オンエア
今から6年前、人生最大の決断に導かれ、沖縄から東京へとやってきた人物がいた。
宮城元勝(みやぎ げんしょう)さん。
宮城さんは、かつて沖縄水産高校の実習船『翔南丸(SHONAN MARU)』で船長をつとめていた。
宮城「人類共通の使命じゃないの。神様からのお礼は長い年月を経て来るという言葉があるですよ。これかなと思って…」
元船長だった宮城さんがカメラの前で語った言葉…『人類共通の使命』、そして『神様からのお礼』。
その意味を辿ると、この時からおよそ37年前、海の上での『ある決断』に行き着いた。
1983年8月8日、宮城さんが船長を務める『翔南丸(SHONAN MARU)』は、この日、南シナ海にいた。 定員75人の船には学生と教員 合計69人が乗船、無事に実習を終え、後は沖縄に戻るだけだった。
その時、学生が『ボートピープル』を発見。
ボートピープルとは、紛争や貧困などから逃れるために、海路を使って国外に脱出する人たちのことだった。
翔南丸の前に現れた難民船には多くのベトナム人が乗っていたのだが、その中には当時14歳だった少年、ジャンの姿もあった。
抗うことのできない激動の時代に翻弄され、ジャンたちは命懸けで大海原を漂っていたのだ。
当時、世界は東西冷戦期の真っ只中。
北ベトナムをソ連・中国が、南をアメリカが支援し、冷戦時の代理戦争の構図となったのがベトナム戦争だった。
1975年、北ベトナムの勝利によって戦争が終結すると…南ベトナム出身だったジャン一家の運命は一変する。
軍関係者だった父は逮捕され、母もまた収容所に送られた。
ジャンは祖父母に引き取られたが、どこに行くにも公安の許可が必要となり、生活から『自由』が奪われていった。
この状況から抜け出し、少しでも未来を明るくするため多くの人々が国外へ脱出した。
それはまさに命懸け。
ボロボロの船に乗り込み大海原へと乗り出す。
うまく他国の海岸に漂着するか、偶然通りかかった船に救助され、その国に受け入れてもらう。
できなければ…それは死を意味していた。
『この国を脱出したい』…そんなジャンの背中を押したのは祖父だった。
祖父「ジャン、ここを脱出するんだ。うまくいかなければ命はないかもしれない…でも、賭けるんだ!新しい人生を送るために。人として生きるために!」
この言葉を胸にジャンはあてなき漂流に自らの未来を託したのである。
ジャンは単身、船に乗り込んだ。
祖父以外には何もつげずに。
あてなき漂流に未来を託した難民たち。大海原の中で偶然、船と出会うことなどあるのか?
大きな不安を抱えていたジャンだったが…なんと初日から、外国船がジャンたちの目の前に現れたのだ。
だが、海上でボートピープルを発見しても、見て見ぬふりをする船がほとんどだった。
実はこの当時、インドシナ難民、ベトナムを脱出するボートビープルは国際的な社会問題となっており、『人道的支援』を求める声は世界的に高まっていた。
手を差し伸べれば、受け入れ先までの支援が必要となり、輸送費などを含め、莫大な予算と労力が救出した国の負担となる。
そのため、ボートピープルの受け入れは、一筋縄ではいかなかった。
ベトナムを出発してから4日目、ついに食料は底をつき、水もなくなってしまった。
全員が息絶えるのも時間の問題だった。
そんな時…夜明けの海に、停泊する船の灯りが見えたのだ。 それはジャンたちにとって、まさに希望の光であり、最後のチャンスだった! 希望の光をめがけて進み、ようやく船の近くに辿り着いた頃には朝になっていた!
そう、この時、ジャンたちが見つけた船こそ、宮城船長が乗る沖縄水産高校の実習船『翔南丸』だったのだ。
日本政府も、1978年にボートピープルを支援する方針を決定したものの、まだ 支援場所などが数ヶ所設置され始めた程度。
日本を希望する場合は定住を認めることもあったが、受け入れには慎重な声も少なくなかったという。
さらに手を差し伸べた段階でその国にある種の責任が生じ、迫害の可能性があるような場所へ戻すことは許されず、保護処置や場合によっては他国への定住の手助けをしないといけないのだ。
全ての船がジャンたちに背を向ける中、宮城船長だけは、救助の道を選んだ。
しかし、いざ救助を始めると、宮城船長は驚いた。
船の大きさから、乗っているのはせいぜい数人程度だと思っていたが、順番に船へと移していくと…その数なんと105人。
しかも『翔南丸』の定員は75人。
すでに実習生と教員、69人が乗船している。
難民を乗せられる余裕はほとんどなかった。
それでも、ジャンをはじめとする全ての難民を船に移すと、船内の通路にスペースを作って寝床を確保。 宮城船長は船員や学生たちと手分けして病気の人はいないか、105人全員の様子を確認していった。 救出後、張り詰めていた気力が切れたジャンは、体調を崩し、高熱に浮かされていた。
宮城船長はすぐに沖縄県の実習船運営事務所に連絡、そこから外務省まで報告があがり…返ってきたのは『帰国は認められない』という返事だった。 政府は乗船オーバーを理由に、翔南丸の帰国を許さなかったのだ! 日本政府の反応は冷たいものだったという。
とはいえ、支援を打ち出していた政府としても最終的な受け入れを拒むことはできない。 施設不足などの問題もあり、すぐには受け入れができなかったため、日本政府はフィリピン政府と協議し、一時的にフィリピンで保護してもらうことに。
宮城たちは急遽、首都マニラの港へと向かうことになった。
港に着くまでの4日間、船には限られた食料しかなかったが…宮城船長はそれを日本人の乗船員と105人の難民たちで、平等に分けた。
そして、フィリピンにつくまでにの間に難民たちの乗船者名簿を作成。 名前、生年月日、希望する国などを書いてもらったが『日本に行きたい』という人は、一人もいなかった。 彼らが受け入れ体制の整っていた欧米諸国を望んだことに宮城は複雑な気持ちを抱いたという。
救出から数ヶ月後、こうして難民たちをフィリピンで降ろした宮城船長は沖縄へと戻った。
あの時、助けた105人の人たちは、その後、どうなったのだろうか?
