オンエア
今から41年前、兵庫県・尼崎市に住む堀江ひとみは、デパートの呉服売り場に勤めていた。
ひとみには、まやという一人娘がいたのだが…この後、自分たちの運命が大きく変わっていくことを彼女はまだ知らなかった。
夜、警察が家にやって来て、駅で事件が起こり、娘・まやが巻き込まれたため、一緒に来て欲しいと言ってきた。
この時、ひとみは、娘が軽い交通事故にでも遭ったのだろうと思った。
だが…目にしたのは、意識不明の重体となった、変わり果てた娘の姿だった。
なんと、まやの腹部を銃弾が貫通したというのだ!
果たして、まやの身に一体何が!!
東京の専門学校に通っていた、まや。 長期休暇で帰省していた彼女は、地元の友達とバンドを組み、ライブをやろうと計画していた。 そして、近くのスナックでドラムを借りて練習。 この日は、片付けのためにスナックに戻り、店の手伝いも行っていた。
スナックのマネージャーを訪ねて来た男がいきなり拳銃を取り出し、銃を乱射!
まやも銃弾に倒れた。
まやは、暴力団の抗争に巻き込まれてしまったのだ!
きっかけは、この日から遡ること13日前の1985年9月10日。
奈良県の繁華街にあるスナックで、暴力団である山口組系『倉本組』の組員と一般客との間でトラブルが発生。
たまたまその場に居合わせた別の暴力団の幹部が仲裁に入ろうとしたのだが、それに逆上した倉本組の組員が仲裁に入った暴力団幹部を刺殺したのだ。
まやがいたスナックで起きた発砲事件は、この刺殺事件に対する報復。
実は、まやが働いていたスナックのマネージャーは倉本組の組員だったのだ。
そして、マネージャーを狙って放たれた銃弾が、偶然 居合わせただけのまやに誤って当たってしまったのだ!
まやを搬送した救急隊員がひとみに声をかけてきた。
搬送した時にまやから聞いたことを伝えたいという。
まやは救急隊員に「母をよろしくお願いします」と言ったという。
3回流産して、やっと授かった一人娘だった。
夫は持病を患い、長い入院生活を送っていたため、娘と2人での生活。
まやは東京の専門学校に行ってからも、休みのたびに実家に帰ってくる優しい娘だった。
翌朝、まやは意識を回復することなく、そのまま帰らぬ人となった。
その一方、狙われた倉本組の組員は、胸を撃たれたものの、一命を取り留めた。
実行犯は逃亡を続けた。
なのに…なんの関係もない、たまたま居合わせただけのまやがなぜ命を落とさねばならなかったのか?
まやの葬儀に倉本組の組員たちが焼香をさせろと言ってきていた。
ひとみは、あえて『ヤクザ』と書いた列に暴力団関係者を並ばせた。
まやを殺した犯人や関係者が、その中にいるかもしれない…ただ その思いからだった。
そして、ひとみは、まやの仇を討つ決意を固めた。
しかし、当時 兵庫県内では、事件とは別の暴力団同士の抗争が激化していた。
きっかけは、今から45年前の7月、当時、日本最大の広域暴力団だった山口組3代目組長、田岡一雄が心不全で死亡。
ドンが亡くなったことで、組は後釜を狙って2つの派閥に分裂。
後継を勝ち取った新体制の『山口組』と、納得がいかず独立した『一和会』による、血で血を洗う、いわゆる『山一抗争』が勃発した。
終結までの4年半の間で、実に317件の事件が発生。
暴力団関係者だけでなく、警察官や市民にまで危害が及んだ、歴史に残る暴力団抗争の真っ最中に事件は起きた。
兵庫県警は混乱の真っ只中、まやの事件も捜査は行われていたものの、犯人につながる有力な手がかりをつかめずにいたのだ。
なぜ自分の娘が…どこにもぶつけようのない怒り…ひとみは娘の遺骨を胸に抱き、毎日のように川沿いをさまよい続けた。
そんな時、近所に住む高校生が声をかけてきた。
「お母さん、何してんの? まやちゃん風邪ひくで。一緒に帰ろう」と。
さらに…近所の人が料理を作ってきてくれ、励ましてくれた。
犯罪被害者への支援が、今ほど浸透していなかった時代…近所の人たちの優しさが身に沁みた。
そして、事件からおよそ1年半が経った1987年。
ようやく、実行犯の男が逮捕された。
刺殺された幹部と同じ暴力団に所属する、33歳の組員だった。
裁判の場で、ひとみは初めて娘を殺した犯人を間近で見た。
暴力団との繋がりなどこれまで一切なかったにも関わらず、ひとみは実行犯の顔にどこか見覚えがあったのだ。
しかし、どうしても思い出すことができなかった。
その後、男は犯行を全面的に認め、まやへの殺人罪と、スナックのマネジャーに対する殺人未遂罪で懲役18年の刑が確定した。
だがその一方で、マネージャーの殺害を命じたとして、実行犯が所属する暴力団の組長も殺人を共謀したとして起訴されたのだが…事件の関与を全面的に否認したのだ!
