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FACTORY721 CS0009 :
THEMSELVES - RYUICHI

 RYUICHI |  SUGIZO |  J |  INORAN |  真矢


── 昔の話から、今の話まで聞かせてもらいます。初めて「音楽っていいな」って思った瞬間って覚えてます? 

RYUICI interview  そうですね、あの、多分、幼稚園ぐらいの時だと思うんですけど、自分のなんて言うんですかね? クラスっていうか、組っていうか、友達たちが2〜30人いる中で、「一人で歌ってごらん」って言われて。曲までは覚えてないんですけど、多分「蝶々」とか「チューリップの歌」なのかわかんないけど、そういう曲を歌ったことがあるんですよ。すごい緊張するじゃないですか、やっぱりいきなり人前で一人で歌わされるっていうことは。でも、その時に、緊張を超える何か快感じゃないけど、そういうのはあったんですよね。自分の声が部屋にこだまするっていうか、ぶつかって跳ね返ってみんなのとこに届いてる感じとか、そういうのがすごく気持ち良かったです。

── そうとう昔の記憶が残ってるんですね。

 そうですね。

── 自分の人生の中で、いちばん最初にある記憶って何です? 

 うーん? いちばん最初ですか? どっちが先かわかんないんですけど、いちばん最初に僕が意識したおうちって神奈川にあって、目の前が林とかで。で、白い犬がいたんですよ。確か、ルミっていう名前の雑種の犬だったと思うんですけど。その後、ちっちゃい犬とかがたくさん生まれたりとかして、雌だったんで。その記憶か、その前に家族で軽井沢に行った時になんて言うんですか? 岩肌っていうのかな? あれって溶岩なんでしたっけ? あそこを走ってね、転んで。今でも傷があるんですけど、自分の膝が割けて真っ赤に染まっていくのを、けっこう冷静に見てる自分がいて。なんかそのへんの記憶がいちばん古いかもしれないですね。

── 傷を子供の頃に冷静に見ている記憶って不思議ですよね。

 けっこうでも、ちっちゃい頃、怪我してるんですよ。エレベーターから落ちて怪我したこともあって、それも足なんですよ。その後、みんなと花火やってて、自分の母親の花火が自分の足の上に落っこちてきて。その時もね、けっこう冷静だったっていうか。ちっちゃい頃で、もしかしたら強がってたのかもしれないけど。あとは、ガラスを強く叩きすぎて割れちゃって、そのまま自分の手が割けちゃうっていうか、切れたりとか。小学校の多分、低学年ぐらいまでの間に、すごいたくさんの怪我。あと、熱によくうなされることがあったから、病院ばっかり行ってる記憶がすごくありますね。

── 聞いてると記憶が客観的なんですよね。話は飛ぶんですけど、詞を書く時にポイントなのかなと思ったりするんですけど、どうですか? 

 人間って誰でも、どんな過去でも、どこか脚色してっていうか、自分なりに記憶の中にファイルする時にね、なんかどっか都合のいいようにトリミングしたりとか、話をすごく大きなものなのに些細なことにしたりだとかしてると思うんですよね。でね、今、記憶っていちばん最初にいろいろ思い出してた時に、やっぱりある種ふと浮かんでくるのは、もうその記憶の象徴みたいな破片みたいなものでしかなくて。こうやって喋ってる中でも、「あんなこともあった」「こんなこともあった」っていろいろ広がっていくんですよね。でも、しょせん広がっていくためのキーワードっていうのは、ものすごく小さくて。作詞家って、けっこうそういうのがいちばん重要っていうか、そういうところで詞を書いてんのかな? とは確かに思いますね。

── 初めて歌って気持ちが良かった瞬間があって、その後、小学生とかになって音楽を聞き始めると思うんですが、歌うことに喜びを見い出しました? 聴くことに喜びを見い出しました? どっちが先でした?

 歌うことですね。僕は記憶にあんまりないんですけど、父親が電気に携わる仕事をしてたものですから、案外ステレオとかが充実してたんですよ。昭和40年だの終わりぐらいだから、僕、45年生まれなんで、本当に三つとか四つとかの頃に、もうすでにうちにはしっかりとしたアンプと、しっかりとしたスピーカーと、ぜんぶ揃ってて。母親がビートルズ好きで、父親はジャズとかオーケストラとか好きだったんですよね。でも、僕は覚えてないんですけど、怒られて泣いたりとか、すねたりとかした時に、ヘッドホンで音楽を聴かせると、すごく気を収めやすかったっていうのかな。泣いててもすぐに笑うようになったりとか。その頃の記憶って本当に定かじゃなくて、本当に後で聞かされたことで。僕の意識の中ですごくあるのは、歌ってて気持ち良かった時のことがすごくあるから。歌って、もしかしたら音楽の価値観自体が、第一声で歌ったことによって、ひらめきなのかチェンジなのかわかんないですけど、変わったのかもしれないですね。

