数々の有力選手を指導する長光歌子先生が
フィギュアスケート界を楽しく語ります!

歌子の部屋

vol.25

対談企画 ゲスト:佐藤信夫先生

荒川静香さんや浅田真央さんを始め数々の名選手を育成された佐藤信夫先生にお話を伺いました。

全日本選手権について

佐藤信夫先生

まもなく今年も全日本選手権が始まりますが、信夫先生にとって全日本選手権とはどんな意味合いの大会ですか。

日本人にとっては一番大事な大会だと思います。私が選手だった頃もそうですし、コーチとして教える立場になってからもその気持ちに代わりはありません。

そうですよね。過去本当に色々な全日本選手権を身近で味わってきた信夫先生にとって、思い出に残っている大会はありますか。

本当に色々な全日本選手権がありました。でも…最近年のせいか忘れてきてしまっていて(笑)。

そんなことないですよ!

うーん。そうですね。偶然ですけれど、私の生徒が全日本選手権の女子シングルで1、2、3位を取ったことがあるんです。その時は気にしていなかったのですが、色々な方に言葉をかけられて後になって考えてみたら、良かったなって思いましたね。
(※2001年大阪 1位:村主章枝/2位:荒川静香/3位:安藤美姫)

ありましたね。大阪でしたよね。現役時代で思い出に残っている全日本選手権はありますか。

一番印象に残っているのは、初めて優勝した時です。(1957年)あの当時、日本人で初めてダブルルッツが飛べたということで、周りでは大騒ぎになりましたね。ダブルルッツですよ。今では何を言っているんだって言われてしまいますが…。

先生その時は、まだ中学生ですか。

はい。中学3年生から高校生になる前でした。当時はそれが最年少優勝の記録でしたね。その後、横浜で行われた全日本選手権(1995年)で本田武史君が優勝して記録は塗り替えられました。同い年での優勝ですが、全日本選手権は、僕らの時代は春に行われていたんです。今は年末に行われていますので、本田君の方が僕よりも3ヶ月早いということになりました。

そうでしたね。

はい。昔は春休みに大会が行われていたのですが、それは日本の国が、義務教育中の生徒は学校が授業をやっている期間は県をまたいでの大会の参加を認めていなかったからです。その後僕は1966年春の全日本選手権後に現役を引退したのですが、その直後から全日本選手権は冬にやることになりまして、同じ年の11月に行われました。だからその年は2回あったんですね。

全日本選手権が2回行われた年があったなんて!それは知らなかったです。

昔は、オリンピックや世界選手権への出場は、別で選考会をやっていました。

全日本選手権の結果で選んでいたわけではないんですね。信夫先生が現役で初めて優勝した当時、周りの選手たちは当然、上の年齢の方々ばかりだったんじゃないですか。

そうですね。みんな大学生の選手ばかりでしたね。近い年齢の選手はいませんでした。あの時は3月末から4月初旬に行われていたのですが、僕は囲み取材を受けた時に記者の方から「中学生なのか、高校生なのか。」と質問を受けて「中学校は卒業して高校の入学は決まっているが、まだ入学式を迎えていないので、記者の皆さんが決めてください。」と生意気に言ったんですよ。それで記者の方々が「これから高校でやっていくんだから、高校生でいこう。」と決めたんです。だから新聞の発表では高校生で統一されましたね。

記者の方々も、確かに困惑しますよね。それまでに類を見ない記録ですし。ところで昔はたしか、時間の合図を『ドラ』でジャーンとやっていたと聞いたことがあります。

そうです。演技終了の1分前、30秒前、15秒前の合図は『ドラ』でした。なぜかといいますと、昔は音楽を編集するという技術がなかったんです。ですから、曲を選んだらその曲を頭からかけっぱなしにするんです。それで男子で言いますと、演技時間が5分ですから、4分になると『ドラ』が1回鳴る。4分30秒で2回鳴る。4分45秒で3回鳴る。それで5分になったら『ドラ』がドンドンドンドンと鳴って、曲の途中であっても終了といった感じでしたね。

へー。そうだったんですね!

ただ僕らが選手のうちには、曲の編集が可能になって、5分であれば5分の音盤を作っていただいてそれを使えるようになりました。そのことでエピソードがあるのですが、ある大会の時に当時大会の運営関係者だった帯谷竜一さんが、僕のところに来られて「今日試合はでけへんわ。」っておっしゃるんです。それで僕が「どうしてですか。」と聞いたら、「ドラを忘れてきよってな。」って言われて、だから僕が「ドラがなくても試合はできますよ。」って言ったら、「そんなバカなことあるか!」って怒られました(笑)。
そこで僕が「僕らのレコードはちゃんと編集していますからできます!」って言ったのですが、そうしたら「そうか。じゃあ試しにやってみるか。」ということになったんです。

へー!

もちろん問題なく試合ができますよね。それで「なんだ!ちゃんとできるじゃないか!」ってなってそれ以降日本では『ドラ』を使わなくなったんです。

へー!すごいエピソードですね!フィギュアスケートの歴史ですね!!初めて知りました!

音楽のことは他にもエピソードがあります。昔は市販されている普通のレコード盤を試合で使っていました。僕は初めてのオリンピック(1960年スコーバレーオリンピック)の時、曲は『詩人と農夫』だったのですが、この曲は最初同じ曲調が繰り返されるんです。それを使うと繰り返しだけで5分を越えてしまいますので、僕は最初の部分を使わないように、レコードに絆創膏を貼っていたんです。そうしたらレコード係の人が震えてしまって…。

え!どういうことですか??

レコードに絆創膏を貼っているからその部分に針をおろすと、曲は鳴らず「グルグルグルグル」となるだけじゃないですか。だから絆創膏の貼っている部分のすぐ後ろから曲が始まるように時間の調整を行っていました(笑)。

(笑)。そうですね!それは係の方も緊張して、中々絆創膏のすぐ後ろにうまく針をおろすことができないですよね!

かわいそうでしたね(笑)。

長光歌子(ながみつ うたこ)
長光歌子(ながみつ うたこ)