数々の有力選手を指導する長光歌子さんが
フィギュアスケート界を楽しく語ります!

歌子の部屋

vol.36

対談企画 ゲスト:中塩美悠さん

今シーズン現役を引退し新しい旅立ちに向かう中塩美悠選手。パワフルなジャンプを武器に活躍し、ジュニアグランプリファイナルへの出場経験もある中塩選手に、引退について林祐輔コーチとともにお話を聞いてきました。

林コーチには何か言われましたか―

長光歌子先生

インカレは、本当に楽しすぎたんですけど、ショートの後「お前は周りの空気に振り回されているぞ」と林先生に注意されました。インカレって周りのリンクサイドで応援してもらえるので、それで一気に「ぽーん」って飛んでしまって、ステップアウトしまくってしまったんです。

最初凄く元気だったのに、滑っているうちにだんだん小さくなっていったよね(笑)

だんだんと自信がなくなっていったからです…。「最後のインカレなんだから、周りの空気に流されず、自分のために滑りなさい」と先生に言われましたね。

良いこと言うじゃないですか。

国体の時は、林先生も体調崩されていたんです。釧路での早朝のショートですごく寒くて、私は身体が温まっていましたが、先生はキンキンに冷えた中で本当に寒そうで、凄く震えながら「よかったぞ、気持ちが伝わってきたぞ」っておっしゃって。「先生、上着着ますか?」とお声がけしました。あれは今までで一番寒かったかもしれないですね。

釧路は本当に寒かったですね、選手が心配になるほどでした。

とても寒い西宮のリンクによくいる先生が言われるほどなので、寒さがわかりますね…。

林祐輔コーチについて―

私は、毎回ジュニアグランプリの選考会に呼ばれては落とされ、呼ばれては落とされで、何のために生きているんだって感じだったんですが、高3の時に初めて選ばれて、2戦目まで行くのを目指していたのが、あの時はファイナルまで行けてしまったんですよね。

あの時はすごく勢いがありましたよね、なので真駒内の全日本の時どうしたんだろうと思ったんです。

あの時は靴のブラケットが取れてしまい、おしりを打って筋断裂になってしまったんです。突発的な怪我だったんですが、その後ジャンプを跳ぶのが怖くなってしまいました。私はずっとジャンプをメインにやってきたので、別のことをしないとスケートのことが嫌いになっちゃうなと思って、林先生のところへ行きました。私は以前岡山に通っていたのですが、田中刑事くん、友滝佳子ちゃんとか凄い人がいたし、岡山のスケートの上手い人はみんな林先生の所でスケーティングをやっていると思っていたんです。

あの時からちょっとして西宮のリンクに来るっていうから、すごくびっくりしました。

来た時は本当にびっくりしましたね。スケートは今まで能力だけでやってきたって感じでそっちも驚きました。足が痛くて、ジャンプできない。何もできない。じゃあどうしようかということで、その時はコンパルソリーをやったのですが、バックのサークルに戻ってこないんですよ。だから1時間ずっとコンパルソリーをやった日もありました。そういう練習を1ヶ月以上、もっとやっていたかな、でもそれはすごく効果がある練習だったと思います。

美悠ちゃんの能力が高くて、どこでも滑れちゃうのね。乗っている位置がまちまちでも跳べてしまうし。

だから靴が合わないのかもしれません。

どっから攻めようかな、と最初の一年はそればっかり考えていました。正統派としてのらせていった方がいいのか、今乗っているところから徐々に変化させた方がいいのかって、先生にも相談しましたね。

相当問題児だったんですね(笑)

いやいや、本当にすごいんだよ。能力だけで滑ってるから。

普通はそれでは滑れんでしょ、ってとこで滑ってたから、すごいなあと思ってた。だから全部殺して普通にしちゃうのがいいのか、個性を残すのがいいのか、一年目はすごく悩んだ。どうしたもんかなーと。

もしかしたら一番最初に普通を欲していたら、そんなに足が痛くなることもなかったかもしれないね。今はもう言ってもしょうがないけど…。

靴が2サイズくらい大きかったんですよ。広島では先生が靴を注文してくださるんですけど、成長期にあわせて靴をどんどん変えて、大きめに慣れてしまって、それが大きいという自覚がなくて、めちゃ動いていたんですけど、それが私にとっては普通で、靴の中で足をこっちにしてインにするとか調整していたんです。だから逆にぴったりした時にどうして良いかわからないというのがあって、怪我しちゃったのも靴のサイズが大きかったのが原因の1つかなと思います。

大輔だって復帰後2サイズ小さくしたんですよね。復帰当時大きなサイズで滑って膝がもっと悪くなってしまいました。特にトゥをついた時靴の中で足が動くんですよね。それにつられて膝にも余計な負担がかかりますし。