組長が事件に関わった証拠はなく、罪に問うことは難しくみえた。
当時の法律では暴力団の存在を肯定すること自体を好ましくないとされ、『暴力団』は実在しない組織とされていた。
そのため、違法行為はあくまでも実行した組員個人の責任。
組や組長が責任を問われることはなかったのだ。
その一方、暴力団同士の抗争が激化する中、一般人が巻き添えに遭う事件も増加していた。
そこでひとみはある大きな決断をする。
刑事裁判で有罪にできる見込みが薄いのであれば、民事訴訟で組長の責任を認めさせる方法はないかと、弁護士事務所を渡り歩いた。
だが…何件回っても返ってくるのは『無理』だという答えだった。
しかし、愛する娘の無念を晴らすためにも決して諦めるわけにはいかない。
こんな時、あなたならどうする!?
一緒に戦ってくれる弁護士が見つからない中、ひとみが下した決断、それは…弁護士に頼らず自分で訴えること!
ひとみは法律書が多く置いてある図書館で、分厚い法律書を読み漁り、独学で法律の勉強を開始。
組長を訴える方法がないか探し始めたのだ。
図書館を利用するほとんどが、法律を学ぶ若者の中、ひとみの存在は浮いていた。
それでも諦めず、2ヶ月通い続けた。
そんな時、若者たちがひとみに声をかけてきた。
彼らは京都大学などに通う、司法試験合格を目指す大学生たちで、事件のことを知っていた。
すると…勉強会を開き、親身になって法律を教えてくれるようになったのだ。
昼間は仕事をして、夜は独学で法律の勉強。
体力は限界に近づきつつあった。
そんな時、ひとみを何かと気遣ってくれる刑事の1人が、夕飯を持って訪ねてきた。
そして、弁護士を1人紹介してくれるという。
事件からはすでに6年が経過していたが、刑事の知り合いである垣添という弁護士を訪ねてみることにした。
垣添弁護士は『使用者責任』を問えば可能性はゼロではないという。
『使用者責任』とは、会社などの組織に所属する人間が業務上で過失を犯した場合、個人だけでなく、その組織や雇用主の責任を問えるという、民法で定められた制度である。
しかし、一般的に使用者責任は、合法的な組織に適用されるべきものであって、非合法の組織には適用すべきではないと考えられていた。 その理由は、暴力団などの組織に適用してしまうと、その存在を法律で認めてしまうことに繋がるから。 当然、暴力団に適用された事例はこれまで一度もなかった。
暴力団に『使用者責任』は取れないというのが法律家の間での通説であった。
しかし、逆に言えば、通説でしかないのだ。
さらに垣添の助力もあり、他にも複数の弁護士が協力してくれることになった。
その一方で、ひとみにはどうしても確かめたいことがあった。
ひとみは実行犯に面会に行った。
そして、実行犯に20年前に神戸の摩耶山に母親と一緒に切り花を売りに来ていなかったかと聞いた。
そこは親戚の寺があり、娘が小さい頃、よく遊びに連れて行った場所。
ひとみはこの山の名前、『摩耶山』にあやかり、『まや』という名前をつけていた。
そして、この場所に母と一緒に切り花を売りに来ていた少年にまやは懐き、よく肩車をしてもらい 遊んでいた。
その少年に実行犯はよく似ていたのだ。
実行犯は、自分が撃った女性がかつて一緒に遊んだ少女だと知って、土下座をして謝罪した。
元々は寿司職人見習いだったという若者は、暴力団員になるつもりなど全くなかった。
常連客だった暴力団幹部に脅され『一つ二つ仕事をしたら返したる』と、引きづり込まれていき、気がつけば組員になっていたという。
実行犯の証言があれば、組長の責任を間違いなく追及できるはず。
