オンエア
年間300万人もの観光客が訪れる北海道・洞爺湖町。
豊かな自然に囲まれたこの地に不思議な光景が広がる場所があるという。
町の中心から車で走ること10分。
ガイドに案内され、着いた場所にあったのは…沼の中から生えた電柱や、止まれの標識。
水没した車がそのまま放置されている。
そう、ここはかつて道路だったのだ!
さらに、沼の先に水中から続く上り坂がある。
しかもこの道路、かつては下り坂だったという。
水没した道路、かつては下り坂だったという上り坂…いったいこの場所で何が起こったのか?
ことの始まりは、今から26年前。
現在の洞爺湖町にあたる虻田町の団地に住む荒町一家。
この春、長男が小学校入学を控え、希望に満ちた時期を迎えていた。
しかし、彼らは知る由もなかった…この後、予期せぬ未来が待ち受けているということを。
虻田町の隣にある伊達市。
この日、ある人物のもとにある電話がかかってきた。
有珠山の麓にある観測所から、地震が増えているという連絡だった。
有珠山は北海道の南西部にそびえる標高733mの山。
洞爺湖のすぐ南、2つの町と1つの市を跨ぐようにそびえる緑豊かで美しい山だ。
連絡を受けた男は極めて冷静だった。
彼の名は岡田 弘、北海道大学の教授だった。
岡田は地震の数も規模も大したことないと、観測所には出向かない判断をした。
だが、そのわずか2時間後には、地震の数が急増していると、再び観測所から連絡がきた。
それを聞き、岡田は観測所へ急行した。
美しい山で一体何が起きているのか?
そして、そのおよそ3時間後、観測所に地元の消防から電話がかかってきた。
普通の地震とは異なる振動を感じた住民が、観測所に伝えた方が良いのではと、消防へ通報してきたというのだ。
そのおよそ20分後、岡田も震度1の小さな揺れを体で感じた。
しかも、揺れは一度では終わらず、その後も体でわずかに感じられる地震が何度か発生した。
異変に気がつく住民も少しずつ増えていた。
一方、岡田はある行動に出ていた。
北大の観測所の分析結果を記した、通称『北大メモ』を作成し、東京の気象庁や気象台、北海道庁へファックスで一斉送信したのだ。
そこに記されていた内容、それは…『次期 噴火の前兆は既に始まっている可能性が最も高い』というもの。
そう、岡田の専攻は、『火山』。
彼はわずかな地震の兆候だけで、活火山である有珠山が噴火する可能性があると警告を発したのだ。
彼が噴火の可能性があると確信したのには、ある理由があった。
火山にはサラサラとしたマグマを持つタイプと、ドロドロとした粘り気の強いマグマを持つタイプがある。
有珠山は後者だ。
有珠山では噴火が起きる際、この粘り気の強いマグマが周囲の岩盤を破壊しながら、地表に上がろうとするため、必ず 前兆となる多数の地震と地割れが発生する。
だからこそ、岡田は確信を持っていたのだ。
岡田の警告を受け、地元の気象台は、今後の火山活動に十分注意をするようにといった趣旨の『臨時火山情報』を発令。
これを受け、麓の3市町は臨戦体制に入っていく。
夜明けと共に警察のヘリが飛び立ち、火山を監視。
消防は自主的な避難の呼びかけを行った。
危険が迫っていることを知った住民の中には、過去に配られたハザードマップを確認し、自ら近くの体育館などに避難をする者もいた。
だが、テレビで速報が流れても荒町さんや、多くの人にとって噴火はまだ対岸の火事。
想像もしない出来事だった。
そして、その日の夕方、大きな地震が発生。
実は荒町さんが住む桜ヶ丘団地は、有珠山の山頂から3キロほど場所にあり、5年前に全ての家に配布されていたハザードマップでも火砕流に襲われる可能性がある場所とされていた。
夫はハザードマップで桜ヶ丘団地が危険区域に入ると把握していたが、荒町さんはハザードマップを見たことがなかった。
さらに、この時点では行政から正式な『避難指示』は出ておらず、荒町さんたちのように多くの住民は避難をしていなかった。
夜が深まるにつれ、不気味な揺れは徐々に増え続けた。
幼い子供を抱える身、荒町一家は無事に夜が明けることを祈り続けた。
明けて翌29日、大きな揺れが観測所を襲った。
この時、岡田は思った『噴火の可能性はさらに強まった』と。
一方、市街地では、自主的な避難が呼び掛けられていたものの、住民からの戸惑いや反発の声も少なくなかった。
岡田「特に観光業の方々は、商売に影響することは絶対に嫌だったんですね。『この程度だったら我慢して乗り切れるんじゃないか』と、簡単に思い込んでいた。しかも(地震には)波があって時間的に少し増えたり、あるいはちょっと止まり気味になったり、やっぱりそういうことも『油断』させる原因になったと思いますね」
そんな中、岡田はある決断を迫られていた。
気象庁や地元気象台に働きかけ、緊急性がさらに高くなったという公式発表を出してもらえれば、危険区域に住む1万人以上の住民を避難させることができる。
しかし、噴火が起きるという予測が100%当たる保証はない。
もし外れれば、人々の生活に甚大な損害を与えてしまうことは間違いなかった。
自身の決断が多くの人の運命を左右する状況の中、果たして、岡田教授が下した決断とは!? こんな時、あなたならどうする!?
