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FACTORY721 CS0009 :
THEMSELVES - J

 RYUICHI |  SUGIZO |  J |  INORAN |  真矢


── 昔のことから聞いていきたいんですけど。一番最初に音楽とか曲を聴いていいなと思ったのは、いつぐらいですか?

 うーん? 音楽っていうか、ロックの良さをいいなと思ったのは、中学校に入ってから。その前にぜんぜん歌謡曲とか、音楽っていうものを意識して聴き始めたのは、小学校の3年かな? 4年ぐらいで。ラジオでやってるヒットチャートの番組とか聴いてたのを覚えてます。

── 音楽っていうのは、遊びと一緒で友達とか、先輩とか、家族とかの影響を受けると思いますが、小学生の時に歌ったりしますよね。その時にいちばん影響を与えてくれた人っていました? 

J interview とにかく今思うとマセてたガキで。いつも子供扱いされるのがすごい嫌なガキで。その延長で多分、その年、小学校の低学年ぐらいの頃って、まだ周りに音楽とかそういうヒットチャートものを聴く人間が周りにいなかったっていう。本当にそういうことを知ってることが、優越感に浸れるっていうか。だから、音楽を聴くというスタイルから入っていったのかもしれないし、逆にそこからだんだん音楽の良さを知っていったのかしれない。最初にそうだなぁ、ステレオとかそういうのに興味があったりとか。友達と、悪い仲間と一緒に遊んでる時に、「おい、あれ聴いたかよ?」とか、そういう話の延長で聴いてたような気がする。だから、その時はまだぜんぜん、そういう意味では音楽の「お」の字もわかんないっていうか。今でもわかんないんだけど。まあ、遊びの延長は本当だったかなっていう。

── 当時のマセガキのとき、友達に自慢してたことは何だったんですか? 

 人よりそういうアーティストっていうか、音楽を知ってたっていうことかな。違う分野っていうか。学校で起こることとか、それ以外のところでそういう知識があったっていうことなのかな。

── 学校って嫌いでした? 好きでした? 

 友達がいたのは、すごい好きだったんじゃないかな? ただ、勉強の意味とかは、最初っから最後までわかんなかった。ある意味ですごいね、今考えると要領良かったなと思うんだけど。何にもやんなくても出来たし。そんなに必要性を感じてなかったし、ただなんか学校に行ってたっていう感じ。

── 音楽とかバンドとかやる時に、だいたい学校の教師って、良くないもの見るような目で見るじゃないですか。そういう経験とかが逆にバネになってやってやろうとか、そういうきっかけとかはなかったですか? 

 だから多分、今思うと、人と違いたかったのかなっていう。本当にロックの原体験っていうか、いちばん衝撃を受けたのはパンクロックだったんですよ。で、まだぜんぜんパンクロックっていうものが何を意味してるかもわかんない時代だし、字面上のものでしかなくて。いわゆる洋楽とかいうのもぜんぜんわかんなくて。でも、それを聴いてること自体が一種のなんて言うのかな? その当時にしてみればクールなことで。で、本屋で立ち読みした、何にもわかんないロックぞっしとか見た時に、グラビア多分あれはセックスピストルズだったと思うけど、写真を見た時に、「これだ!」って思っちゃったっていうのがあって。そっからかな。

── いくつの時ですか? 

 中学校入ってすぐか、小学校の終わりぐらいか。ちょうどグレ始めてた頃だから。

── 初めて聴いた時のことって覚えてます? 自分で望んで聴こうと思ったわけでなくて、偶然入ってきたような気がするんですけど、そういうの。

 あのね、まだその当時、塩ビ盤で。レコード針を落として聴いた時に、この世の中にこんなにカッコいい音楽っていうものがあるのかっていう衝撃を感じたのは今でも覚えてる。それまでは本当に、日本の歌謡曲とか、それこそ学校で習う歌、そういうのしか存在してないと思ってたから。本当になんかもう、俺にとってはすごい衝撃だった。歪んだギターと、すごいがなってるヴォーカルとか、すべてがもう新しい世界で。その時、自分が多分、自分のなんて言うのかな? 抱えてた苛立ちとか、自分の精神状態がすべてそこにマッチしちゃったんだと思うんですよ。こんな音楽がこの世にあったんだっていうぐらい。で、その瞬間になんかニヤッとしちゃうっていうか。それはすごい覚えてる。

── その時の周りの状況っていうのは、自分としてはいろいろあったんでしようか? 

