オンエア
誰もが見に行けるミステリーを京都府・舞鶴から!
ここに日本中の人々が一目見ようとやってくる、人気の桜がある!
今年も綺麗な花を咲かせた、その桜がこちら!
よくあるソメイヨシノという種類の桜なのだが、ここの桜にはある不思議な名前がついている!
それは…『アロハ桜』。
ここの桜は、昔から舞鶴の人たちに『アロハ桜』と呼ばれ、親しまれているのだ。
京都なのにアロハ?
なぜ、このような名前で呼ばれているのか?
桜の近くに建てられている石碑を見てみると…桜を植えたのが、ハワイ出身の日系二世の兵士、23人だったということが記されているものの…兵士たちの名前や桜を植えた詳細な理由は記されていない。
実は『アロハ桜』という名前の由来は、地元の人々の間でも長年 謎に包まれていたというのだ。
しかし、石碑が建てられてからおよそ20年後。
新聞記事の中で…との発端となった人物があることを語り、それをキッカケに真相が明らかになった!
その人物の名は、高木藤雄。
果たして彼は『アロハ桜』とどのような関係があったのか?
そこには、日本の平和な未来を願う、彼の強い想いと…時代に翻弄された親子のアンビリバボーな物語が秘められていた!
藤雄は今から107年前、ハワイに移住した日本人の両親の元、7人兄弟の長男として現地で生まれた。 そして15歳の時、家族は父親の出身地である山口県へ戻ることに。 だが、藤雄はハワイ生まれ、ハワイ育ち。 日本語もあまり話せなかったため、一人 ハワイに残ることに。 その後、現地の人々に支えられながら、船の整備士として働いていた。
しかし、22歳の時、人生を大きく変える、ある出来事が…真珠湾攻撃。 日本軍がハワイにあったアメリカ軍の基地を攻撃したのだ! これにより、ハワイに住む日本人の生活は激変。 スパイ扱いをされ、収容所に連行される人もいたという。 この地で生きていくため…藤雄はアメリカ軍に入隊することを決意した。
その後、終戦を迎えると…藤雄は日本を統治する『GHQ進駐軍』として、日本に派遣され、日本各地を巡ることになった。
そして、京都・舞鶴に派遣されていた頃、日本人の知人に頼み、あるものを取り寄せた。
それこそが…桜の苗木!
その数、なんと100本!
それらはすべて、自らのお金で購入したものだった。
そして、苗木を植えようと考えていた矢先、突如転勤命令がくだり、舞鶴を離れなければいけなくなったため…仲間の日系アメリカ兵たちに苗木を託し、彼らに植えてもらうことにしたのだ!
こうして、ハワイ出身の藤雄が贈った桜は『アロハ桜』と呼ばれるようになった。
その後、植樹からしばらくは、桜を贈った人物が藤雄だということは、知られていたのだが…年月が経つにつれ、そのことは次第に忘れ去られていった。
そして桜が植えられてから20年以上が経った1973年。
記念の石碑が建てられることになったものの…日系アメリカ兵が植えたという情報しか分からず、そこに藤雄の名前が記されることはなかったのだ。
では、藤雄はなぜ、100本もの桜を植えようとしたのか? 終戦から約1ヶ月後、『GHQ進駐軍』として日本各地を巡っていた際…藤雄は休暇を取得し、ある場所を訪れていた。 それは…家族が暮らす山口県の実家だった。 母親との十数年ぶりの再会。 家族が困窮した日々を送っていることは、藤雄にも一目で分かった。 藤雄は家の助けになればと、母に自身の通帳を差し出した。 一人アメリカに残り、兵士となった藤雄だったが、決して日本に戻った両親や兄弟を忘れたわけではなかった。
だが…母親は、我が子を抱きしめたい気持ちを必死に堪え、「いくら我が子の申し入れとはいえ アメリカ兵の金は受け取れん」と、藤雄の申し入れを断ったという。
そして、こう言われたという。
「もしお前に日本人の血が流れているのだったら、このお金を日本人のために使いなさい」
それから藤雄はこのお金をどう使えば、多くの日本人のためになるのか考え続けた。
そして、4年が経過したある日。
知人に頼み、桜の苗木を取り寄せたのだ。
しかし、なぜ桜なのか?
そこには、ある理由があった!
それは、まだハワイで家族と共に楽しく暮らしていた時の父親との会話の記憶…
父「藤雄、これは桜と言ってな、この花を見ると人々の気持ちは、一度にぱっと明るくなるんだ」
藤雄はハワイで生まれたため、日本の桜を見たことがなかった。
父「桜の下では誰もが善人になり、一人として悪い人はいない。舞い散る桜を見ると、人々は心の中で「ああ」と声を上げ、至福の気持ちになるんだ」
心の奥に残っていた父親のこの言葉を、ふと思い出したのだ!
