美栄)先生のとこに移って来て、その当時から上手だなと思って見ていました。入試の時に少し準備のお手伝いをしたのですが、私が一回大失敗したんです。夏の学業の成績を出さなきゃいけない時に海外に飛んでしまっていて、哉中ちゃんがアメリカから練習に帰って来た日に「成績表出して!って」学校に来てもらって(笑)。

全然覚えてない(笑)。

夏休みで忘れていて、走ってもらいました。悪い監督がここにいます(笑)。哉中ちゃんくらいの成績だったら全く問題はないんだけど、締め切り日で…。その節はどうも失礼いたしました。

私は関大に滑りに行っていた時でも、練習するだけだから歌子先生には本当に挨拶する程度で、「大ちゃんの先生」という感じでした。この前の全日本選手権の時に初めてお昼ご飯をご一緒させていただいて、ちゃんと話せました。大ちゃんとアイスダンスをすることになったことがきっかけで出会ったのかなと思っています。

全日本の常連だったし、頑張っているなと思ってよく見ていました。大輔には言ってたけど、哉中ちゃんのスケートはシングルの時から好きだったから。

「上手だよね、踊れるね」って言ってたね。

いつも感心してたのは、全日本の時にやれることはきちっと全部やっていたことかな。練習でループの軸が大変なことになっていても、本番ではちゃんと修正していたりね。もちろんスケートと踊りはすごく好きだったけど、ジャンプも決めるんだっていうのを覚えています。

シングルを本当に頑張っていたのは1年くらいかな…。大学2年生で、大学生活が楽しくなって、大人の体型に変わってきて、もともとジャンプが苦手だったのもあって、でも周りの子はその頃に3回転+3回転とか跳んでて、ジャンプできないし全然楽しくない、それと同時期に姉が引退したんです。一緒に練習してきた姉がいなくなって、心にぽかんと穴が空いた状態の時に「アイスダンスにトライアウトしてみない?」という声がかかって、でも最初は断りました。「シングルから逃げた」「多くの方の支えがあって関大にスポーツ推薦で入ったのに急にダンスに転向して」とかすごく迷いましたが、濱田先生に「一回スケートを習いに行く感覚でやってみたら?」とアドバイスをもらい、やってみたらすごく楽しくて。久しぶりにスケートが楽しい!って思ったのがアイスダンスへ転向するきっかけでしたね。

スケート連盟もオリンピック団体戦を見据えて、強化に力を入れてトライアウトしだした、ちょうどその頃よね。

その頃だったかも。

長光歌子(ながみつ うたこ)
長光歌子(ながみつ うたこ)