 っていうかね、今思うとですけど、べつに何かが足りなかったわけでもなくて、何か原因があったわけでもなくて、ただ単にイラついてたっていうか。今、本当に冷静に分析してみると、逆にそれが苛立ちの原因っていうか。自分は特別な存在じゃないっていうものが。右向けば、左向けば同じような人間がたくさんいて。で、自分のその土地の風景から見る、例えば街を見ても、決まりきった将来しか思い描けないこと。例えば本当に成績よくなってね、いい学校入って、それが良しとされてる時代だったけど。でも結局、駅のあたりで遊んでるとさ、疲れ果てた大人がいっぱい降りてきて、「結局、俺らが行く道ってこういうとこなのか? 嫌だよな、そんなの」とかね。なんか本当に特別じゃなかったこと自体にイラついてた っていうか。そのくせ見る夢が全部けずられてるような気がしてたし。自由なように見せておいて、自由じゃないこの世の中にイラついてたっていうか。今思うとですけど、それはあったかな。

── そういうのを見て、楽器で、音楽でいこうと思ったんですか?

 それが決定的な要因ではないけど、「ああはなりたくねぇな」ってすげぇ思ってたんですよ。なぜか知らないけど。本当に「あんな大人にはなりたくねぇな」とか。

── 楽器を初めて手にした時のことを。

 俺、姉貴がいるんですよ、5歳上の。その姉貴もロックとか好きで。ロック聴き始めるきっかけの時にも、多かれ少なかれ影響はあったと思うんだけど。その姉貴が弾いてるとこは見たことないんだけど、ベースという楽器を持ってて。姉貴の部屋に忍び込んで、わかんないように弾いてた思い出がありますけどね。

── 最初からベースなんですか。

 うん。その当時つるんでたみんなで「バンドやろうぜ」っていう話になって。本当に不純な動機だったと思うんだけど。例えば楽器を弾けるようになって優越感に浸りたいとか、女の子にモテたいとか、そういう本当にどこにでもあるような動機で、みんなで「やろう」っていった時に、今思い浮かべると、10人ぐらいいたんだけど。それすらも、編成すらもわかってないっていうぐらいのレベルで。みんな立候補制にしようっていった時に、「ヴォーカルやりたい奴」って言った時に、誰も手を上げなかったんですよ。「ギターをやりたい奴」って言ったら、10人全員手を上げちゃったのね。その瞬間に「じゃあ俺ベースやる」って言ってからずっとベースかな。その当時から人と同じことするのが嫌だったのかなって思うし。でも、「ベースやる」って言ったわりには、ベースが何なのかぜんぜん知らないし。そっからですかね。

── 話は飛びますが、1年のソロの後に12月のBLITZのライヴの時、めちゃくちゃベースが変わったと思ったんですよ。すごいソリッドでクリアになった気がして。ベースっていうのはバンドの要じゃないですか。それが1年間、Jさんはきっとソロ活動、休止するっていうことに対して賛成してなかったと思うんですけど、賛成してなかったながらも、その1年間を経たことによってベースがよくなったと思うんでけすど、ご自分でそう思ったことは?

 それ以前とはやっぱり、もしかしたらっていうか、多分、ベースに対する考え方ってすごい変わってきてる気はしますね。やっぱり向こうの連中と一緒にやって、リズムの重要性とか。本当にリズムってドラムだけじゃなくて、ギターもベースもそうだし、ヴォーカルもそうだし。人の持ってるリズムの重要性っていうかをすごい肌で感じて。それはあったな。だから、それが徐々にベースにも出てきてるのかなって思うんですけど。

── また話は戻りますが、ベースって何だかわからないで始めたそのバンドは、どれぐらい活動したんですか? 