── 音楽は、興味を持って聴き始めた時期ってありました? 集中的に何かが好きになって聴いたりとか。

 母親の影響でビートルズとかはけっこうたくさん聴きましたね。あと、僕、一人っ子だったんですけど、すごく仲良くしてくれた幼馴染みの女の子とか、その彼女たちはアイドルとかが好きだったんで、テレビをつけるとピンクレディが出てたりしてたんですよ、イメージっていうか。確かテレビつけるとピンクレディとか見てたんですよね。あと、お兄ちゃんみたいな、すごい仲良くしてくれた友達が、ビリー・ジョエル好きだったりとか。そう、確かね、もう少し後の話かもしれないけど、ヴァン・ヘイレンが「JUMP!」を出した時も、確かその友達のお兄ちゃんから聴かせてもらったような気がするんですよね。だから案外、自分で掘り起こしたものはないっていうか。案外ちょっとずつハマってるんですけど。多分、「なんで自分がステージの上にいないんだろう?」ってちっちゃい頃もう思ってたんですよね。それは今思うと、すごい生意気なガキだなって感じなんですけど、もうすでに「なんで自分がステージの上にいないのに、これだけ騒がれている人たちがいるんだろう?」。テレビ見て、ピンクレディが出てれば、「なんで彼女たちがこんなに騒がれるのに、なんで僕はステージの上にいないんだろう?」って、小さな僕は母親に聞いて笑われたりしてましたから。どっか昔から自分のことが好きなのか、それとも自分の中に何か物語を見つけ出してたのか。

── それは小学生ぐらいの頃ですよね。ちゃんとステージにいる自分っていうイメージが出来てたわけですね? 

 なんかね。学校で歌とか歌わされて、歌えば誰にも負けない、みたいな、変な思いがありましたね。

── 麻薬みたいなもんじゃないですか、一回歌って気持ちがいいって。やっぱりいちばん最初に人前で歌った時からあったんですか? 

 そうですね。声を出すっていうことは、日常会話で喋ってることよりも、ちょっとだけ特別で。大きな声を出したり、高い音を出したり、カッコいい言い方をすると、ハートが震えてる感じ、身体中がバイブレーションしてる感じっていうのを、多分、幼い頃に感じとってしまったんじゃないかなと。やっぱりそこから自分の価値観ってずいぶん変わったのかもしれないですよね。

── その当時、自分にとってのアイドルっていました? 

 人を惹き付ける存在は、ある種、羨望のまなざしでも見ていたし。ある種やっぱり、なぜ自分が今こういうところにいるんだろう? みたいなことをすごく考えてたから。そうですね、悔しさもあったのかもしれないですね。

── 大人になってここまでやってきてるのって、小さい頃に覚悟を決めてる瞬間があると思うんですよ、恐らく。そういうのを自覚してます? 

 僕ね、何年か前に、これは人から聞いた話なんで、直接そういう話をしたかどうかわかんないんですけど、幾つかのアーティストがね、その時はマドンナの話だったりとか、あと誰だったけかな? 何人かのアーティストの名前があって。なぜ自分をステージの上に、ストイックなまでの毎日を、ある種、辛い毎日を乗り越えてでもステージの上に身を置くことを今でも選ぶのかと。なんかその時に、「自分は小さな頃、愛されなかった」と。「たまたま両親がバラバラになったりして、愛されることが少なかった。でも自分は今、たくさんの人に愛されてるし、愛されることを放棄しないからぜんぜん寂しくない」みたいな。僕もたまたま父親と母親が小学校2年生の時だったかな? 別々の道を歩き出して。でも、その時に不思議と、寂しさとかはあったんですけど、ひねくれたりしなかったんですよね。逆にその時もすごい冷静で、「どっちについてくべきだろう? 母親を守んなきゃいけないのかな?」って思ったりとかして。「父親は可哀相だな。一人ぼっちになっちゃうのかな?」と思いながらも母親に付いていったりとかしてて。その時になんか多分、どこかで自分が人を守らなきゃいけない立場だったり、自分発信で家族とか、愛される形とか、人と人の輪とかを作っていかないと、人が作ったものの上に乗っかってるだけじゃあ、いつでもまた壊れてしまうっていう、それは不信感なのか、そういうものをすごく感じてたのかもしれないですね。どんなことでもいい、その時は歌でしたけど、今も変わらず歌うことがいちばん大事だし、どんなことでもいいから自分の存在を人に伝えたい。当時、多分、「なんで生まれてきたんだろう?」とかってことも考えたと思うけど、誰もが考えたとしても答えはなくて。逆にそんなこと考えなくてもいいぐらい輝いていられる毎日とか、「ああ、俺ってこういうことしてると生き生きしてるな」っていう瞬間とかってあるじゃないですか。そういう光りを集める作業にちっちゃい頃から気持ちがチェンジしてた。その一つとして、いちばん自信があったのが歌だったから、歌なら人を説得できるんじゃないか、人に自分のことを伝えられるんじゃないかって思ったのかもしれなていですね。

