オンエア
グルメブームに沸く日本!
その中で、毎日でも食べられる1杯を目指した男がいた!
その男は、毎晩のように酒を飲み歩き、人生のどん底にいた!
見かねた友人が紹介した仕事が…出前!!
この一歩が、誰もが知るあの大人気店へとつながる大逆転の一手となる!
その大人気店の創業者は…埼玉県のとある村で育った。
戦争で負った傷の後遺症で父が働けないため、同級生から村一番の貧乏とからかわれる日々。
父の代わりに家計を支え、家事もこなした母。
どんなに苦しくとも笑顔を絶やすことはなかった。
今回番組の取材で、母の料理について彼はこう語った。
「母のきんぴらには、みりんが入っていないので、今考えると味としては少し物足りないものだったのかもしれませんが、母が醤油と砂糖の量などを工夫して仕立てたものです。当時の私にはご馳走で、本当に美味しかったんです」
中学に上がると、ゴルフ場でキャディのアルバイトをはじめた。 客の多くは、横田基地からやって来るアメリカの軍人。 英語はわからなかったが、ボールやクラブを磨いて渡すと…客たちは、気持ちよくチップを渡してくれた。
そして、中学卒業後は、極貧生活から抜け出すため、住み込みで働ける工場へ就職。
ところが…毎日同じ作業の繰り返し、何の役に立つかもわからず…あっという間に退職。
その後もただ、生活のために働く…という日々を過ごしていた。
将来の夢も持てないまま、20歳を過ぎた頃には…毎晩のように酒を飲み歩き、堕落し切った生活から抜け出せなくなっていた。
そんな日々が3年も続いた頃に友人が紹介してくれたのが…出前の仕事だった。
初めは気乗りしなかったものの…小さくても自分の店を持ちたいと思うようになった。
これが、誰もが知るあの店の大成功、大逆転の最初の一歩となった!
こうして彼は、本気で飲食の道を歩み始めた。
店に願い出て、出前の配達員だけでなく、厨房にも立たせてもらうことに。
そして、4年が経った頃、常連客のひとりから、思いもよらない話を持ちかけられる。
それは、店を出すことになったから店長をやって欲しいというオファーだった。
こうして、生まれ育った場所を離れ、都市部の近く、商店街の2階にある小さな店で人生を変える一歩を踏み出した。
数ヶ月後…商店街の2階ということもあり、人通りからは見えにくい…わずかばかりの常連客以外に立ち寄る客がほぼいない状態だった。
彼の懸命な努力で、当初より客足はわずかに増えたものの、赤字から脱却するまでには至らず、オーナーは店を畳む決断をした。
すると、貸店舗の大家から、「君がこの店を引き継いでやってみないか?」と打診された。
彼は客の声を大切にし、いつも味の感想を聞いていた。
実は、客の声に耳を傾け、メニューを研究し続ける姿を大家は見ていたのだ。
そして、大家が保証人になり、銀行から100万円借りてくれることになった。
ここから、あのお店へとつながる大逆転劇が始まる!
自分の店を持つ夢を叶えた彼は従業員を雇い、スタートを切った。
しかし、同じ場所で同じようにやっていてもダメだと思い、何か劇的に変える策を考える必要があると思った彼は、友人に相談した。
すると、友人に「そういえば、お前さ〇〇○って言っていなかった」と言われ、あるアイデアを思いついた!
それは、深夜営業!
夜の繁華街で働く人たちが仕事終わりに気軽に立ち寄れる店があれば、客がやって来てくれると考えたのだ。
それは、彼が堕落した生活を送っている時…閉まっている店を見て『もう閉まってんのかよ。しけてんなぁ』と言っていたと、友人に言われたことがきっかけで思いついたアイデアだった。
さらに、街を歩くサラリーマンを見て…彼がお弁当を持ち歩いていないことに気がつき、外食の時代がやってくると感じた。
すると、通りから見えにくい2階の店舗にも関わらず、口コミで評判が広まり、開店からわずかな期間で借金返済の目処がたつほどの人気店に!
貧乏だったからこそ、誰もが食べられる値段にこだわった。
そして、新たな店舗をオープン!
客の笑顔に加え、働く人たちの笑顔も守るため、その店を苦楽をともにした従業員に託していった。
だが、新たに人を雇うにも腕のあるプロの料理人はなかなか集まらない。 そこで、主婦や飲食店勤務の経験がない人を雇用することにした。 レシピや工程を簡単にして、誰でも作れるメニューに改良したのだ。
定番メニューの改良に加え、新たなメニューの開発にも取り組んだ。
アルバイトや従業員たちはやりがいを持って働いてくれていた。
こうして従業員の笑顔が広がると、その輪をさらに大きくするため、新たに店舗を増やしていく決意をした。
当時、各地の駅前にある外資系のファストフード店が人気を集めていた。
低価格を売りにしていた彼の店は、この流れに乗れると確信。
ファストフード店がある近隣に店を構えるという、コバンザメ戦略を取ることにした。
責任は全て負うという信念のもと、徐々に店舗を増やしていった。
だからこそ彼が特にこだわったのは…価格の決定は必ず自分ですること。
さらに、新規出店の際も現地へ飛び 必ず自分で判断したという。
毎日食べても飽きない母の味。
主婦など未経験者を積極的に採用。
人気ファストフード店の近くへ出店する、コバンザメ戦略。
さらに、自ら価格を決め、出店場所も見極めた。
こうした数々の工夫が実を結び…創業から 約40年後には150店舗以上!
年間売り上げ150億円を誇る、誰もが知る一大チェーンに!
さらに、一流企業の証でもある 東証一部上場を果たした。
大企業の社長になってなお、その信念はますます強くなっていき、ハイヤーなどの導入を勧められるも電車通勤にこだわり続けた。
さらに彼は、全従業員を驚かせるあるアンビリバボーな行動にでる!
自身が保有する会社の株式の一部、総額約十億円分をアルバイトを含む従業員に分け与えることにしたというのだ!
人生のどん底を経験した男が…
「商売で成功したって 人のためにならないといけないよ」という、母の教えを守ることで大成功し誕生した一大チェーン。
彼が作り上げた誰もが知るそのお店は…中華食堂 日高屋!
現在 470店舗以上を構え、年間売り上げは600億円以上の一大チェーンだ。
そして、日高屋を作り上げた人物は、神田正さん。
実は、元々「来来軒」という名前で店舗を営業していたが、今から24年前、現在の「日高屋」に変更。
その理由は、誰もが安心して笑顔になれるおふくろの味を目指したい…その想いから、貧しかった頃に暮らしていた埼玉県日高市の名前を付けたのだ。
神田さんは今から17年前に社長を退き、現在は会長職。
これだけの成功を手にして、欲は出なかったのか? 本人に聞いてみると。
「やっぱり人間だから欲のない人はいないと思うんですよ。いずれは家を作りたいと思ってやってったから。裏を返せば私利私欲かもしれない。そういうのあったけど、やはりこの仕事を通して、多少でも人のためになれんかなっていう気持ちはものすごく強くなってきてますね」
多くのお客さんの笑顔と、働く人々の笑顔に包まれている日高屋。
そして、その原点となった商売で成功しても 人のためになれという教え。
神田さんのお母さんは、今から13年前、99歳で天寿をまっとうするまで、優しく笑顔で見守ってくれていたという。
その最後に神田さんはこんな約束をしたという。
『母ちゃん、世のため人のために働く正しい人間になります』
神田「うちの原点はやっぱり自分のお袋さんですね。貧乏だったけどいい家に生まれたなと思ってますね。お袋の子供になってよかったなと思ってます」