 活動ぜんぜんしてません。一週間で何もしないで解散しましたからね。それほどだから、なんか本当に初期の頃。初期っていうか、ガキの頃。

── バンドをやることって、麻薬みたいなもんだと思うんです。とり付かれた瞬間っていうのがあると思うんですよ。それはいつぐらいで、どんなバンドをやってる時でした? 

 うーん? いつ頃だろう? やり始めてから思ったのと、初めてライヴとかを見て思ったのと、二通りあって。やっぱり自分で足を運んで。何のコンサートだか忘れちゃったけど、始めてライヴっていうものを見た時に、震えが止まらなかったのを覚えてる。その瞬間、「俺もあの場所に立つ人間になりたいな」って純粋に、単純に思った。自分がやっぱりライヴの魔力にとり付かれたのって、やっぱりLUNA SEAが始まってからかな。

── 音楽で生きていこうとかって、わりと覚悟を決めて始めたほうではないんですか? 

 そうですね。今でもそうは思ってて。その当時も、ガキの頃も「音楽やりてぇ」、「ロックしたい」、「絶対に普通の職業になんか就かねぇだろうな」って自分で思ってて。で、なんか変な自信もあったりして。でもなんか、それと同時にいつでも自分を「たかが音楽」っていう場所に置いときたいっていうか。だから一生懸命やるし。ある意味で、いつもフルテンションっていうか、100パーセントでいて、いつでも自分をその場から引き降ろせる場所にいたいっていうか。依存したくないんですよね、だから。初めて音楽やってこうと思ったのは、高校の時かな。高校の時に、「もう俺にはこれしかない」って思った。

── INORANと一緒にしばらく活動して、その後3人に出会ったんですよね。その当時のこと覚えてます? 人ってそれぞれ人生の中で何人かのキーポイントになる人間と会う瞬間がうあるんですけど、それ「あ、ひょっとすると長いぞ」って予感させる人間がそうなったり、ぜんぜんそう思ってないのに長くなっちゃったり。いちばん最初のINORANから始まって、真矢、SUGIZO、RYUICHIっていう4人と知り合っていくわけですけど、それぞれの出会いの瞬間とか、その時のエピソードとか覚えてます? 

 INORANと会ったのは、本当に中学校1年か2年の頃。今でも覚えてるのがね、ハワード・ジョーンズの「What is love?」が入ってるアルバムをINORANが持ってて、それを「貸して」って言ったのが彼と最初に言葉を交わしたきっかけ。それからかな。その時はね、「長くなるな」とか、ぜんぜん思わなかったりして。ただ、時間が経てば経つほど、本当に俺と同じ価値観を共有できるっていうか。本当に周りが音楽とか好きになっていくけど、やっぱりそれはその時に興味があることの一つでしかなくて。でもなんか、俺とINORANはそこに没頭っていうか、しはじめてた。ステップをどんどん踏み始めてて、「次はこういうアルバムが聴きたいよね」とか、「楽器が弾きたくなってきた」とか「バンドが組みたくなってきた」とか、聴いてるだけじゃ収まらなくなってきてっていう。それはもう本当に自然発生的に。高校も一緒の高校に入って、バンドやってくなかで、その地区ってあるじゃないですか。そこで「あの学校にはうまい奴がいる」とか、「あの学校にはすごい奴がいる」とか、そういう情報ってすごく入ってきて、その中にSUGIZOと真矢がいて。で、その当時、自分らもバンド組んでたから、お互いに会館を借りたり、自主コンサートとかやったりしてくうちに知り合ってったっていうか。さっきも言ったけど、好きなものの中の一つっていうんじゃなくて、彼ら本当に多に没頭してたし、自然と時間が経てば、みんな音楽対するなんて言うのかな? 熱っていうか。俺らみたいに絶対バンドで、バンドっていうか音楽で振り向かせてやるっていうか。そういう気持ちを持ってる人間たちが自然に残っていったっていうか。その精神的な結び付きの部分がすごい、INORANもそうだし、SUGIZOも真矢もそうだったっていうか。最終的にライヴハウスで出会うRYUも、「やってやるんだ」っていう気持ちがすごい近かった。5人会った時には、本当に、今ここにこうしていること、こみうやって登り詰めてくることは、確信は、予感めいたものは、すごいあったかな。それ以外の不安要素はまったくなかったっていうほうが合ってるかな。

── 高校の時に一緒にやってたメンバーとかが、若いうちだからできたけど、これ以上は出来ないとか、悩むわけですよね。そんなことは一回もなかったですか? 