── 小学校から中学校とかあがる時に、やっぱり思春期がありますよね。例えば小さい頃だったら何のためらいものなく歌って、照れも何も感じずにいたのが、ある時に人間ってローティーンの時に迷いを生じていろんなものを壊したくなったり疑問を感じて袋小路に入り込んだりするじゃないですか。そういう経験はありますか? 

 うーん? 案外、自分で何がいちばん気持ちいいかとか、何がいちばん自分を伝えられるかって、さっき話したようなことの中で歌うっていうことが大事なものとしてあったんですけど。でも、あまり「努力したなぁ」とか「あの時すごい苦労したな」とか、そういう記憶がないんですよね。小学校の時サッカークラブに入って、べつに普通に友達と遊んでたりとか。でも、その友達と遊ぶなかで、「今度、クイーンのなんとか出たよ」とか、「今、A-Haっていうのがどうだよ」とか、「今、イギリスでこんな人がいて」とか、「デビッド・ボウイがどうなんだ」とか、その歌を当時、ラジカセとかで。ウォークマンとかが多分、出はじめた頃だったと思うんですけど。小学校高学年の頃とかかな、歌をうたったりしてて。でも、テニスやったりとかもしたし、案がいその一つ一つの中に自分なりに何かやっぱり一個世界があるじゃないですか。サッカーならサッカーで、対戦相手も合わせて、コーチとか全部合わせれば50人ぐらいの世界があって。当然、自分のチームメイトの中でも認められたいっていう気持ちはすごい強いし。相手にも自分のプレイはすごいって思わせたいし。テニスはダブルスにしても、そんなに人数はいませんけど。でも、そのクラブに通ってくる数っていったら100人近くいるだろうし。その一個一個の小さな社会っていうか、世界っていうか、そういう中で常に自分をアピールしていたいっていうか。そうこうしてるうちに、気が付くと高校入試が終わってるんですよ。途中いろんなことがあって、サーフィンもやってたりとか、いろんなことがあったんですけど、高校入試が終わって高校に通いながら、ふと振り返ると、なんかすごく今まで自分が歌何となく好きでやってて、その意識の低さに逆に焦りを感じ始めて。歌好きだから、多分、他のシンガーの人とかよりも、もしかしたら小さな頃から歌をうたうことは多かったかもしれないんですけど、プロになろうと思って練習したことっていうことでもなくて、好きだから歌ってるっていう感じで。そうすると、なんか自分で選んだはずの高校入学とか授業とかっていうものが、ものすごく消化する毎日に感じられてくる。で、もうその枚に津のサイクルが、一日一日が不安を積み上げていくような。「このままじゃ俺、高校卒業しても、大学行っても、きっと何にも残らないな」っていう。そのへんからですね、音楽以外のもの捨てたり。サーフィンも23〜4までずっとやってなかったんですよ。とにかく自分を一つの当時あったインディーズシーンっていう、ロックのシーンの中に投影していったっていうか。

── LUNA SEAに関するいろんな本の中で、どの本を読んでも謎が一つあって。今日は絶対にこれを聞こうと思ってたんですけど。INORAN、JのLUNACYと、それからSUGIZO、真矢のバンドが一緒になって、町田のプレイハウスでRYUICHIというヴォーカリストが出てきて5人になるっていう件があるんですけども、どの本を読んでも、今までどんな話を聞いても、ヴォーカルリストRYUICHIという存在が、それまでどういうふう歌ってたんですか? 歌うためには場所とかユニットがいるじゃないですか。

