数々の有力選手を指導する長光歌子先生が
フィギュアスケート界を楽しく語ります!

歌子の部屋

vol.25

対談企画 ゲスト:佐藤信夫先生

荒川静香さんや浅田真央さんを始め数々の名選手を育成された佐藤信夫先生にお話を伺いました。

2017.12.14

佐藤信夫先生
佐藤 信夫(さとう のぶお)
佐藤 信夫(さとう のぶお)
1960年、1964年に2度のオリンピック出場。1965年世界選手権4位、全日本選手権10連覇の記録を持つ。現役引退後はコーチとして荒川静香さんや浅田真央さん、小塚崇彦さんなど数多くのトップ選手を育成。75歳の現在も、妻である佐藤久美子先生と共に指導を続けている。

お二人の出会いについて

(佐藤)信夫先生とは、どこからお話しさせていただければ良いかと思うくらい、長いおつきあいをさせていただいていますね。

そうですね。僕が高校生の頃くらいですかね。僕が練習していたリンクが通年のリンクではなかったので、夏の時期に他のリンクへ練習に行っていました。そこで歌子先生が練習していたんですよね。

私にとって信夫先生は偉大な存在で、とてもとても近づけなかったですよ。
でもあの当時のことは今でもすごく覚えています。信夫先生がダブルアクセルを飛ぶと、軌道がきれいな放物線を描くんです。それを子供心に感じました。スピードに乗って、アクセルを飛んで同じスピードでその後も滑る。当時は言われていても中々認識できなかったのですが、信夫先生の滑りを見て初めてその意味を理解しました。

あの頃の歌子先生といえば、お父様の印象が強く残っていますね。スケートに対してすごく熱心な方で、「このお父様に鍛えられたら大変だな。」って思っていました。それでもそれが実ったからこそ今の歌子先生があると思いますので、お父様の努力は素晴らしかったと思います。

ありがとうございます。信夫先生はお母様が練習についていらしてましたよね。私の父は、信夫先生とお母様のことを本当に尊敬していて、私が練習から帰ると、よくお二人の素晴らしさを例にあげて説教を受けていました(笑)。

そうだったんですね。お父様とは練習の合間のお昼ご飯の時、リンクサイドにある食堂でよくご一緒させていただいていましたね。

うちの父は本当に厚かましいんですよ…。

いえいえ。とても面白いお父様で私も楽しませていただいていましたよ。

佐藤信夫先生の現役時代

今まで日本のフィギュアスケートの歴史とともに、本当に様々な歴史を刻んで来られた信夫先生ですが、先生にとってフィギュアスケートとは一言で言うと何でしょうか。

なんと言えばいいのでしょうか…。僕にとっては、自分の人生にとって外すことができないものですね。

今更ですが、フィギュアスケートを始めたきっかけは何だったのですか。

戦前の話になるのですが、母が昔スケートを少しやっていたんです。戦時中は日本国内全てのリンクが閉鎖されたのですが、戦後再びスケート場が開かれることになりました。その時昔スケートを教えてらした先生が、もう一度スケートを教えたいということで、私の母のところに一緒にやってくれないかと依頼がきたんです。スタッフが揃うまでという条件で私の父も納得しまして、母が教えることになったのですが、そのリンクのオープニングセレモニーの時、エキシビションを観ることができるということで、僕は母にくっついて行きました。そこで生まれて初めてスケートというものを観たんです。

先生がおいくつくらいの時ですか。

小学校5年生のクリスマスです。それからリンクに通うようになって、貸し靴を借りながらやっていましたね。その後母から「スケートの選手になってみる?」と言われて、「別にいいよ。」って答えたのがきっかけですかね。

最初からスケートは楽しいと思っていましたか。

いえ。楽しいと思ったことはないです。それでもやるって言った以上はやらないといけないなって思って頑張ってきた感じですね。

昔はアウトドアで大会をやられていたんですよね。

そうですよ。普通に外でやっていましたね。僕が引退した年は1966年ですが、その時の世界選手権はよく覚えています。スイスのダボスで行われた大会で、コンパルソリーを2日間やるのですが、1日目は晴天、無風で最高だったんです。それでも2日目に大雪になってしまいまして、コンパルソリーの線も見えない状態でした。さらにジャッジの方が雪を踏みつけるわ、夕方から風が吹くわで、氷は最悪の状態でしたね。それでその年にISUは二度とアウトドアで世界選手権はやらないということを決めたんです。

その年が最後だったんですね。

そう決まったはずだったのですが、その翌年1967年は、ちょうど100年前にウィーンのリンクがオープンして、そこでジャクソン・ヘインズが様々なことをやったことで現代のフリースケーティングが誕生したというメモリアルの年だったんです。そこでウィーンで世界選手権を開くことになったんです。でもそこがアウトドアだったんですよ。ドナウ川の中州にリンクを作ってやっていましたね。

何もなく終わったんですか。

それがあったんですよ。もう僕は引退していたのですが、コンパルソリーが無事に終わってフリーのペアの競技の日に、72年振りの嵐になってしまったんです。

えー!もう大変ですね!!

ペアで当時何度も世界チャンピオンになっていたプロトポポフ夫妻が、本番前ずっとカップルで傘をさしていたんです。僕がどうして傘をさしていたかを聞いたら、「雨で手が滑って演技ができないから、ギリギリまで傘をさしている。」と教えてくれました。彼らは、本番ではその傘をリンクサイドにパッとおいてリンクに入っていくわけですよ。それがまたかっこよくてニュースになりましたね。

それは素敵ですね。

まあ、大変な世界選手権でしたね。それが本当に最後のアウトドアの世界選手権でしたね。

長光歌子(ながみつ うたこ)
長光歌子(ながみつ うたこ)