 それはあったな、でも。最終的にはね、自分の中でもう一人自分がいるみたいに、「どうなっちゃうのかな?」っていう自分もいたりして。でも、なんかそれを打ち消してくれたのは、高校の先生なんですよ、じつは。高校の時分に、高校時代って、俺、ある種の執行猶予だと思ってたのね。高校のうちに形になれば、誰もが認めてくれるだろうなって。バンドって、音楽なんて、今でもね、海のものとも山のものともつかないし、誰もが反対すると思うし。その中で、高校時代って執行猶予でと思ってたんですよ。で、バンドやり始めてから、日本のインディーズシーンとかも見たりとかして。そんなにね、一夜にして俺たちが望んでる場所には行けやしないんだなっていうのを、なんか感じてきて。もっとうまくなんなきゃいけないし、もっとすごくなんなきゃいけないし。だから、まだもうちょっと猶予を延ばしたいなと思って、大学行こうと思ってたんですよ。それでその時の学校で教わる英語っていうのが、得意だったから、他の科目より。で、英語の学校に行こうと思って。ちょうど高2の時の担任の女の先生がいるんですけど、学校終わってから、2時間3時間いつも教えててもらってたんですよ。この俺が。で、ある日ね、言われたことがあって。「君はいったい何になりたいの?」って言われた時に、その先生すごいいい人で。いい人っていうか、よく先生から嫌われる先生っているじゃないですか。生徒の気持ちをわかってくれて、生徒の自主性を活かしてくれる。ダメなことはダメって言うし、でも、みんなの気持ちをわかってる。本当に先生から嫌われる先生で。だからこそ俺も彼女にならすべて話せるなって思って。「じつはね、バンドやりたいんだよね。でも、まだ時間もかかると思うし、本当に執行猶予期間が欲しいだけなんだ」って、今みたいに本当にそう言ったんですよ。そしたらね、顔色が変わってきて、「そしたら私は教えない」って言われたの。俺もびっくりして「どうしたの?」って。「あなたが好きなことをやらないで、どうするの?」ってその一言。その一言ですべてに決着が付いたっていうか。いちばん最もなことを言われたっていうか。「そうだよな。すげぇ俺カッコ悪いことしてたよな」って。その時にね、「俺はもうこれでいくよ」って。いくことによるリスクもちゃんと背負うよって思ったのが高2の夏過ぎぐらいかな。

── 同じ匂いのする人だったんでしようね。

 今思うと、やっぱりあの一言が、俺を踏ん切りさせてくれたっていうか、背中をボンッて押してくれた一言だったかなって思う。「やりたいようにやりなさい」っていうね。

── あとは迷いもなく?

 迷いはまったくなかったですね。多分ね、うちの高校で、うちの年の卒業生で進路が決まってなくて高校を卒業したの、俺とINORANだけですよ、多分。

── 卒業式とか、その日で終わりってあるじゃないですか。進路が決まってないと、翌日から行かなくちゃいけないところがないじゃないですか。自分からこうしなきゃとかヴイジョンはたててたんですか? 

 もう逆に言えば、余計な時間っていうか、自分のやりたいことを妨げる時間がなくなったなっていう気。だから、一日中音楽聴いてたし。時間さえあれば楽器弾いてたし。いい器材が欲しかったから、バイトもいっぱいしたし。全部がそこのために動いてた気がするな。

── インディーズシーンで活動を始めて、インディーズは決して恵まれた状況じゃないじゃないですか。実力だけじゃなくて、運も必要だと思うんですね。世の中の人たちは、運を実力で引いてきて。インディーズ時代にもどかしさとか、そういうのはどうやって解決させてました? 