 案外、いい匂いがするところには、自分から顔を出すタイプでしたね。それを直接的にビジネスの匂いって思われるとすごい悲しいんですけど。例えば自分の学校の先輩たちがギター買って、「彼らが今、BOOWYのコピーをやってるらしいよ」とか「彼らは今、ジャパーニーズヘヴィメタルにハマってるらしいよ」と。とにかく自分の回りにある音楽、そういう世界には自分からピンポンと押して遊びに行っちゃうタイプだったんですよ。自然とギター弾いてくれてる中で歌とか歌うと、「おまえ、うまいね」っていう話になって。僕が中学1年生の時、何となく自分でも小学校の時に、僕、小学校の時にギター買ったんですけど、自分でも14歳ぐらいの時から曲作れないものかな? とか思ってやっている最中、周りの先輩とかはコピーバンドとかを作り始めてて。遊びに行ってるもんだから、「文化祭があるんだけど、一曲だけ歌ってみない?」とか。僕、中学生の分際で、歩行者天国で歌ったりね、原宿のホコテン。あとは高校の文化祭とかで歌ったりして。小学校ぐらいからそういうグループでスタジオ入るとかいうと遊びに行ってたりしてたんですけど。「じゃあ、これ手伝うから歌わせて」とかっていう感じで。で、幾つだろうな? 16ぐらいの時かな? いちばん最初のバンドを組んで。その後そのバンドの進化した形のバンドをまた17ぐらいの時に1年間ぐらいでなくなっちゃって組んで。もうそのバンドでは、じつは、目黒鹿鳴館やってたりとかしたんですよね。東京進出はしてたっていうか。でも、ちょうどね、17〜8の頃っていうと、みんなが進路を考え始める時で、僕もさっき言ったように、プロとしての自分の認識の低さ、当然その頃だったら夢みたいな世界だから、その焦りを感じ始める頃で。みんなが「大学行かなきゃ」とか、「家の仕事手伝おう」とかって言ってることと、心の加速度が逆行していくわけですよ、音楽に対して。当時組んでたバンドのギターの子は、自分のおうちが酒屋さんとかで、今、多分手伝ってるか、もしくは就職してると思うんですけど。やっぱり本当に音楽で飯を食っていくと、とりあえず賭けてみると、失敗してもいいから賭けてみようっていう人間がなかなかいなかんったですよね。その時、町田プレイハウスっていうとこで対バンしたバンドにJ、INORANがやっていたLUNACYというバンドがあったんですよね。見た時に、単純に外見一つ見ても、人生賭けてる感じ。当時、僕は中学生の頃から髪の毛とか染めてたんですけど、けっこう毎週毎週、赤にしたり紫にしたりしてるような子供だったんで。あんまりそういう人間っていなかったですよね。やっぱり先生に怒られたりとかするし、なかなかはみ出しちゃって、社会から、うまく生きられなかったりするから。でも当時のね、JとかINORANがやってたバンドの姿勢っていうのは、自分が経験した目黒鹿鳴館っていう場所の、そういうステージに立つ、アマチュアとはいえ、お金もらってる人たちと何ら変わらないものを感じた。話してみると、同年代で。いろんな話をしていくうちに、たまたま僕のバンドは周りが就職したり大学に行ったりする。大学に行って弁護士になる人間もいたし、そういう時期で、解散しようかなっていう時期と、LUNACYにSUGIちゃんと真矢君が入った、別のヴォーカリストが入ってる5人と、そこのヴォーカリストがやめる時期みたいのがすごく重なってきて。「じゃあ、一緒にやってみようかな」って。やっぱりその、趣味じゃない、24時間音楽に賭けたい、これからはそれも意識的に、本当に狙ってる、プロの世界を、そういうメンバーとやっぱり初めて出会えたのは、LUNA SEAの結成の頃ですね。89年5月。

── 鹿鳴館に出てると、当時のアマチュア音楽シーンだと、ある種、頂点極めた感がありますよね。その時に普通だったら達成感をもってしまって、みんなが思い悩んだ進路にもしかしたら進んでしまったかも知れません。そうならなかったのは、場を変えて行く時に、閃いたり、匂いを感じたり、何となく自分だけがわかる、自分が信じてる感覚があったからですか? それって説明できます? 

 そうですね、うーん? 一つはね、出たって言ってもやっとブッキングしてもらって、ライヴハウスの店長さんに「まだわかんないから、もう何回かみてみないとわかんないね」って言われて。そこでの反発心とかもあったのかもしれないし。当時、今から思えばぜんぜんいい歌なんか歌えてたかわかんないけど、でも、人に認められないっていうこと、逆に認めてくれない人間を絶対に認めさせてやりたいみたいな、そういうのも強かったろうし。ただなんか、僕この前、それはあるレコード会社の制作をやっている人間で、小説とかも書いてる人なんですけど、彼と話してるなかでね、「最近のアーティストはいちばん大事なものなに? って言われて、すぐに音楽だって言えない」と。彼なりの物語で、ある時、自分が罪人で、その国を治めてる王様がいて、その王様が「おまえは罪人だから今から首をはねる」と。「でも、もし私を何か自分の得意なもので喜ばせることが出来たら、今回の罪は、命だけは許してやる」みたいな。「もしそう言われたら何にする?」って、何となく和やかな雰囲気の中で聞くらしいんですよ。僕もそういう話した時、「俺は歌だな」ってすぐ思ったし。だから、これをやれば成功するとか、ここにすごく自分の未来があるっていうことよりも、結局、土壇場に立った時に何がいちばん男として得意なことで、何がいちばん自分の存在の重さをちゃんと伝えられるかっていったら、歌しかなかったですね。他のものはやっぱり得意だったり、自信があれば、今はボクシングとかもしますけど、例えば喧嘩してずっと勝つこともあれば負けることもあったし。でも、ずっと勝ち続けていたら、どっかで「俺は世界チャンピオンになる」とかって思ってボクシングにのめり込んでたかもしれないですよね。でも、歌だけだったんですね。当時はやっぱり強がりだし、今でもぜんぜん頂点だなんて思ってないですけど、自信を持って人に聞いてもらおうと思えるもの。なんか歌だけが競争しなくてもいいっていうか。俺の上もいなければ下もいないって、はっきり認知した上で極めていけるものだったから、すごく楽だったのかもしれない。

