オンエア
彼は甲子園常連校の野球部の中でも、注目の的だった。 入部してまもなく、先輩たちを差し置いてレギュラーを獲得。 夢は甲子園に出場し、勝ち進み…ゆくゆくは憧れの王や長嶋のようなスーパースターになることだった。
そんな彼の原動力は…『経験こそ宝』、そんな父の言葉だった。 彼の父は戦争中、戦地から命からがら生還。 戦後は自分で会社を興すなど、さまざまな経験をしてきた人。 その言葉には重みがあった。
プロを目指していた彼だったが、練習中にバットが直撃。
左の肩と肘を負傷した。
左利きの彼にとって、それは野球を続けることを断念せざるを得ない大ケガだった。
甲子園、そしてプロ野球の夢は呆気なく断たれた。
一瞬にして夢を打ち砕かれた彼は…他校の生徒との喧嘩に明け暮れた。
この不祥事に生徒たちの親が学校に呼ばれた。
父は、教師達に頭を下げ、謝罪。
しかし、父は、彼にはこう言ったのだ。
「野球ができないのは辛いだろう。だけどな、お前は今、挫折っていう滅多にできない経験をしているんだ。だから腐らずにその経験を活かせ」
何をしていいかわからない日々。
音に誘われるように入ってみると…ギターを弾く生徒たちがいた。
いきなり「お前も弾いてみる?」と聞かれた。
実は、彼は近所の大学生にギターを習ったことがあり、自己流ながら ある程度弾くことはできた。
しかし、人前で弾いたことはなく、抵抗はあったものの…何事も経験だと思い、左利き用のギターではなく、なんと 右利き用のギターを逆さにして演奏。
すると、彼らとバンドを組むことになった。 野球一筋、音楽など考えたこともなかったのだが…経験こそ宝、やるからにはとことんやる! 彼はその言葉を胸に音楽づけの日々を送った。
大学入学後も音楽活動は継続。
歌が上手かった彼はバンドのボーカルを務めていた。
そんなある日のこと…ある人物に「プロでやってみない?」と声をかけられた。
その男性は、のちの 誰もが知る有名人。
この時はまだ、芸能プロダクションでマネージャー兼、作曲家をしていた。
ほどなくして、当時 流行していたグループサウンズの1つとしてデビューすることになった。
彼らを見出した男性がマネージャーとなり、他のグループサウンズと差別化するため、当時珍しかったオールインワンの衣装を着せ、今で言うビジュアル系のようなメイクをさせた。
メンバーはそのことに抵抗を感じていた。
彼も本心では嫌だったのだが、なんでも経験してみる…彼はここでもそれを貫いた。
こうして見事、デビューを果たした。
しかし、時代は変わり、すでにグループサウンズは下火になっていた。
レコードは思うように売れず…1年半でグループは解散したものの、彼はソロデビューすることになった。
ところが、その先に待っていたのは、終わりの見えない挫折の連続だった!
父親は、歌手として食べられるようになる人間は一握りしかいないという理由で、彼が歌手を目指すことに反対していた。
そのため、父からは「20代の終わりまでに成功しなかったら、きっぱり諦めろ」と言われた。
父親の前で「絶対に成功して見せる」と啖呵を切った。
しかし、レコードは何枚か出したものの鳴かず飛ばず。
そんな彼に提案された道は…CMソング。
当時、CMソングは、顔も名前も表に出ない、裏方の仕事。
一度 デビューし、多少なりとも脚光を浴びた彼にとっては、好ましい仕事ではなかったはずだが…何事も経験だと、引き受けた。
彼はCMソングの歌い手として、数多くの楽曲を歌った。
現場の評判はすこぶる良かったが…「俺はこうしてずっと裏方の仕事をして生きていくのかもな」と感じた。
そんな中、知り合いになったのが、のちに誰もが知る有名人となる青年。 互いに無名だった2人は、毎日のように夜の街に繰り出し傷を舐め合っていた…かと思いきや、この出会いがとんでもないことになっていく。
2人は店内で即興の歌を歌い、それが大ウケ!
夜の繁華街のちょっとした有名人となっていたのだ。
すると…テレビプロデューサーから 声がかかった!
2人は毎週土曜の昼に放送されていた「ハッスル銀座」という公開生放送の番組に出演。
トークコーナーのMCをつとめ、即興の歌を披露したのだ!