 あまりもどかしさを感じたことがなかったって言ったほうが。絶対そこに行くんだろうなって確信があったから。絶対にこのシーンを登り詰める自信もあったし。不思議と失敗するイメージはまったくなかったんですよ。本当にライヴ終わってから、その日にやったライヴのビデオ見て、みんなで「ここをもっとこういうふうに直そうよ」とか「こうやったらもっとカッコ良くなるよね」とか、それの繰り返しだったし。時間がある日は、みんなが集まって練習してた。どんどんライヴやってた時に、口コミでお客さんが広がり始めて。そうだな、その当時ちょうどそれとまったく同じ時間軸でバンドブームってのがあって。すごい加熱してて。それを冷静に見てたら、「なんか俺たちやれんじゃん」「俺たちのほうがカッコいいじゃん」って思ったのもあったし。あとはそういうテレビ番組とか、ぞっしとか見てても、すごいとか言われてるバンドとかいっぱいあって。「そんなにすごいんだ。じゃあ、一回ライヴ見に行こうよ」ってライヴ見に行ったら、ぜんぜんすごくなかったりとか。「なんなの? この世界は」って思ったのがいっぱいあって。なんか冷静にメディアとかシーンとかに対しては、属したくないと思ってたし。俺たちはそこでぜんぜん別なんだっていう意識は、すごいあった。あの当時、すごい実力のあるっていうか、すごい見ててもカッコいいバンドも何バンドか見たし。でも、だいたいはもう、なんか「あれ?」って思うバンドも多かったし。そういった意味では、そこに便乗しようとも思わなかったし、それを利用しようとも思わなかった。

── だから今の形ができ上がったと思います。紆余曲折ありつつも、メジャーに躍り出てくるわけじゃないですか。バンドブームが終わった頃ですよね。レーベル会社とかと契約して、やらなければいけない仕事も、音楽以外に増えていきますよね。音楽をやっている人たちはとまどいもあると思うんです。「なんでこんなことやらなきゃいけないんだろう?」って。そういう迷いとかありませんでした? 

 具体的にどれがどうだったかっていうのは、覚えてないけど。ある意味、LUNA SEAっていうのは、自分たちで納得したものしかやらなかったし。正直言って、メジャーデビューしたっていうことも、正直言って、武道館ぐらいまでだったら自分たちで出来るだろうって思ってたぐらいだから、俺個人はね。誰の手も借りずに。でも、そういうふうにやってくうちに、少しでも多くの時間を音楽につぎ込みたいと思うから、ある意味で衣装を管理したり、ある意味でお金を管理したり、ある意味でプロモーション活動したり。そのり大もとは僕らが握ってるけど、僕らの意志を継いで動いてくれる人間。だから、だんだん規模が大きくなってった時に、そこに時間を食われるなら、本当に音楽に向かっていきたかったっていうのがあって。結局メジャーデビューっていう形をとったというか。やっぱりでも、そこにはね、僕らの音楽を理解してくれてた人間がいたから、ここに至ったわけなんですけど。さっかきら先も、その前も、自分たちが「ええ? 嫌だな」っていうことは、いっさい今現在もやってないから。そうだな、あまりそういうことはないかな。

── 一回、そうとう苦しんでた時期があるじゃないですか。今になって客観的に苦しみ始めてる心の流れと、そこからずっと復活してく時の流れっていうのを追ってみると、どんな感じでした? 

 そうだな、憧れてた、ガキの頃に雑誌で見て「ワォ」って思ったその風景で、音、そういう自分のイメージが、こういうメジャーのシステムとか音楽のいわゆる業界に入ったことによってどういうふうに成り立っているのかとか、ぜんぶ裏が見えちゃった時に、全部じゃないけど、なんかつまんねぇなって思った瞬間。「俺、なんのためにやってんだろう?」って。「俺がここで登り詰めてって何の意味があるの?」って思った瞬間もあるし、「本当、くだらねぇなぁ」って思う時もあるし。そういうことが積み重なってって、だんだんバッドになって。それが音楽にも出てきちゃったりとかして。そういう意味で、一個一個、自分のなかで整理つけてく、さっき言った自分たちに正直になることを前提、真ん中に置いてすべてが回っていたにも関わらず、それが一つの歯車でしかないっていうことに気付いた時、愕然としたのは覚えてるかな。

── 今でも歯車の一つなんですか? 