── 5人が集まった時に、それまでやってきたものと違うって、いつ感じたんだろう? っていうのと、5人みんなで目指す方向が見えた瞬間ってありました? 

 最初は、やっぱりスタジオに入ることっていうのも、すごく特別なことでしたね。バンドで音楽をやるっていうことが、すごく自分にとってスペシャルなものだった。2千円ぐらい持って、2時間ぐらいスタジオ借りて、みんなで出し合ってとか。でも、だんだんそれじゃあ満足出来なくっていきますよね。当然ライヴもやりたくなって、ライヴやったりとか。ライヴやるんだけど、最初は緊張もあるだろうし、自分でものすごく時をなんて言うんですかね? 時に流されてるっていうか。ライヴの30分なら30分の時間が、汗流して終わっちっゃたみたいな。何が残ったのかわからないけど、すごい必死でがむしゃらだった。終わってみて、後でビデオみると、すごいなんかいつもよりちょっとだけ浮き足立ってる自分とかいたりして。でも、ある時にね、これもすごいバンドやってるクセにすごい自分本位なんですけど、自分が歌ってる曲で、オリジナルかカバーかわからないですけど、バラードで自分が感動してしまう瞬間っていうのが訪れたんですよ。その時にもうこの匂いを逃したくないっていうか。そこからは本当の麻薬。マラソン選手が途中でランナーズハイになって、すごく息苦しくて、苦しくてしょうがない、でもその先にある光みたいなものに誘われちゃって、走ることがクセになっちゃったりするのと同じように、歌をうたって、本当に全身がある種、感電したようにバイブレーションしてる。こんなすごい歌をうたってるんだっていう。まあ、自分の価値観のなかでですけど。多分、想像を超えちゃった時だと思うんですよね。それってなんか、ある種なんか小説とか映画とか、いろんな世界にちょっと特別なものがあると思ってるんだけど、じつは現実のが一歩進んでて。現実は小説より奇なりっていう言葉じゃないけど、とんでもないドラマを起こしてくれる。そういうものも感じたし。すごいリスキーなんだけど、ものすごいそこに気持ちいい世界があったからねその時「これだ!」って思ったのかもしれないですね。で、その後また変化したことがあるとすれば、最初は本当に客席とステージの上に、目には見えないけど、重い、分厚い壁が一枚あって。おキャラクターさんは見ててくれと。俺たちは、ただ自分たちの気持ちいいことをすると。それを見たきゃ見ればいいし、帰りたきゃ帰ってくれって。すごい突き放した世界。でも、ある時なんか、それまで例えば、自分の歌を聞いて泣いてくれたり笑ってくれたりする人を見てもそんなに実感持たなかったんですけど、その子の友達を連れてきてくれるわけじゃないですか、口コミで広がって。気が付くとライヴハウス一列一列増えていくんですよ、毎日毎日。その時にね、なんか自分だけの力ではない、「ここにもしかしたら上がらせてもらってるのかな?」っていうような。「ああ、マスターベーションじゃダメだ、音楽は」って。かと言って、未だに何をやったらみんなが喜んでくれるのかっていうことは、みんなが十人十色だから、考えないようにしてるんですけど。でも、やっぱり来てくれた人に対して、すごく優しくなれる自分がいた。

── 5人になってわりと初期の頃ですか? 

 そうですね。ライヴハウスをいっぱいにするぐらいの頃じゃないですかね。なんで自分たちみたいなね、もちろん光輝く何十万人って集めるようなステージの上を想像してたし、自分も絶対に立つと思ってたんですけど、方法論も見つからなければ、まだ疑心暗鬼だし。愛されたいっていう気持ちが強いっていうことは、すごい疑う気持ちも高いわけじゃないですか。だから、どっかで壁を作ってたと思うんですよね。でも、ある時その壁を逆に客席側から壊されて、ハッとしたらワンマンを自分たちがやるっていうよりも、みんなにやらせてもらってるっていうか、立たせてもらってるっていうか。

── それが今のライヴのMCにつながってるんですよね。

 そうですね。

── インディーズの時代からメジャーに行く時っていうのは、もちろん抵抗はなかったと思うんですが、周りのシチュエーションとか、自分を取り囲む環境とか、何か居心地の悪さを感じたことはなかったですか? 