ところが、テレビに出られたからといって、成功したとは感じられなかった。 なぜなら、グループサウンズ時代のメンバーが新しくバンドを結成。 彼らの歌がオリコン一位の大ヒットを記録していたからだ。
さらに、自分を見出してくれたマネージャー兼作曲家が、自らのバンドを結成してデビュー。
ミュージシャンとして大ブームを巻き起こしていたのだ。
音楽で結果を残している彼らを素直に応援したいと思う一方…自分は本来の歌で勝負できていないという悔しさが同居する、複雑な思いを抱えていた。
そんな時、あるオファーが舞い込んだ。
当時、彼の歌唱力の高さは、業界ではひそかに話題になっており、スペイン・マジョルカ島で行われる音楽祭に招かれたのだ。
そこは世界の名だたる歌い手が集まる舞台だった。
すぐさま、彼、作曲家、作詞家、音楽プロデューサーの4名によるチームが結成された。 彼らは、グループサウンズ時代、CM時代などに知り合った面々。 さまざまな経験をしてきた彼だからこそ、集まってくれた人たちだった。
だがこの時、音楽祭のエントリーの締め切りまで、あと2日と迫っていた。
しかも参加条件は、オリジナル楽曲の提出。
試行錯誤を繰り返し、一つの歌が出来上がった。
タイトルは『愛の微笑み』。
たった2日で完成させたこの曲で、彼はマジョルカ音楽祭に出場。
すると…見事、最優秀歌唱賞を獲得。
意気揚々と凱旋すると、この歌をプロモートしてもらおうとレコード会社に持ち込んだ。
だが、「こんな難しい歌、売れないよ」と断られてしまった。
しかし、彼は諦めなかった。
次に持ち込んだのは、これまで裏方として数多くの歌を歌ってきたCMの世界。
すると…即採用!
ここでも彼の経験が生きたのだ!
CMで大々的に流れたのち、タイトルを少し変えてリリースされると、売れないと言われたにも関わらず、60万枚以上を売り上げ、彼の顔がジャケットに映ったレコードの初めての大ヒット曲となった。
このとき、彼は28歳。
20代も終わりかけた頃、父との約束を果たしたのだ。
このヒット曲について、今回、番組の取材で彼はこう語った。
「音楽祭で賞を獲って。でもレコード会社に断られて、その後CMソングになって大ヒット。その後もいろんなドラマを作ってくれたこの曲は、自分の分身みたいな曲です」
『経験こそ宝』という信念の元、紆余曲折を経て生まれたヒット曲と、その歌い手とは?
その人物は…松崎しげる!!
ヒット曲は『愛のメモリー』!!
松崎しげるの人生に深くかかわった、誰もが知る有名人とは?
グループサウンズ時代、松崎とともに『ミルク』というバンドで活動。
解散後、新たなグループとしてデビューしたのが、学生街の喫茶店で知られる『ガロ』のメンバー。
堀内護(ほりうちまもる)と、日高富昭(ひだかとみあき)。
日高とは高校時代からの友人でもあった。
そして、ナイトクラブで即興曲を一緒に歌っていたのは、一昨年、惜しまれつつ亡くなった、名俳優・西田敏行。
20代で知り合い、50年来の親友だった西田さんのお別れの会では、松崎は弔辞を述べた。
「西田敏行 本当に僕の青春を一緒に闘ってくれた、素晴らしい友でした。ありがとう。また会いましょう」
そして、松崎のバンドのマネージャー兼作曲家だった誰もが知る人物とは!?
松崎のバンドを見出した誰もが知る人物。
それは、『ダウン・タウン・ブギウギ・バンド』で一世を風靡した宇崎竜童!
彼は、山口百恵や石川さゆりなど、名だたるアーティストに楽曲を提供し 作曲家としても活躍。
日本を代表する音楽家となった。
実は、所ジョージの生みの親もこの人!
松崎しげるの大ヒットの裏側には、のちのレジェンドたちとの交流があった!
そしてもう一つ、『愛のメモリー』のヒットによってある忘れがたい瞬間が生まれる。
それは…ヒットの翌年、高校時代の夢だった甲子園の行進曲に『愛のメモリー』が採用されたのだ。
この時スタンドには、招待された松崎の姿があった。
甲子園出場という、もう一つの夢を叶えた瞬間でもあった。