岡田は人々の命を第一に考え、すぐに気象庁へ連絡。
地元の気象台から人命に関わる甚大な火山活動が起きていることを示す『緊急火山情報』を発表させたのだ。
さらに、住民を一刻も早く避難させるため、気象台からの発表だけでなく、自ら『わかり易く強い言葉』で住民に状況を説明する必要があると考えた。
そして、この日の夕方、記者会見を実施。
無数のカメラの前で岡田はこう言い放った。
「有珠山の活動は、特に表面活動は短期決戦方です。ですから ここ一両日、あるいは三日、長くても一週間程度。その中で噴火が発生する確率が非常に高い」
一両日、すなわり早ければ、1〜2日の間で噴火する恐れがある。
この具体的な数字こそが、住民を動かすために岡田が放った決死の宣告だった。
それにしても一体なぜ、岡田は自信を持って危機を断言できたのか?
元々は地震学者だった岡田。
そんな彼の運命を変えたのが、会見の23年前に起きた有珠山の噴火。
この噴火によって住民が犠牲となったことに、岡田は激しい衝撃を受けた。
『もっと早く、ちゃんと警告できていれば』
その後悔から、火山学への転向を決意。
家族と共に有珠山の麓に移り住んだ。
そして、もう二度と犠牲者は出さないと20年以上、有珠山を研究を続けると共に、行政を巻き込み『防災ネットワーク』を築く努力を重ねてきた。
さらに岡田は、有珠山は地震が何度も起こった後に必ず噴火する『ウソをつかない山』であることを世に提唱してきたのだ。
この後悔の念と科学的確信があったからこそ、あの決死の宣告ができたのだ。
この宣告に背中を押された有珠山の麓の市や町は、火山活動が活発化している山頂北西部からの噴火を想定し、ハザードマップで示された中でも最も危険な区域をベースに、1万人以上の住民に『避難指示』を発令。
それは、行政が出せる最高レベルの避難命令だった。
これにより、ついに人々は動いた。
住民たちは避難を決意。
次々と町を後にしたのだ。
荒町さん一家も急いで避難準備を始めた。
だが、ハザードマップが見つからず、どこへ逃げれば良いのかわかっていなかった。
するとその時、行政の担当者が直接 家を訪ねてきた。
実はこの時、町は広報車や無線だけに頼らず、職員達が家を回り、避難場所を伝え歩いていたのだ。
記者会見の翌日、3市町で合計1万545人の事前避難が完了。
その一方、有珠山はついに不気味な牙を剥き出し始めた。
専門家チームのヘリコプターによる観測で、山の斜面に100m以上にわたる巨大な断層、地割れがハッキリと確認されたのだ。
さらに、山頂付近をとらえた自衛隊の赤外線カメラによって、山肌の温度が地表間近に迫ったマグマに熱せられ、上昇していることが確認された。
そして、岡田が『一両日』という言葉を発したあの会見から43時間が経過した、3月31日午後1時7分、有珠山がついに火を吹いた!