RYUICI interview 一つやっぱり今でも思うのは、常にふるいにかけられてる気は今でもしてますね。だから、どんなに増えてっても、一回ライヴ失敗すれば、全部ね、あぶくのように弾けてなくなってしまうものだし。あとやっぱりメジャーシーンに対しては、なんか「どっかで騙されるんじゃないか?」みたいな。「変な大人たちと関わると、自分の人生メチャクチャにされちゃうんじゃないか?」みたいな、すごい疑いの目っていうか、恐さってありましたね。今となっては、どんなメディアにも、どんなプロデューサーでも、自分っていうものをなんて言うんですか? もし魅力を感じてくれてるとしたら、それは精神的なことじゃなかったとしても、ビジネス的にドル箱だと思ってたとしても、絶対に騙されるっていうことってあんまりないのかなと、今すごい思うようになにりましたね。結局、例えば僕がプロデューサーで、誰かアーティストをやろうと思った時に、そいつらが絶対に光ってくれると信じて曲書くし。そこでもし向こうに疑られて、「もっといい曲かけないんですか?」とか言われても、そういうことじゃないっていうか。だから、お金を持ってるたくさんの大人たち、でも絶対にお金になると思ってやってくれるわけだから、自分らは信じていい音楽作って、一人でも多くの人に聴いてもらいたいって思う。でも、インディーズからメジャーに行く時は、なかなかそういうシンプルな考え方って出来なかったですね。だから、よく月々に絶対に生活できないようなお給料しか与えられずに、行くと泊まるとこころもないところで、たらい回しのようにライヴをやらされるバンドが昔いたとか、そういう悪い印象っていうのがずっとあるわけですよね。興行の世界とかでもそうだし。でも、そういうビジネスの器の小さい人たちと出会わないようにしたいとは思うんですけど。もしそれが僕よりも上手で、何十億かポケットに入れてやろうって思ってる悪い人と出会ったとしても、その時には自分の音楽がそれだけ多くの人に伝わってるっていうことですよね。だから、基本的に偽善でもなんでもなく、自分の私腹さえ考えなければ、こういうクリエテイィヴとまったく別のとこでビジネスを考えてるスタッフは必要だし。その間に騙されるっていう関係性はあまりないのかなと。

── 騙されることとの闘いだったんですね。メジャーになって確実にステップアップして、バンドの勢いと、バンドを構成する人間の勢いがバラバラになる瞬間があって、1年間休止したと思うんですけど。バンドを構成する人間の勢いが変わり始めたのっていつでした? 

 僕は東京ドームが決まったあたりからでしたね。なんだろう? 日本でいちばん大きいところって名前が付いちゃってるとこでやるっていうことが決まった時に、今まで自分が愛してもらいたいっていう気持ちとか、バンドとして認めてもらいたいっていう気持ちが、少しなりともちょっと満たされちゃったような気がしたんですよ。ここに胡座をかいて座ってしまったら、裸の王様だな、みたいな。すごい恐いことだと思い始めて。じゃあ、どこに対して目を向けていったらいいんだろう? その時に、自分のなかに世界ってあるかもしれないし、まったく音楽を聴かないような人たちに音楽を聴かせる、新しい伝達の方法があるのかっていうことを考えることかもしれないし。何でも良かったんですけど。なんかこのバンドはね、音楽性もね、ソロやってもわかったんですけど、やっぱりバラバラじゃないですか、ある種。でも、精神性だけは一つ筋が通ってて。音楽で人に認められたい、逆に言うと、音楽が自分たちのいちばん得意な武器であるっていうか。なんかその目標みたいなものが少しね、ぼやけてきた時に、ちょっとだけ満たされた時に、ちょっと変わってきたなって思うようになりましたね。

── 東京ドームが決まった込めっていうと、けっこう前ですよね。わりとメンバーのなかでは、早くから感じたんですか? 

 そうなのかな? そういう話はあまり。「今こう思ってる」とかって、ダイレクトに伝えない。けっこう1年ぐらい経ってから、「ずっと思ってるんだけど」って話したりするんで。時期がいちばん早いかはちょっとわからないですけど。

── 東京ドームが決まる前までは、とにかく前に突き進んでいたわけですが、いわゆるゴールみたいのが見えてますよね。東京ドームって、ある種、ゴールだったんですか? 