だが、報復を恐れた実行犯は証言することを拒否。
事件から7年が経った1992年3月、『暴力団対策法』が施行された。
ようやく暴力団という組織が法律に明記され、法の網をかけられるようになったのだ。
しかし その一方で、組員が犯した罪に対する組長への責任追及については記載されていないなど、多くの欠陥を抱えていた。
そんな中、ひとみは実行犯が所属していた暴力団の組長に対して『使用者責任』を問うため、世間への問題提起という意味も込め、巨額の1億1千万円を求める民事訴訟を起こしたのだ。 それは壮絶な闘いの幕開けだった。
差出人不明のカミソリ入りの手紙、毎日 深夜2時ごろに鳴る脅迫電話。
裁判中、次々に不気味なことが起こった。
ひとみの動向は常に見張られ、逐一報告されているようだった。
そして…男に車に向かって突き飛ばされたところを、すんでのところで地元・尼崎北署の刑事たちに助けられた。
警察もただ手をこまねいているわけではなかった。
暴力団対策法に則り、ひとみを要保護対象者として保護するようになっていたのだ。
当時、実際に警護にあたった兵庫県警・尼崎北署の刑事は後にこう語っている。
「堀江さんの警護は確かに最重要課題だった。しかし『兵庫県警の威信にかけて』なんて考えてなかった。とにかく我々はただ『この人を守らなければ、この人には指一本触れさせん』との思いだった。堀江さんと接した人ならわかると思うけどね」
一方、組長は依然として頑なに事件の関与を否定。
犯行は暴走した組員によるものとしていた。
新たな証拠も特になく、両者の主張は平行線。
民事裁判はこう着状態だった。
そんな中、裁判官は、ひとみに和解に応じるように提案した。 しかし、ひとみの目的はお金ではない。 娘の命を奪った責任を暴力団そのものに認めさせること。 和解を簡単に受け入れることなどできなかった。
和解の提案に対して、ひとみはある『条件』をつけた。
それは…組長の心からの謝罪。
その謝罪は組長にとって自らの罪を認めるに等しい行為。
当然、刑事裁判にも大きく影響する…被告側が受け入れるとは思えなかった。
さらに、暴力団員たちによる嫌がらせは、ひとみの弟のところにまで及んでいた。
そのため、弟に裁判をやめるように頼まれてしまった。
一般人が暴力団を訴えるなど、やはり無謀だったのか?
家族にまで危険が及ぶ中、果たして闘い続けることはできるのか?
こんな時、あなたならどうする!?
ひとみは娘が亡くなったことが認められず、事件後、ずっと入ることが出来なかった、娘・まやの部屋に入った。
何気なく開けた引き出しに入っていたのは…『わたしの宝箱』と書かれた缶だった。
そこに入っていたのは、まやの乳歯だった。
すでに、まやが亡くなってから9年近くの月日が経っていた。
その間、たった1人で闘い続けてきたひとみは、身も心もボロボロだった。
そんな時、男性に声をかけられた。
その男性は、かつて図書館で ひとみのために勉強会を開いてくれた、あの大学生の1人だった。
あの時、勉強会に参加していた学生全員が司法試験に合格、弁護士や検事として活躍しているという。
彼は、ひとみの頑張っている姿を見て、自分も頑張れたと言ってくれた。
あの時 助けてもらったのは自分だった…なのにそんな自分に励まされたと言ってくれたことが嬉しかった。
そして、ひとみは娘を殺した犯人と面会を重ねた。
組長に責任を問うために残された道は、ただ一つ。
実行犯の証言しかなかった。
そして…組長の刑事裁判中でのことだった。
実行犯は、組長の指示で犯行に及んだことを証言したのだ!