それはまさに、1万人の住民避難が完了した翌日の出来事だった!
恐るべきは、火口から無数に放たれた噴石。
これら無数の噴石が空から降り注ぎ、多くの建物の屋根を突き破った。
さらに、有毒な黒煙。
一息吸い込むだけで、命を落とす危険があった。
この時、住民たちは町周辺にある学校や体育館など、安全な場所に身を寄せていたため、難を逃れた。
岡田の宣告とそれを信じた住民たちの全員避難、その決断こそが大惨事を防いだのだ!
荒町さん一家は姉の家が受け入れてくれることになったため、そこに避難し、難を逃れていた。
噴火の瞬間はテレビで見ていたという。
この時はまだ、すぐに元の生活に戻れると信じて疑わなかった。
一方その頃、伊達市役所に置かれた現地対策本部では、最悪の事実が発覚していた。
噴火した場所が想定よりも西側にずれていたのだ。
専門家たちは当初、地割れが確認された山頂北西部での噴火を想定し、避難区域を設定していた。
しかし、火口が西へ大幅にずれたことにより、危険区域に該当していなかった虻田町の市街地が危機にさらされることに。
火口から役場までの距離はおよそ2.8キロ。
火口付近に住む人たちはすでに避難していたため、この時点で人的な被害は出ていなかった。
だが今後、火砕流が発生すれば、町は数分で飲み込まれたしまう絶望的な状況に陥っていた。
すると、岡田たち専門家はすぐにある決断を下した。
そして、その決断は、直ちに虻田町役場に伝えられた。
岡田たちは、新たな危険区域を提示し、対策本部は虻田町市街地に暮らす住民の『全員避難』を決断したのだ!
町にはマイカーを持たないお年寄りや、体の不自由な人など、自力で動けない人が大勢いた。
しかもその人数は正確にはわからない。
すぐそばを通る高速道路は、すでに全面通行止め。
唯一残された国道も、両方向共に避難所に逃げる周辺住民の車で大渋滞だった。
万事休すかと思われたその時、岡田は『ある作戦』の決行を提案した。
だがそれは本来、事前の準備なしに行うのは極めてハードルが高い作戦だった。
果たして、岡田が提案した作戦とは一体!?
岡田は列車を使った避難を提案した。
実は、かつて北海道の駒ヶ岳が噴火した際、列車によって大勢の命が救われた歴史があった。
岡田は常に万が一のことを考えていたからこそ、ただちに『避難列車』の提言ができたのだ。
この時、八雲駅付近を走行中だった列車は、180名の乗客を乗せ、オレンジの線のようなルートで札幌駅に向かう予定だった。
虻田町方面のルートは封鎖されていたため、向かうことは不可能だった。
そして、噴火から23分後、JR北海道は異例の決断を下す。
運行本部は特例として、線路の封鎖を解除。
長万部駅で乗客を全員 降ろした後、虻田町にある洞爺駅で逃げ遅れた住民を乗せ、再び戻ってくるように指示を出したのだ。
その情報は、運転手から車掌へと伝えられた。
車掌は乗客たちに長万部駅で降りるように告げた。
そして列車は長万部駅に到着。
非難されてもおかしくない状況だったが、誰1人として不満の声を上げる者はいなかった。
空っぽになった電車は黒煙が上がる火の山へ向かった。
一方、市街地では自力で駅まで向かえない住民を救うため、消防車や救急車、パトカーまでもがフル稼働。
町を巡回して避難を呼びかけ、お年寄りたちを乗せて駅まで向かうピストン輸送が行われた。
そして、午後6時15分、逃げ遅れていた133人の被災者を乗せた列車が安全な長万部駅へと無事に帰還した。
学者、行政、民間、そして乗客たちの善意。
組織の垣根を超えた連携によって、約6000人の避難が1人の犠牲者を出すこともなく、完了したのである!