 一つ目のね、ある種、ゴールかもしれないですね。そこまで「イメージはこうだ」とか、「音楽はこうだ」とか、とにかく得意なものを凝縮して凝縮して、「人前に出る時、自分はどんなふうに見られるべきか」とか、いろんなことを肌で感じながら、多分、計算してもそんなに器用には出来なかったと思うんですけど。その「いちばんカッコいい形って何なんだろう?」ってずっといったら、「あれ? 気が付いたら日本でいちばん大きいとこやろうとしてる自分がいるんだ」って。そうなった時に、ちょっとでも甘えが何かあると、「これがいちばんカッコいいことなんだから、このまま行けばいいんだ」っていう、前に進めない、ある種、今までの自分たちのイメージとか、音楽の方向性を守らなきゃいけない自分たちがどっかで現れ始める。多分、CDの売り上げで言うと、僕らはライヴ先行型だったと思うんですよ。100万枚売れる前に東京ドームやったんで。多分、日本でミリオンとか出した後にアーティストが「じゃあ、自分たちらしさって何だろう?」って悩む瞬間みたいな。焼き直しのものをやったら、ファンは喜ぶのか、それとも飽きられるのか、みたいな。でも、自分たちには、また新しいいろんなやりたい面もあるし。逆に言うと、人間は多面体なわけだから、その曲一曲でイメージ付けられても、なんか窮屈でしょうがないし。でも、ある種、自分たちで信じてやってきた形が、東京ドームっていう一個、今思えば小さいかもしれないけど、小さなトロフィーというか、小さな安心感を心のなかに与えてしまった。その時に窮屈になるのがすごく嫌だった。もしその後、自分たちらしさみたいなのを、過去の自分たちから継続して無理やり守ってやらなきゃいけないんだとしたら、がせっかく前無かってたものが、少しブレーキがかかるような気がして。

── サーフィンを再び始めた時期と合ってません? 

 もう何年かやってましたけどね。もう一つ自分のなかの意識としてね、メジャーの1枚目を出した頃、すごいエクステンション付けたりとかして。日本一長い髪の毛とかいって、イギリスのジェーン・チャイルドとかすごいカッコよかったんですけど、エクステンション足首まで付けてたりとかしたんですよ、僕。人と違うこととかすごい好きで。でも、だんだんその「人と違うっていうことが、もし売りになってたらどうしよう?」「音楽はいったいどこに行っちゃうの?」「俺がジーンズとTシャツでステージに上がって、シーンとしてたらどうするわけ?」「歌はどれだけの魅力があるの?」そういうクエスチョンマークが、それもすごい些細なことだったんですけど、心に浮かんだ時に、もう嫌で嫌でしょうがなくなりましたね。そういう形はカッコいいんだけど、裸でも勝負できないと。結局ディズニーランドとか、どこでもいいですけど、キャラクターが立ってる世界ってあるじゃないですか、すごい世界って。自分が作者で、いつの間にか自分さえもキャラクターにしてしまっているっていうアーティストがいるとしたら、恐いなって。出来たら生身でも勝負したいって、髪を切ったり、メイクを薄くしたり、衣装もラフにしたり。その時はすごい冒険だったんですけど、どんどん自分なりの武器というか、盾というか、武装していたものを外してったんですよね。クールダウンして。そしたら、たまたまそれがまた反響とかが良くて、みんなが後押ししてくれて。最初はみんなメンバーもスタッフも「どうして今の時期にそんなことするわけ? メジャーデビューしたばっかなのに」っていうのは、多分あったと思うし、そういう視線も、そういう言葉もいくつか感じたり聞いたりしたけど。だんだん自分がナチュラルになる方向に軌道が向かっていったんですよね。もっと歌で勝負したい、もっと歌で勝負したいっていった時に、さっき言った東京ドームが見えてきて。「まだまだ自分は完璧でもないし、100パーセント満たされてないのに、おいおい、もう日本でいちばん大きいとこやっちゃうのかよ?」みたいな。俺は、愛してたけど、当時の自分も。でも、今の形をすべてだと思って、これからも焼き直しの毎日を過ごしていかなきゃいけないっていう強迫観念に教われるのはまっぴらごめんだ、みたいな。そのへんからでしょうね。なんか裏切りたいと思い始めたのは、いい意味で。

── ボクシングを始めたきっかけは? 

 ボクシングは、高校の時に、僕の仲のいい先輩とかがキックボクシングとかやってて。で、僕は中学ぐらいまでけっこうやんちゃで、高校の時もちょっとやんちゃでっていう感じで。でも、その頃はずいぶん、そんなべつに人と喧嘩をしたからどうのっていうのはなくなってた時期だったりもして。よくね、先輩の練習相手というか。「ちょっとおまえ、そこでこれ持ってろ」とか言われて持ってると、思い切り蹴りが飛んでくるみたいな。でも、今までね、憎しみから喧嘩したりとか、もしくは、じつは好きだったりとかして喧嘩したりとかしてるわけだけども、純粋に強くなりたいっていう形もじつはすごいカッコいいなと。精神的な弱さがどんどん消えてくんだってその先輩が言ってて。僕が高1の時に高校3年生だったんですけど、なんかカッコいいなと思って。やりたいことの一つだったんでしょうね。22〜3の時に波乗り始めた時に、ボクシングジム通ってたのがあって、そこは半年ぐらいで。夜の8時半までしかやれないとこだったんで、結局ほとんど行けずにやめちゃって。今のジムは、夜の11時ぐらいまでやってくれるんですよ。案外行けて、いいなと。森脇健司さんに紹介してもらったんですけどね。最近は本当に夜中まで仕事することが多くて、ここ半年ぐらい行けてないんですけど、家では毎日練習してますね。