踏ん張るから、足もパンパンになっちゃうんですよね。アメリカで4回転の練習をすごく沢山やって、けがをしてしまったのもありますね。

筋肉の反射とか素晴らしいものがあるから、確かに跳ばせたくなるよね。

あんなに高く跳べたらね。

でも私ここに来てなかったら、スケートを続けられていなかったと思っています。母には西宮に移ってから「あなたは昔、広島でそんなにスケートと関わってこなかったから、今楽しいんじゃない?」と言われました。「昔から缶詰でやっていたら嫌になってたかもしれないよ」と。

昔はそんなにスケート漬けじゃなかったの?

広島は冬しかスケートができないし、夏は2時間かけて通って1時間半滑ってまた帰ってくるみたいな感じでした。それも毎日はできないし、だからここの子たちみたいに、朝練習して学校行って、一般やって貸し切りやって、っていうのだと嫌になっていたかもしれないよって。

そこは私たちも気をつけないといけないところだね。こっちの子供たちは早くバーンアウト(燃え尽き症候群)にさせてしまう可能性があるから。

そうですね気を付けないといけません。美悠さんのお母さん、素敵な方ですよね。物事の捉え方が面白いと思います。

ちょっと天然です(笑)。初めての海外試合についてきた時は初日に携帯をなくしてしまって大変でした。

今年の飯塚杯は感動していらしたね。「こんなにスケートが変わるなんて」と。ありがたかったです。

母は昔、小学校の1、2年生の先生だったんです。そういうのもあるのかな。でも、小さい頃はすごく厳しかったです。リンクで練習とかしないでだらだらしていたら「もう上がりなさい」と言われたりしていました。

スケートはどうして始めたんですか?

それこそ母が芸術好き、特にバレエが好きだったんですけど、母の友人の知り合いの方の紹介で始めました。スケートは危ないスポーツでもあるから、コーチについて安全に楽しく滑るために、兄弟3人で習おうとなったんです。

ご両親がすばらしいですよね。美悠ちゃんを教えだしてすぐに、ちゃんとした良いご家庭で育ったお嬢さんだなと思っていました。

品がいいですよね。スケートにも出るんですけど、品って作れるものではないんですよね。

一番大事やと思います。人品卑しからずというのが。何が大事かってそこは一番大事。

中塩美悠さん

歌子先生との思い出は―

スケーティングをどこから取り組もうかと悩んだこともあるけれど、やはり、鈴木明子さんのプログラムが凄く良くて、今年は合宿の頃から全然、去年と違う一皮むけたいい感じがあって、その感じは凄くうれしかったですよね。美悠の個性が今年開花できたかなって。去年はやはりちょっと没個性だったんですよ。これもどう捉えていいかわからなかったんです。今年はショートもそうだけど、フリーは美悠ちゃんの中から出てくるものがすごく溢れ出ていて、私はとてもうれしかった。ちょっとでもお手伝いができたのなら良かったかな。もっとちっちゃい時から美悠ちゃんに関わりたかったなという思いもあります。

私今日、言おうと思っていたんですけど、一昨年の全日本の前に歌子先生に「あなたはすごい感受性が強いから」って言われたんですよ。それってどういう意味だろうと思って調べたら、highly sensitive personっていう気質で、チェックリストみたいなのを見てたらめちゃあてはまっていたんです。すごく傷つきやすくて、スケーターにも多いと思うんですけど、いろんなことに気がつくから疲れちゃうんです。

これからは、「鈍感力」を養なっていく事が必要ですね。社会に出るといろんな人がいるから、つらくなる時が沢山あるだろうけど、私はぜんぜん感じてないよという風に、バカに見せることが必要かな。私は感じてないからわかりません、というポーズをとってみて。

僕は自分がしんどいと思ったら、相槌うちながら聞き流すことができますけど、美悠は垣根が低くて何でも受け入れるというか、100%全部聞いちゃうんだよね。

ものごとを深く考えちゃうんですよ。何か言われた時に、なんでそうなんだろうと思うし、どうしたらいいだろうと考える。で、パニックになる(笑)。

ケセラセラでいってください。何とかなるって。

でも自分がそういうタイプだってわかったんで、大分楽になりました。もう本当に歌子先生のおかげですし、アーロンさんって人の研究した本が役立ちました。多分、鈍感にはなれないけど、鈍感ぶることはできると思います。

それが大事よ。「あの子に何を言ってもぜんぜん感じてないよね」、という風にまで言われたら楽になるから。

長光歌子(ながみつ うたこ)
長光歌子(ながみつ うたこ)