 ある人が見ればそう思うし。でも、違う人が見ればそうじゃないと思うし。ただ、本当に思うことは、そういうくだらねぇこととか、つまんねぇこととかは、俺らが音楽を始める以前からあったもので。でも、それはそれで俺の関係ないことだし。自分の音楽に対する情熱とか、信念さえ守れれば、そんなものは打ち砕けるとも思うしね。だから、いつでも自分に対する強さっていうか、音楽に向かう時の純真さっていうかは、なくしたくないすってすごい思ってるから。今、そんなものには、負けるつもりもないし。今現在は、その歯車だって思ったことはないかな。逆に思ってる人間がいたら、思わせときゃいいやって思う。

── 自分が音楽っていうもので世の中を渡ってきたことで、いろんなことがあったと思うんですけど、ある種、武道館っていうのは自分でイメージできたところだとすると、東京ドームとか横浜スタジアムっていうのは、自分で想像できなかったところなんじゃないかと思うんですけど。音楽やってきたことによって、例えばこんな世界を体験できたんだって思うようなことってありました?

 そうだね。やっぱり武道館をやり終えた時に、次は絶対もっと大きいところでやってみたいと思ったし。いつだって、もっと遠くまで音楽が飛ばないかなって思ってるし、いろんな人に聴いてもらいたいなと思ってるから。武道館が終わった時点で、東京ドームでライヴが出来るぐらいでかくなりたいなと思ったのは事実。でも、いつもそうなんだけど、やり終えた後っていつも、「すごかったけど、ここじゃねぇな」って思っちゃう瞬間がいつもあって。形じゃないんだなって。ネームバリューでもないし。今でもそういう気持ちがある。横浜スタジアムで活動休止を宣言するなんて、ぜんぜん予測外だったからさ。でも、やっぱりこういうやりたいことを貫いてきて、音楽っていうものでみんなに伝えてきて、本気でやってたからこそ、やっぱり何万人のファンの子っていうか、オーディエンスを前にしてプレイできるその風景ってさ、多分、そんなに多くの人が見れる景色じゃないって思う。やっぱりすごい景色は、人より見てきてるんじゃないかな。いいとこも悪いとこもね。

── 休止を誰かが決意したり、言い出したきっかけがあると思うんですが、どのへんぐらいから休止しなければっていう時期とかあったんですか?

J interview そうだな、決定的な何かがあったっていうのは、思い出せないけど。多分すごい、今思うと、バンドが大きくなっていく上で、絶対どのバンドもぶち当たる壁っていうか。「MOTHER」っていうアルバムを出して、多分そのアルバムですべてが変わった。いわゆるみんながLUNA SEAを見るようになってきて。今まで振り向かなかった人間まで振り向いた。それは、俺らが望んでたことだし、あのアルバムをもってすれば当然のことだとも思うし。でも、そこから先に起こることなんて、ぜんぜん俺は予測つけてなかったのがあって。その後は、誰もがLUNA SEAを語ってたし。すべてがクレイジーな状態だった。今思うと、やっぱりすごい求められれば与えたいと思うのは当然で、やっぱり自分たちとバンドっていうか、線で結んだ時も、もっとやれるはずだ、もっとはきだせるはずだってがむしゃらにやってきた。で、いちばん遠くに届くまで神経遣って、いちばん遠くのファンの子に届くまでいろんなことを伝えたかったし。それがだんだん、そうだな、自分の肉体的な疲労とか、精神的なものとかどんどん削ってるのもわかってたんだけど。本当にどんどんバンドがストイックになっていってハードワークだったっていうのもあるだろうし。そうだな、そういうものがどんどん積み重なっていって、メンバー間のミスコミュニケーションとかが生まれてきたりとか。今までいなかったようなわけわかんない人間が増えてきて、なんだかんだ言って帰ってきて、いいたいことを言って去って行く。そんななかで、自分たちを見失いそうになってたのは事実かな。やっぱり多分、あれは「MOTHER」っていうアルバムをきっかけにする動きの反動だったんだと、今、冷静に考えてみると思う。

