・92年バルセロナ、96年アトランタに連続出場を果たす一方で、所属の日立を解雇、イタリアでの挑戦と帰国、ダイエーの休部、東洋紡の廃部と、吉原は輝かしさよりも痛々しさが目につく選手だった。二度の五輪経験があるとはいえ、全日本では必ずしもチームの中心にいたわけでもない。その吉原に7年ぶりの全日本復帰を柳本が要請したとき、周囲の関係者は一様に驚いたと聞く。だがいつものランニングがそうであるように、選手たちは吉原の背中を追いながら予選を乗り越えてきた。「キャプテン」という重責を真摯に受けとめた彼女は、ストイックなまでに、自分の背中しか見せようとしない。翌日の午後、ネットを挟んでロシアを睨みつけるセンターの吉原は、まるで命の駆け引きに旅立とうとするラスト・サムライのようでもあった。そして、そんな彼女を密かに支える竹下佳江が脇を固める。このチームを立ち上げた昨春、柳本が最初に頭を悩ませたのが、司令塔のセッターを誰にするかである。かつて「動のセッター」と言われた柳本は、「シドニーで竹下が選ばれたのは人選ミス」と、平然とそう言ってのけたものだ。現役時代の自分が技に走りがちな選手であったように、技以上の何かが竹下には欠けているように思えたからだった。だが00年のシドニー五輪で、日本は男女ともにアジア予選で姿を消す。そのときの苦い経験が、竹下にはなによりもの財産になっているにちがいなかった。
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