たとえ、食料を寄付したとしても、それでは限られた人しか救えず、すぐになくなってしまう。
だが、桜なら何十年経っても多くの日本人を元気にし続けることができる、そう藤雄は考えたのだ。
そして、今から35年前、真珠湾攻撃に関わった人々を取材した記事の中で…藤雄本人が桜を贈った事実を語ったことをきっかけに…石碑の情報しか知らなかった地元の人たちは、その全容を知ったのだ。
そして、その新聞記事の最後は驚きの言葉で締めくくられていた!
『丘に咲く、美しく力強い花を本人はまだ見ていない』
なんと藤雄は、成長したアロハ桜を直接見る機会を得ることなく、ハワイに戻っていたのだ。
それを知った舞鶴市は、記事が出た3年後の1994年4月。
当時、ハワイで暮らしていた高木夫妻を招待!
藤雄が苗木を贈ってから40年以上の歳月が経っていた。
この時、桜を贈った人物が長年謎になっていたことを聞いた藤雄は、こう語っている。
藤雄「私は桜の植樹に関わったことを誰にも話したことがありませんでした。それは称賛を求めていたわけではなかったからです。ただ、舞鶴市民の皆さんの笑顔を少しでも引き立て、平和とアロハの精神を分かち合いたかっただけなのです」
その後、藤雄はアメリカに戻り、10年後の2004年、天国に旅立った。
戦争によって引き裂かれた母と子の想いを内に秘め、アロハ桜は今年も綺麗な花を咲かせた。
そしてその下には、今を生きる人々の変わらぬ笑顔が広がっているのだ!
日本人の家族に生まれ、アメリカ兵として生きた高木藤雄さん。
激動の時代を複雑な立場で過ごしてきた彼は、生前 このような言葉を残している。
藤雄「どんな人間だって 一対一だと良い人ばかり。誰も人を傷つけたいとは思っていない。あの戦争は馬鹿げたものだった。なんのためにもならなかった。誰も勝つことはなかったし、幸せにもならなかった」
そんな想いを抱いていた藤雄さんが、未来永劫の平和を願い、日本に贈った『アロハ桜』。
長年この桜は、舞鶴の人々に笑顔と元気を与えてきた。
しかし、今から約10年前、アロハ桜にある異変が起きた。
次々に枯れ、切り株へと姿を変えてしまったのだ!
実は、ソメイヨシノの寿命はおよそ60年から80年。
寿命を迎えた桜は枯れ果て、残った木々もかつての力を失いつつあったのだ。
そんな中、もう一度、満開の桜を咲かせ、アロハ桜に込められた想いを後世に継承していきたい…その想いで立ち上がった人たちがいた。
今から9年前、海上自衛官を中心に地元の人たちがアロハ桜保存会を結成したのだ。
彼らは新たな桜を植えるため、クラウドファンディングを実施。
そして、今から8年前の2018年3月10日。
新しい苗木の植樹式が行われた。
そこには、地元の人だけでなく…わざわざアメリカから駆けつけたアメリカ軍の退役兵の姿も!
アロハ桜を通じて、日米の平和を願いにきたという!
さらに、アロハ桜保存会は、ホームページを通し、アロハ桜が植えられた経緯を発信。
藤雄さんの想いがまた忘れ去られることがないように活動している。
そんな、アロハ桜の由来について、今、人々は何を思うのか…?
「(今の桜の様子が) 元々のものだと思っていたから、植えた時の経緯を知ると、すごいなぁと 歴史を感じる。『今は過去があってこそ』ということが、この場所からも伝わってくると思います」
「やっぱり 感慨深いものもありますし、現役世代として この美しい景色を後世に残せる手伝いができるのであれば したいと思います。(『アロハ桜』の話を)広めていけたら、またいろんな人が来てくれますしね」
「日本人の心を 美しい景色で元気にしたい という想いで桜を植えてくださったと思うので、桜を見て 実際に元気になって。僕はまだ学生なので、数年後 社会に出て働くことになるんですけど、より日本を元気に 良い国にしていけるように先人の想いを継いで自分たちも頑張っていかないといけないと思いました」
桜を通し、藤雄さんの思いは時代を超えて確実に受け継がれている。
今から32年前、藤雄さんと一緒に舞鶴市に招待された、妻の弥生さん。
実は、2人の出会いの場も舞鶴だったという。
現在、97歳となった彼女は今もアメリカで元気に暮らしている!
そんな弥生さんに、アロハ桜と藤雄さんについて聞いてみると…
「夫の贈った桜が70年以上経った今でも多くの日本人を元気にしている。彼のことを誇りに思います。これからも日本とハワイの友好の証としてアロハ桜が人々を照らし続けてくれるように祈っています」