お知らせ

お知らせ

FNSチャリティ海外取材メモリーズ(佐々木恭子アナウンサー)

2023.04.14お知らせ

FNSチャリティキャンペーン50周年に寄せて
フジテレビ・アナウンサー 佐々木恭子

 2005年から2008年までの4年間、取材者としてFNSチャリティキャンペーンに関わらせていただきました。
 2005年はスマトラ沖地震から半年経ったインドネシア・バンダアチェにて取材、2006年からの3年間は、国連がSDGsの前進MDGs(Millennium Development Goals)を推進している中、貧困国における子どもたちのHIV/AIDS事情をテーマにアフリカ・マラウィ共和国、オセアニア・パプアニューギニア独立国、南米・ガイアナ共和国へ。
 どの国にも貧困に根差した「安全な水・食料がない、薬がない、病院がない、学校は(あっても)通えていない」課題があり、働き手として生きる子どもたちにもたくさん会いました。「貧しくても子どもたちは笑顔で目がキラキラしていた」という常套句は、あてはまることもあれば、到底そんなきれいごとでは済まない現実もたくさん目の当たりにしました。
 中でも「正しい情報が行きわたっていない」がゆえの苦しみにさらされていた、パプアニューギニアの一人の少年との出会いは、私の心の中でいつまでも大きな意味を持っています。
 HIV/AIDSは、治ることはなくても服薬しながら付き合っていける病気・・・そんな情報が届いておらず、パプアニューギニアでは当時、患者への激しい差別感情がむき出しでした。AIDSで亡くなったがゆえに引き取り手もなく、病院の冷凍庫には小さな小さな亡骸が山積みになっており、また、母子感染でAIDSが発症している16歳の少年は、親戚に引き取られてはいるものの、屋根も壁もない小屋で一人孤絶した状態で、食べ物ももらえない生活を送っていました。もちろん、親戚との会話もありません。風雨にさらされながら、自分を鼓舞するように鼻歌を歌い、私に話してくれたのは「みんなは悪くない。病気になる前は僕にも優しかった、僕が病気になっちゃったからみんな僕のことが怖くなっちゃったんだ・・・。」
 確かに感染するリスクはあるにしても、ルートは性行為による感染、血液を介した感染、母子感染、と限定されています。しかし、「知らない」からこその差別。少年からすると「取材者」である私が唯一の、そして久しぶりの話し相手です。1週間ほど毎日会いに行き、いざ日本に帰国する前日、少年に「あなたが帰ったら、僕はまた一人になってしまう。神様にお願いしているんだ、どうか帰らないでって」と告げられた時、カメラの前ながら膝から頽(くずお)れるほど涙があふれ、無力感に襲われたのをありありと記憶しています。
 取材という行為、伝えるということは一体何だろう・・・。日本に帰国してからも、ずっと向き合ってきた課題です。ただ、直接少年を支援している方々からは「伝えてくれなければ、この現実は“ない”ことになってしまう。この国に彼のような想いをしている人は一人ではない。どうか日本で伝えてほしい」と度々、勇気づけられました。そして、その言葉そのものがFNSチャリティキャンペーンの意義だとも思います。
 「現実を知る」ことから動かされ、行動に移したいと思えることがある。国を越えた現実に人として想いを馳せ、何か役に立ちたいと思い立つ―FNSチャリティキャンペーンはそのきっかけであり続けていると思っています。


2007年度支援国・パプアニューギニア独立国でのロケの模様
2007年度支援国・パプアニューギニア独立国でのロケの模様