数々の有力選手を指導する長光歌子先生が
フィギュアスケート界を楽しく語ります!

歌子の部屋

vol.11

対談企画 ゲスト:田山裕士さん

チーム大輔の靴担当、ロバさんこと田山裕士さんに、シャープナーという仕事についてお話を聞かせていただきました。

田山家のスケートへの関わり

田山裕士さん

田山さんはスケートを滑らないって以前伺った記憶がありますが…

これを言ったらたくさんの方が「えーっ」て言われるかもしれませんけど、一切滑れないんですよ。

確かに滑っている所は見たことないですね。

そうなんです。アイスホッケーもフィギュアスケートもやったことないですから。昔、父に連れられて滑りに行ったことはあるので、まったくの初心者よりはちょっと滑れるくらいといった感じですかね(笑)

お父さまは、滑られたのですか?

父は普通に滑っていた記憶はありますね。

おじい様は大阪府スケート連盟会長のみならず日本スケート連盟の重鎮として、とても厳格な方という印象がありましたが、お父様も厳しい方でしたよね?ショップにお父様がいらっしゃる時、子供心に怖いなって思っていました。

そうですね。祖父も父も厳しい人でしたね。

でも田山さんは全然違いますね。本当に優しくて温和な人って感じがします。

いや~(笑)確かに性格は全然違うかもしれません…。

田山さんと高橋大輔さんとの思い出

私が(髙橋)大輔を教えていたころは、田山さんに本当にお世話になりましたよね。

(髙橋)大輔のチームの一員として、私は大会にはついていかなかったですけど、大会の始まるギリギリまで練習場について行っていましたよね。

特に彼が辞める前の最後の3年くらいは、出発の間際までリンクに来てくれて、調整してくれて、本当にありがたかったです。

(髙橋)大輔は良い意味でシビアに靴の事を考えていましたからね。あーでもない、こーでもないって言って、毎日毎日相談していましたね。

滑る選手にしてみれば、最後まで調整してくれるのは本当にありがたいことだと思いますね。

(髙橋)大輔の場合、その日の体調によって、靴の調整も全然変わっていましたよね。

そうなんですよ!

付き合っていて面白かったですよ!色々と勉強になりましたし(笑)

(髙橋)大輔は田山さんに助けられましたよね。注文が多い子でしたからね。

彼の場合は、常に100点を求める感じでしたよね。90点位で良いっていう選手が多いですが、絶対に100点を目指す感じでした。98点でもダメ。

バンクーバーオリンピックの時、彼は靴が合わなくて大会の直前になって、ジャンプが全く飛べなくなったことがあったんですよ。「GRAF」というスイスのスケート靴メーカーの靴を昔から履いていたんですけど、マイナーチェンジをして、ちょうどその時に靴を変えたんです。そうしたら全然滑れなくなってしまったんです。どうしても新しい靴がなじまなくて、「前のタイプの靴で滑りたい」って言っていました。そうしたら本田武史先生が昔のモデルを持っていて「家に私の靴が1足ありました、これはどうですか」って言ってそれを本番で使ったんです。出発間際で田山さんに調整してもらったんですよね(笑)。

本田先生の靴のサイズは、(髙橋)大輔に比べて5mmくらい大きかったんですよね。

そうです。それでも「もうこの靴しかない!」って言って、本田先生の靴で滑ることを決めたんですよ。

それで銅メダルですよね!彼は何か持っていますね。

本当に運がよかったんですかね(笑)本田先生には大感謝です!!

長光歌子(ながみつ うたこ)
長光歌子(ながみつ うたこ)