数々の有力選手を指導する長光歌子先生が
フィギュアスケート界を楽しく語ります!

歌子の部屋

vol.10

対談企画 ゲスト:長沢琴枝先生

岡山国際スケート場でコーチを務め、三宅星南選手や島田高志郎選手など若手の育成を精力的に行われている長沢琴枝先生にお話を伺いました。

2016.7.6

長沢琴枝先生
長沢 琴枝(66)
長沢 琴枝(66)
長久保裕(現コーチ)とペアを組み、1967-1971年の全日本選手権で5連覇、札幌オリンピックにて日本人ペアとして初めてオリンピックに出場した。現在は岡山国際スケート場でコーチを務め、三宅星南選手や島田高志郎選手を筆頭に、若手の育成を行っている。

お二人の出会いについて

歌子(以下:歌)長沢先生との初めての出会いは、私が6年生か中学1年生の頃に行った、日本スケート連盟主催の合宿だったと思います。

長沢琴枝(以下:長)箱根での合宿でしたっけ?歌子先生は普段大阪で練習をしていて、私は川崎で練習していたから、中々出会う機会はなかったですよね。

そうですね。当時私は長沢先生のことを年上だと思っていたんですよ。

そうなんですか?

はい。ずっと年上だと思っていて、全日本ジュニア選手権に一緒に出た時に同じ学年だっていうことが分かって、びっくりした記憶があります(笑)

でも、小さい頃はよく年上に見られていましたよ(笑)

長沢先生は、すっごくしっかりしてたから。私はお姉さんだと思って頼っていました。

それは身体が、がっしりしていたからじゃないですか?

(笑)確かに、当時私はガリガリでしたけど、長沢先生はがっしりしていましたよね(笑)

そうですね(笑)ごつかったですね。スピードスケートの選手みたいでした!

長沢先生の現役時代

長沢先生は現役の頃、シングルをやりながらペアもやっていましたが、いつからペアを始めたんですか?

高校生の時です。小学校、中学校は地元の静岡の学校に行っていて、練習は川崎に通っていました。それから、高校生になって川崎の高校に行くようになって、その時から長久保裕先生とペアを組むようになったんです。

静岡にお住いの頃、川崎まで通っていたんですか?

静岡では近くの小さいリンクで普段練習していたんですけど、インストラクターがいなくて、教えてくれるのは父だったんです。
だから級が上がるにつれてちゃんとした先生に習わないと、どうしようもなくなってしまって川崎のほうに行ったんです。

当時はインストラクターの先生も本当に少なかったですからね。
でも、学校に通いながら、静岡から川崎に行って練習することはできたんですか?

あの頃は大変でしたよ。川崎に行くのは毎週土日でした。土曜日に学校が終わって、川崎に行って日曜まで練習して、夜遅くに静岡に帰ってきて次の日からまた学校っていう生活でしたね。
当時は新幹線がなかったので、電車だと4時間弱はかかりました。車では、箱根の山を越えて行くからどのくらいかかったかわかりませんでしたね。

私は地元が神戸だったんですけど、(当時)神戸のクラブにも先生がいなくて、電車で大阪の梅田リンクに通っていました。それでも長沢先生よりは近いですから、3時間以上かかけて練習場に行っていたなんて本当に大変だったんですね。

現役時代のエピソード

私は長沢先生が、長久保先生とペアを組むってことを初めて知った時、本当にびっくりしました。

私もびっくりでしたよ(笑)あの当時、札幌オリンピックがあったので、都築(章一郎)先生が「日本からペアを出そう」っておっしゃって、チームの中で誰彼かまわずペアを組ませたんです。それで4組か5組のペアができたんですけど、 みんな1年くらいで辞めちゃって、残ったのが私たちだけだったんですよ(笑)
私たちはオリンピックという目標があったから頑張って行けたんだと思います。

それでも、あの情熱あふれる熱血漢の都築先生の元、全日本選手権で5連覇を果たしたんですよね。練習は過酷だったんじゃないですか?

そうですね。軽井沢の山でトレーニングした時は、リフトをしながら山を下りましたよ(笑)本当に色々なことがありましたね。

それでも、日本のペアでオリンピックに出場したのは、お二人が初めてですよね。

そうですね。当時都築先生は怖かったですけど、情熱はしっかりと感じていたので、この人についていけば間違いないとは思えました。

歌子先生から見た長沢先生

長沢先生のことは、前々からすごくコーチとして尊敬していますよ。ジュニアで活躍中の、三宅星南選手や島田高志郎選手もそうですけれど、その他にも長沢先生はすごくいい選手を育てられていますよね。
もう引退しましたけれど、私は坪井遥司さんのことが凄く思い出に残っています。彼は5年くらい前から私達が主催している、北海道の合宿に引退の年まで何度か来てくれて、ずっと応援していました。
彼は(髙橋)大輔と背格好がそっくりなんですよね。

遥司君は、髙橋大輔さんと同じ岡山県出身で彼にあこがれてスケートを始めたんですよ。
本当に髙橋大輔さんの事が好きだったみたいでよく話をしていました。

私は長沢先生と坪井さんあの関係は本当に素晴らしかったって思っていますよ。

最初彼は、岡山から京都のリンクに通ってきていたんですけど、京都のリンクが無くなってしまって、そこから私が岡山のリンクに生徒を連れて通ったんです。
でも中途半端になるといけないと思って、私は岡山に移住したんですよ。主人をおいて。

ご主人も本当によくできた方ですよね。

そうですね。主人の支えは本当に助かりました。私は、遥司君が引退するとともに、京都に帰るつもりだったんですけど、他の生徒たちも育ってきて、放っておけないなって、結局岡山に残ることにしちゃったんですよ。

岡山にはいい選手がいっぱいいますよね。町田樹さんも高校の時いましたし、無良崇人選手、田中刑事選手。それに三宅選手や島田選手も!男子が強いですね。

環境がいいんですよね、年間リンクがありますし。公営のリンクは、一般の方がいる時にジャンプを飛んじゃいけない所もあるんですけど、一般営業時間にもコーンを立てて、この中ならジャンプを飛んでいいとか決められているので、いつでも練習できるんですよね。

それに、トップ選手とジュニア選手が同じ場所で練習できるというのも良いことですよね。

そうですね。星南や高志郎も、遥司君のトリプルアクセルを見て、すごく刺激を受けていて「自分にも跳べる」って思って頑張っていましたよ。

長光歌子(ながみつ うたこ)
長光歌子(ながみつ うたこ)