しかし、有珠山の怒りはまだ収まってはいなかった。
噴火の翌日、今度は温泉街に近い場所で、新たな噴火が発生したのだ。
幸い、危険区域内の住民は全員避難が完了していたのだが、こうした火山活動や火口から流れ出した土砂を含む高温の地下水などによって、町は壊滅的な状態に陥った。
それは、有珠山の麓に住んでいた荒町さんにとっても、人ごとではなかった。
火口からおよそ1キロの位置にある、かつて荒町さんが住んでいた桜ヶ丘団地。
一家は団地の上から2番目、4階の部屋に住んでいたのだが、大量の泥によって1階部分が完全に埋もれてしまったため、そこは3階になっていた。
荒町美紀さんはこう話してくれた。
「ショックを受けたかってよく聞かれるんですけど、ワーっていうのはなかったんですよね。もうダメだから やっぱり切り替えなきゃ。若かったていうのもあるんですけど、切り替えなきゃっていう気持ちが強かったですね」
家も財産も失った。
しかし、大切な家族がいる。
その事実が彼女に前を向かせたのだ。
避難所生活は、長い人では5ヶ月に及び、ようやく多くの地域で避難指示が解除された。
戻ってきた住民を待っていたのは、変わり果てた故郷の姿。
それでも、この地に残る決断をした住民が多くいた。
彼らにとって有珠山は、噴火のサインを見逃さず、正しく向き合えば、温泉や絶景といった豊かな恩恵をもたらしてくれる魅力溢れる山だからだ。
火山と共に生きていく…そんな思いを込めて、住民たちはあえて悲惨な傷跡を『災害遺構』として残す決断をした。
その一つが冒頭で紹介した、水没した道路。
噴火によって地面が最大70mも隆起、その結果、下り坂が上り坂に。
また手前の沼はくぼみに雨や雪解け水が溜まりできたのだという。
過去の災害の爪痕を『生きた教訓』として未来に残し、伝える。
そこには岡田の強い信念もあった。
岡田「『過去は未来の鍵』とよく言います。自然災害などは過去に起こった現象を正しく理解し、その教訓を未来に生かしていく。有珠山でも災害そのものを完全に忘れるのではなくて、その記憶をどのように引き継いでいくか、次の時代に活かしていくか。やみくもに恐れるのではなくて、正しく恐れ、正しく備える。このことがとても重要になりますね」
今から26年前に起きた有珠山噴火。
人々の決死の決断により、誰1人犠牲者を出すことなく、およそ1万6000人もの人々が無事に避難を完了した。
有珠山の麓で家族と一緒に暮らしていた荒町さんも、その内の1人。
彼女たちが暮らしていた桜ヶ丘団地は、噴火の影響で1階部分が泥で完全に埋もれてしまった。
そんな変わり果てた我が家の姿を見た荒町さんには、何よりも心配していたことがあった。
荒町「避難の時に最低限のものしか持たなかったので、子供たちの小さい頃からのアルバムを(家に)残してきちゃった。それを取り出せなかったのが、すごく気になってました」
幸いアルバムは火山灰を被っていただけで、後日、無事に持ち帰ることができた。
大切な思い出は守られた。
しかし、もう二度とあの家で暮らすということは叶わなかった。
被災から今年で26年、2人の子供は独立し、彼女は今もご主人と有珠山の麓、かつての虻田町、現在の洞爺湖町に住んでいる。
家を失うという過酷な経験をしたのにも関わらず、なぜ彼女はこの地に残る決断をしたのか?
荒町「有珠山の麓でデメリットも大きいですけど、この町が好きで、この町を守っていきたい気持ちも やっぱり大きくあるので、離れずに暮らしていこうっていう気持ちが強い」
その言葉を体現するように、現在 荒町さんは『洞爺湖有珠火山マイスター』として、火山の正しい知識や防災を伝える活動をしている。
荒町「有珠山のことを知らないのに命をちゃんと守れたのは、おそらく周りの人の力があったから。次はその助けてくれた方達への恩返しの含め、自分が微力ながら周りの人たちを助ける立場になりたい気持ちが やっぱり強いです」
こうした火山と共生する取り組みは全国で評価され、今から17年前、この一帯は日本初となる、ユネスコの『世界ジオパーク』に認定された。
それは、国際的に価値のある地形や地質を持つ場所が認定されるもの。
いわば、『大地の世界遺産』とも呼ばれる称号だ。
いつか必ず、また噴火はやってくる。
しかし、多くの命を救ったその教訓は、今も確かなバトンとしてこの町に根付いているのだ。