── 簡単にいって、休止したことは、良い悪いっていう言葉ではなかなか言いづらいと思いますけど、休止したことによって何が変わりました? 個人的には。

 個人的には、去年1年間を通して、いろんな人に出会えたことが一番の収穫だったかな。そこに至るまでは、自分のなかの葛藤とかもあったけど。そういう期間を最大限に有効に使って、俺は海外のり連中と一緒にプレイできたりとか、今まで会ったことのない人たちと出会ったりとか。ある意味では、本当に充電する期間だったと思うし、確認する期間だったとも思うのね。やっぱり自分が守ってきたものが間違いじゃないっていう確認も出来たし、そいつをこれからも守っていくんだろうなっていう確信も得れたし。今思うとさ、良かれ悪かれ、LUNA SEAって5人の世界しか見たことなかったんだよね、それまでね。でも、そこには良いこともあれば悪いこともあったっていうか。今思うとですけどね。でも、俺以外のメンバー4人も、多分、去年1年間っていうのは、いろんな世界に振れてきて、自分を客観視できた年だと思う。少なくとも俺がそうだから。そういう意味ではバンドが大きくなる上で、絶対に必要な1年だったと今は思う。ただ、それもその期間、誰も手を抜かなかったからだと思うし、前向きに自分から出る音楽に対してみんな貪欲だったから結果が出たんだろうし。そういう意味では、去年じゃなかったら今年だったかもしれないし、来年だったかもしれないし。もしかしたらLUNA SEAがバーストしてたかもしれないし。不思議だよね。

── いいタイミングだった気がしますね。

 だから、今考えて見ると、LUNA SEAって結成してから、ずっと今までもそうなんだけど、本当にタイミングとか、きっかけとかって、本当に神かがってるんですよ。それはすごい自分でも不思議かなっていう。

── LUNA SEAって珍しいぐらい5人の合議性のバンドじゃないですか。リーダーもいない。5人が何事にたいしてもちゃんと話し合う、そういうのって一回休止してソロみたいなことやっちゃうと、ソロをやることの楽さを覚えると思うんですね。でも、きちんとも戻ってきて5人でやれるのはなんででしょう?

 やっぱりそこにはメンバーに対する信頼関係もあるし、尊敬の念もあるだろうし。そういうね、言葉以前の問題で、俺たちは誰も認めてくれなかった頃から、5人がお互い認め合えてたんだよね。そういう言葉を超えたところの絆がすごいあるんだと思う。

── 同じ価値観を最初から。

 もあるし、俺たちべつに、その当時は本当に何もなかったから。ただの夢見る少年たちだったからさ。それは本当に今バンド頑張ってるみんなと何も変わらない。今も変わらないと思うし。本当にその5人の目の中には、駆け登ってきた過程っていうのが、ちゃんと記憶のなかにあって。でも、それは誰かに与えられたものじゃなくて、この5人がつかみ取ってきたもの。だからLUNA SEAっていうのは、誰か一人のもんでもない。逆に言えば、本当にみんなが一生懸命頑張んないといけないバンドだって、みんなわかってるんじゃないかな。

── ベーシストとして、人間Jとして個人的にデビューした91年にイメージしていたやりたいことと、ソロを経てまた今だから音楽でこういうことをやりたいっていうイメージは変わりました? 

 その時に思い描いてたのは、ちょっと速度が遅いかな。もっとそうだな、もっと速く今みたいな状況になると思ってたし。その当時はね。でも、その当時思ってたのは、もっとでかいバンドに今なってなきゃおかしいんだけどね。でも、自分の見てきた夢っていうか、全部つかんできてるから。絶対そこに行くんだろうなっていう確信もあるし、恐いぐらいにね。もっといい音楽作りたいと思ってるし。

── 何がつかめそうですか?

