数々の有力選手を指導する長光歌子さんが
フィギュアスケート界を楽しく語ります!

歌子の部屋

vol.67

対談企画 ゲスト:岡崎朋美さん

小学生の頃にスピードスケートと出会い、高校生で富士急行にスカウトされる。5度の冬季オリンピックに出場し、長野オリンピックでは500mで銅メダルを獲得した岡崎朋美さんに歌子先生とお話を聞いてきました。

2021.10.26

岡崎朋美さん
岡崎 朋美(おかざき ともみ)
岡崎 朋美(おかざき ともみ)
1971年9月7日生まれ。小学生の頃にスピードスケートと出会い、高校生で富士急行にスカウトされる。5度の冬季オリンピックに出場し、長野オリンピックでは500mで銅メダルを獲得。今は一児の母でマスターズ選手として活躍。

スケートとの出会いについて

私が住んでいた地域は小学校の授業でスケートやスキーがある環境でしたが、スケートを本格的に始めたのは小学校3年生の時です。生徒数が少ない学校だったので、スポーツで競い合う女の子が全くいなくて、当時は男の子と張り合っていました。そんな時にスポーツ万能な女の子が転校してきて、その子が陸上から冬のスポーツにだんだんシフトしていく過程で、私はこの子とずっと居たいと思いスケートを始めたんです。スケートをきっかけにその子と仲良くなりたというのがスケートを始めた最初のきっかけです。それまではスケートを滑る時期は寒くて、マイナス20℃くらいだったので、あまりのめり込んではいませんでした。

えーーー!

本当に天然リンクだったんですよ。極寒で、水を撒いたら凍るんです。学校が終わってから夜に滑るので、耳も痛いし手と足もカチカチになってしまうので、スケートはあまり好きじゃなかったんです(笑)

(笑)北海道の中でも道東ですよね?

はい。知床半島のつけ根の方の内陸です。

普段から寒そうですね。

寒いけど、リンクは夜ライトアップされて、たまに粉雪が降るとキレイなんです。練習中はつらいけど流しながら口を開けて雪を食べたり、満点の星空を見たりしていました。

それは素敵な思い出ですね。

岡崎朋美さん

初めてスケート靴を履いたのは

親が「小学校に上がった時に滑れないと可哀想だから」といって、幼稚園後半ぐらいから大きいスケート靴に綿を詰めて氷に上がっていました。氷に上がってもどうやって滑ったらいいかわからなくて戸惑っていたら、ご年配の女性が独りで滑っていたんです。それをずっと見ていて「なるほど、ああ滑ればいいんだ」って、それから見様見真似で滑ったんです。

すごいですね。

見本が居てそれをマネするというのは、私の場合すぐ頭に入ってくるんです。

すごい。そこでちゃんと機会に出会えている感じですね。スケートをするために生まれてきたみたい。

うちは姉と兄がいるんですけど、スケートにのめりこんだのは私ひとりでした。

じゃあその同級生のお友達が居てこそですね。

そうですね。彼女もずっとスケートで行くのかなと思っていたんですけど、高校の時に彼女は看護師さんになるために看護系の学校に行ってしまい、私はスケートを多少楽しくできる名門高校に行ったのでそこで別れちゃったんです。でも今でも連絡は取り合っています。

へえ、すごい!

すごく貴重ですよね。おばあちゃんになっても連絡を取り合いたいです(笑)

素敵ですね。

高校生から社会人へ

高校生活はどうでしたか?

釧路の女子高に行っていました。他の強豪の学校は共学で、男子の力を借りて練習しているのがすごくうらやましかったです。合同練習もなかなか叶わず、自分の身体をもう少し使いたいという思いもあり、高校生の頃は色々と葛藤していました。

そうだったんですね。そんな時に富士急行さんと出会ったのでしょうか?

高校2年生の時に、釧路で全日本の大会がありました。選手の練習の後に私たち高校生が滑れる時間になって、富士急行の監督さんがずっとそこに残って見ていたようなんです。その時に、「女の子だけど体格が男みたいな子がいるな」って私に目を付けたようで、次の日に一度も見たことのない監督の方から「お前どこいくんだ」って言われて、最初は「この人誰だろう?」でした(笑)

そうなの?(笑)

その時はその方が誰だったのか分からなかったのと、自分の能力的に上を目指しても無理かなとも思っていて、私は「辞めて地元に戻ります」と言ったと思います。でも「やりたかったらうちに来るか」とさらっと言われて、お礼を言って走り去ったらしいです(笑)

(笑)

後々、その方が富士急行の監督さんだということを知り、迷うよりも橋本聖子さんもいらっしゃるし、世界のトップクラスの人たちもいたので、「逃すわけにはいかない」という気持ちになりました。誰にも、親にも相談せずに決めて、それからはトントンという感じで進みましたね。

親御さんびっくりなさったでしょ。

本当にそうですね。私を知っている人たちは、富士急行には聖子さんがいらっしゃって、すごく過酷な練習をするというのをみなさん知っていたんです。だから行っても大変だし、泣いて帰ってくるだけだから考え直せと結構言われました。でも私の中では自分の能力とか運動の仕方とか勉強したいというのがあって、ダメ元で泣いて帰るというより、泣いてチャレンジしたいという気持ちの方が強くて富士急行の門を叩きました。

ひとり暮らしでは

釧路の高校時代も、下宿というか寮生活をしていました。地方から行く子が私含めて4人で、まとめて面倒を見てもらっていたんです。規律正しく人間力を養ってくれたので、下宿のおじさんおばさんのとこに居て本当に良かったと思います。

ご両親のそばを離れて、その人たちがどうあったかですごく変わる肝心な時期ですものね。じゃあ山梨での一人暮らしもそんなに困らなかったのでしょうか?

そうですね。最初は富士急行自体がどこの会社なのかわからなくて(笑)山梨の富士山のふもとと聞いたので、北海道も自然が多いですし山とか木とかすごく多いだろうなと思い、それなら大丈夫だと思いましたね。

そうだったんだ(笑)

ただ山梨も涼しいですけど、やっぱり北海道よりは湿度が高かったです。

山梨でも湿度が高いですか?

暑い時がすごく暑いです。あとは標高ですね。北海道って海抜0のところが多いんです。

山梨は基本的にすごく高いんですよね。

高いです。標高800~1000mくらいはあるので、最初は本当に苦しくて、慣れるまで1年間くらいはしんどかったですね。

心肺機能は鍛えられたでしょうね。

そうですね。段々と高地が普通になっていきます。陸上のトップクラスの人も合宿に来たり、色々な競技の方が高地トレーニングに来ていました。拠点的には素晴らしいところですよね。

橋本聖子さんとの練習はどうでしたか?

当時は富士山に行って、駆け上がっていくという練習をしていました。普通できないトレーニングで、聖子さんが居て世界で勝つためにはそのくらいのトレーニングをしないといけないと実感して、大変だけどやりがいはありました。

先輩が着々とやっているのを見ていたら目標もできますよね。

聖子さんからは弱音なんて出ないですし、もうどんどん「え、まだやるの」というくらいすごいです。本当に近くにいてよかったな、選んでよかったなと思います。

長光歌子(ながみつ うたこ)
長光歌子(ながみつ うたこ)