── ナチュラルになっていくという行為と、ボクシングをやってるって、一緒なんですよね、突き詰めるときっと。

 やっぱり精神的に強くなりたい。「何があったって動じないよ」って、ここで例えば啖呵切ったって、家を出た時に車に轢かれて死んじゃうのかもしれないし、大きな地震がきて巻き込まれちゃうのかもしれないし、火事になって逃げられないかもしれないし。人生のすごい悲しみにぶち当たって、自分の人格さえも壊れてしまうこともあるかもしれないし。わかんないけど、でも一つ一つのこと、自分の中にある恐怖心とかって、絶対に自分が弱いから前に進めなくなることってのもあると思うんですよね。だったら頑張ってみればいいじゃんっていう、なんかそういうポジティヴなものに切り替えられた時期でもあったのかなと。

── 「1年間休もうよ」って言うタイミングは、その精神状態とリンクしてるんですかね? 

 うーん? すごい今思うと、LUNA SEAが97年に活動休止しますっていうのを決めるのは、すごい勇気のいることだったし、賭けだったし。でも東京ドームやって、その後「STYLE」っていうアルバムとかね、まあ、96年の終わりに横浜スタジアムでライヴやったりするわけですけど、あのまま行ってると、LUNA SEAらしさっていうのは、いつかやっぱりさっき言ったように守らなきゃいけない形になっているような気がしちゃって。そうすると、呼吸できない、すごい窮屈な空間、そういうなかで毎日生きていかなきゃいけないような気がしちゃってね。やっぱり一度ローテーションを壊すっていうことは、すごく勇気のいることだったけど、すごく大切なことだったのかもしれないなと思いましたね。

── 言い出した時に、戻れる自信や強さは出来てたんですか? 

 僕は、結果的に再確認できたわけですけど、「こいつらが必要だ」って全員が思わないとおかしいと思ったんですよ。僕も他の4人がどれだけすごいのか、他の4人が音楽を作ったり、もしかしたらソロをやらずに旅に出るだけのメンバーもいたかもしれないけど、その中で得てくるものっていうのを本当の意味でみてみたかった。逆に自分のことも試したかった。自分がやるソロにおいて、他の人間に「やっぱり歌はこいつなんだ」って。そういう、ある種の賭けっていうのは、やっぱりちょっとありましたよね。もう一つは、もし誰かがLUNA SEAみたいなことを一人でやってたとしたら、すごく寂しい気持ちになってたと思うんですよ。みんなのソロにはLUNA SEAらしさってどことなくあるんですけど、でもやっぱりその人間らしい音楽を作ったと思うんですよね。ということは、LUNA SEAの音楽っていうのは、この5人じゃないと作れない音楽っていうことになりますよね。その時に5人で音楽を作る必然性がはっきりと確認できる。逆にいうと、「一人でも立っていられるけど、5人でやったらもっとすごいぜ」とか、「5人でやったらこんなふうに色が変わるんだよ」とかって、自分としてもすごい幅か持てるっていうか。これからも変な話、本当に心から話し合える人間っていうのは、それが例えば画家の人であろうと、普通のサラリーマンであろうと、スポーツ選手であろうと、芸術に携わってない他の人であろうと、どんな人であろうと、その人間にしか出来ないことがあって、そういうのを持ってて、なおかつ自分に出来ないものを持ってたりとかすると、なんか、らしつとか感じるじゃないですか、やっぱり。そうすると、話しててもすごいほっとすると思うんですよね。それが何となくその流れの中に身を投じて、自分のらしさも何もないまま、自分らしさを僕も探してますけど、一つも愛せてない、そういう人とは、どんなに友達になろうと思っても、本音で言ってもかわされちゃうじゃないですか。「そんなこと言ったって」って。すごくだから僕は、らしいアルバムをみんなが作ってくれて嬉しかったし、みんながバラバラなこと出来たっていうのも嬉しかったし、当り前のように96年の10月1日に集まってスタジオに入れたっていうのも嬉しかったし。今、で作ってる音楽も、そのクオリティというか、熱みたいなもの、すごく充実してますね。

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