この証言が組長の刑事裁判の行方を決定づけた。
そして、その3ヶ月後、ついに組長側が謝罪することを受け入れ、和解が成立した。
それは、一般人が暴力団の組長を『使用者責任』で訴え、かつ実質的に勝利した日本初のケースとなった。
しかも訴えたのが普通の主婦であること、娘の仇討ちのためだったことが注目を集め、メディアはこの裁判の結末を大きく報じた。
刑事裁判では、実行犯の証言が重要な証拠と認定され、組長には殺人罪と殺人未遂罪で懲役15年の実刑判決が言い渡された。
その後、控訴、上告するも、事件発生から16年後の2001年12月、最高裁で判決は確定した。
なお、組長は現在も犯行への関与は否定し、冤罪を訴え続けている。
娘を失った母の10年に及ぶ壮絶な闘い。
しかし、ひとみにとっての本当の闘いは、まだ幕を下ろしていなかった!
その後、ひとみさんは、和解金4000万円を使って『まや基金』を設立。
これは、暴力団の被害にあった被害者家族を支援するための取り組みだった。
さらに、『暴力団被害者の会』を結成。
娘・まやさんの位牌を抱きながら、全国で講演会を行い、暴力団排除を訴え続けた。
その時も、警察は万が一に備え、どの講演会でも彼女を警護し続けた。
こうした ひとみさんの命懸けの活動も影響し、今から22年前の2004年12月、被害者の支援や保護を目的とした『犯罪被害者等基本法』が成立。
さらに、暴力団に関する政府の指針や、各自治体の条例などが新たに出され、暴力団関係者が銀行口座を作ったり、不動産の契約をしたりすることが困難になった。
そして、今から18年前の2008年『暴力団対策法』が改正。
指定暴力団の組員が他人の生命、身体を害した場合、組長は賠償責任を負うという、『代表者責任』がついに法律に明記されることとなった。
ひとみさんと共に闘った垣添弁護士にとっても、彼女の存在は大きかったという。
垣添「娘を亡くした悲しみだけじゃなく、大きな使命感を持ってらっしゃいました。それに私も感動を受けました。それまでも暴力団の被害者はたくさんいたんですけども、闘うという方はいらっしゃらなくて、初めて 堀江さんが取り組まれた。そういう点では暴力団の民事事件に携わる弁護士にも大きな使命感を与えてくれた方です」
ひとみさんは晩年、静岡県に小さな家を構え、暴力団事件の被害者や遺族との交流を続け、今から14年前の2012年4月、心不全により亡くなった。 享年77だった。
『最愛の娘を失った悲しみを、二度と誰にも味合わせたくない…』
暴力団と闘い続けた彼女の人生は、今、多くの人たちに勇気を与えている。
ひとみさんはかつてこう話してくれた。
「みんなで頑張ろう。怖いものは怖い。けれども『怖い』からと家にこもっていたんでは決して良いことは出てこない」
ひとみさんの闘いは地元、兵庫県・尼崎市の人々の心に特に強い影響を与えたという。
垣添「(昔の尼崎市は)暴力団に汚染された町だったんです。その状況を諦めているような市民もいたけれど、ひとみさんが勝利したということが尼崎の一般市民に勇気を与えた。間違いなく。同時に行政も動かしたんですね」
ひとみさんが亡くなってから10年後の2022年9月、尼崎市は市内に唯一残っていた暴力団事務所の閉鎖を確認したと発表。
それは市民たちによる排除運動の成果だとした。
また、複数の暴力団事務所があった市区町村で、その数がゼロになったケースは全国初だったという。
さらにその翌年、市民たちの強い要望を受け、市は暴力団排除条例を大幅に改正。
従来、多くの自治体では、学校周辺や住宅街など限られた区域でしか暴力団事務所の運営や開設を規制することができなかったのだが、尼崎市は全国で初めて、規制の対象を市内全域に拡大したのだ!
またその翌年には、罰則の規定を厳格化するなど、『暴力団を街に根付かせない』という市民と行政の強い決意を示し続けている。
暴力団をなくすという、ひとみさんの決意は、今も時を超え受け継がれているのだ。