 そうだな、それが言えればね、簡単に言えればいいんですけどね。でも、ここじゃないんですよ。本当にもっとなんですよ。やっぱりいい曲出来たって思った瞬間もずっと経験してきてるし。いいライヴやれたって思う時も、過去に何回もあったし。今回みたいにいいアルバム作れたっていうのも、過去に何回もあったし。だけど、作り終えた後にね、もっと出来るなって思っちゃうんだよね。そうなるとやっぱり、進みたくなっちゃうんだよね。だから多分、今でもそういう自分がガキの頃に抱いた、ロックを初めて聴いた時とか、グラビア初めて見た時のドキドキした感じ、そういうのをまだ追い求めてるのかもしれない。1日24時間、そういう時間で埋め尽くせたらどんだけ幸せかなって思ってるのかもしれない。

── なんで音楽になっちゃったんでしょうね? 

 そうだな、その時思ってたのは、ロックって自由だし、何も、べつに勉強も誰よりも出来るわけじゃなかったし。スポーツも特別な存在じゃなかったし。でも、バンドとかロックとか、そこには誰でも登り詰めていける可能性があったっていうことなのかな。だからドキドキできたんだろうし。だからこそ、ロックっていう音楽に共鳴できたんだろうし。それぐらいしか今わかんないんだよね。でも、その時と何ら変わらないのは、今でも好きなCD聴いて、大好きな音楽に巡り会った時は、本当に「ワォ」って思うぐらいドキドキするし。なんでやるようになっちゃったんだろうね。

── きっと音楽やってきたから、「クソ食らえ」って思うようなことも我慢できちゃうんでしょうね。

 うーん? 我慢できてるのかな? 俺。

── 音楽に対して純粋であることを言葉にしたら? 

 やっぱり自分で音楽を作ってて感動しなくなったら、俺はいつでもやめようかなと思う。いつでもステージ降りるつもりでもいるし。一言じゃ言えないんだけど、やっぱり俺もそうだし、音楽によって人生が180度変わってしまった人間。でも、音楽って、それほど何よりますごいエネルギーをもってるし、可能性がある。だからこそ俺は発し手として、自分の中の純度っていうか、純真さをその中に入れられなくなったら、俺がガキの頃にイメージしてた、憧れてた世界なり、人なり、ものからはかけ離れた存在になっちゃうから、そういうのは嫌だなって思う。だからこそなんて言うのかな? すごい難しい問題なのかな? でも、自分の中ではすごいシンプルで。さっきも話出たけど、やりたくねぇものはやらない。「やりたいからやるんだ」っていう気持ち、「聴いてよ」っていう気持ち、これがなくなっちゃったら、つまんないなぁとも思うし。逆に言えば、それがなくても成立してしまう世界でもあるから。音楽っていう形を借りればね。だから、意地でもピュアさっていうか、自分の中から出てくるものは、入れていきたいな。難しいかな? 

── ゴールはあるの? 

 俺が聞きたいですね。でも、自分の中でのゴールって、じつはないようであって、あるようでなくてっていうか。なんかやっぱりさっきも言ったけど、音楽ってやればやるほど知識とかも増えてくし。でも、どんどん人もそうでさ、なんかいろんなもの見てくと感動が薄れてったりするじゃないですか。例えば「これは、ああ、こんなもんだろ」「ああ、こういうふうに成り立っちゃってるんだよね」って。そういう部分を音楽のなかに入れていきたないっていうか。だから、ある意味で、あの頃ステレオの前でさ、レコード聞いててさ、自分っていうのがどこまで生き続けられるのか。そういう部分で俺はあんまり自分の中に情報をインプットしようともしないし。敢えてそういう世界を見たいとも思わないし。不器用だとも思うし。けど、でも、自分のいちばん大切にそいつを守るための自分でのバランスのとり方。だから、それがなくなった時はゴールなんじゃないかな? わかんない。でも、自分の思い描いてる理想のゴールっていうのは、多分、自分の中に計り知れなく遠くにあると思うな。二つのゴールが存在するわけですよ。プレイヤーというより、ミュージシャンとして。ミュージシャンっていうか、ステージに上がる人間として。

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