数々の有力選手を指導する長光歌子先生が
フィギュアスケート界を楽しく語ります!

歌子の部屋

vol.18

対談企画 ゲスト:宮本賢二先生

髙橋大輔さんの「eye」をはじめ数多くの振付を手掛ける日本を代表する振付師。宮本賢二先生にお話を伺いました。

宮本賢二さん、歌子先生、高橋大輔さんの関係性

宮本賢二先生

僕にとって歌子先生は、人生に欠かせない人です。

私も賢二先生には足を向けて寝られないです。本当に助けていただきましたよね。特に(髙橋)大輔が足を手術して家に帰ってきた時は…。

イーゼルですね!

そうそう!賢二先生がイーゼルを持ってきてくれて3人で絵を書きましたよね。

大ちゃんが足を手術した時は僕も本当につらかったです。本当に、心から正直に「俺の右足やるから持って行ってくれ!」って思いました。今でも覚えているんですが、あの時の大輔の表情は、とても穏やかだったですよね。覚えてますか?

うーん…。

なんて言うんでしょうか。大ちゃんはずっと第一線で戦い続けてきている中で、怪我をして、一度その舞台から外れたじゃないですか。その時に「普通の人間の髙橋大輔」みたいなものが見えたというか、髙橋大輔ってこんな表情の人間なんだなって思いました。
それで僕は絵が好きだったので、3人で絵を描いたらどうかなって思って、イーゼルを持って行ったんです。そうしたら大ちゃん、抜群に絵が上手いんですよ。しかも歌子先生の顔を描いていて…笑顔の歌子先生を画用紙いっぱいに描いたんですよね。

はい。それには後日談があって、先日我が家が引っ越しをした時に、大輔が手伝いに来てくれたんですけど、荷物整理をしていたらあの時のイーゼルも絵も出てきたんです。それで大輔に「これどうする?私が持っていこうか?」って聞いたら「これは僕が持っていきます」って大事そうに持って帰りました。

それは嬉しいですね。

彼にしてみてもあの時のことは、すごく勇気づけられた思い出なんだと思います。大輔がスケートを続けられているのは賢二先生たちのおかげです。思春期の繊細な頃や大怪我をした時に、賢二先生のような方がそばにいてくれて本当に感謝していますよ。

僕が大ちゃんの振付けをした最初のオファーは、実は、歌子先生じゃなくて大ちゃんだったんですよね。それで歌子先生に確認をしに行ったら、是非やってほしいって言われましたよね。だから心置きなくやらせてもらえて、僕も一生懸命やりました。

あの時は周りから色々と言われましたよね。当時は賢二先生も今ほど有名じゃなかったですから。それでも大輔は「絶対に賢二先生にやってもらいたい!」って言っていましたし、私も絶対に賢二先生にやってもらおうって思っていました。

実は僕も色々言われました。色んな人から電話がかかってきましたし。でも僕は、大輔と一緒に一つの作品を作り上げていけばいいじゃないかって思っていました。

バンクーバー五輪の思い出

実は僕、バンクーバー五輪シーズン(2009‐2010)、大ちゃんはプログラムを変えるって思っていました。
※前シーズンのショートプログラムの振付け「eye」は宮本賢二さんが担当
でも大ちゃんも歌子先生も、僕の振付けで行くと言ってくれて、もうすごくうれしかったです。振付けの仕事は選手の手伝いなんですけど、僕が作った振付けであんなに素晴らしい演技をしてくれて、バンクーバー五輪の時、会場で見ていてもう僕はすごくすごく嬉しくて「どうだ!」って感じでした。僕も頑張ってよかったというか、本当にメチャクチャ泣いてました。

私もあの時の光景は忘れられないですね。お客さんの盛り上がりもすごかったですし。

でもその後のこと覚えてますか?フリーの翌日だったと思いますが歌子先生や大ちゃん達が日本料理の居酒屋さんに呼んでくれたんですよ。一緒にお祝いしようって。それで、そこの店に駆けつけたんですけど2人に会った瞬間に、歌子先生が爆笑しながら「そうでもないなー」って言うんですよ。

(笑)

何が「そうでもない」のか僕はわからなかったんですけど、よくよく聞いたらショートプログラム終了後現地で、僕が取材を受けている映像を2人が見ていて、メッチャ太って見えたらしくて、そのことを爆笑されていて…。

私も大輔も賢二先生にすごく会いたかったんですけど、バンクーバーのすごい辺鄙なところにあるお店だったので、こんな遠いところまで来てくれたって嬉しくて、つい憎まれ口を叩いてしまったんですよ(笑)

でも正直、僕もそんなことで笑ってくれる皆がうれしかったです。大ちゃんは大ちゃんで「これ」って言って渡してくれたのがメダルで、「銅メダル、重(おも)っ!」ってなりました(笑)

長光歌子(ながみつ うたこ)
長光歌子(ながみつ うたこ)