幸せに暮らせているだろうか?
救助に対する日本政府の冷淡な反応。
そして彼ら自身が、日本行きを望まなかったという事実。
どこか釈然としない思いが 心の奥に残り続けたまま…いつしか36年という歳月が過ぎようとしていた。
2019年6月、新聞社から宮城に電話がかかってきた。
この時かかってきた1本の電話が、アンビリーバボーな展開を生むことに。
実は、さかのぼること約1年前、与座 宏章(よざ ひろあき)さんという沖縄県の高校教師が出張で東京を訪れた。
その時、とあるレストランに寄ったのだが…そこの店長がベトナム出身だった。
出身の話は、誰にでもしばしば話していたという店長。
その名は、南雅和(みなみまさかず)さん、日本に帰化する前の名前は…ジャン・タイ・トゥアン・ビン。
そう、翔南丸の船長、宮城さんに助けられたジャン少年だったのだ!
彼らは 宮城船長に救われ、3ヶ月マニラで過ごした後、受け入れ準備を整えた日本政府によって長崎で受け入れられた。
そこから、それぞれ希望した国に移っていったのだが…その際 ジャン少年は日本の船に助けられたことで、日本を第二の故郷にしたいと考え直したというのだ。
10代は品川にある施設で日本語や生活のルールなどを学んだ。
その後、奨学金を得て大学へ進学。やがて日本国籍を取得し、日系企業へ就職した。
そして、42歳の時に念願だったベトナム料理店をオープンしたのだという。
南さんは、助けてもらった『あの日』のことを決して忘れることはなかった。 そして、当時、難民受け入れの手続きなどで混乱していたため、船長にお礼を言うことができず、それを今でも後悔しているという。 南さんは「SHONAN MARU」という船名は覚えていたが、日本の生活に慣れることに必死で、ネットなどもない時代に船長の行方を探すことはできなかった。
南さんの話を聞いた与座さんは、なんとか「翔南丸」を探すため、新聞社に協力を求めた。
その結果…ついに宮城船長を見つけたのだ!
新聞社の電話から 約4ヶ月の2019年7月、南さんは沖縄に降り立った。
36年前、自分や仲間たちを救ってくれた宮城船長に会うために。
そして、娘を宮城さんに紹介した。
南「船長がいなかったら、僕今ここにいないです。かわいい娘もできなかった。ありがとうございます」
宮城「これが人間の不思議な出会いというか。沖尚の先生が、食事をしたのがたまたま南さんのお店だった。人間の出会いってこんなに人を幸福にするのかね」
36年の時を経て、ずっと抱き続けたどこか釈然としない思いが解けた瞬間だった。
そして2020年2月には、宮城さんが家族とともに上京し、南さんのベトナム料理店を訪問。
宮城「人類共通の使命じゃないの。神様からのお礼は、長い年月を経て来る、という言葉がある。これかなと思って…」
南「助けてもらった命ですからね。だから僕が死ぬまで大事に生きていきたい。挑戦したいことはやる、人を助けることは、助ける。それだけですね。堂々胸張って歩く、それだけ思えば何でもできると思いますけどね」
現在、体調を崩され入院されているという宮城さんから、番組にこんなメッセージが届いた。
「立派に成長し、成功している人もいれば、中には異国で苦労した人もいるだろう。でも彼らは救助のされた日を『第二の誕生日』というそうだ。再び命を得て、命あっての未来を彼らはそれぞれ生きてきたのだと思う」
宮城船長がとった行動は、南さんだけではなく多くの『未来』を開いた。
その中の一人、グエン・ソン・マイさん。
グエン「宮城船長がいなかったら、私たちには未来はなかったと思っています。宮城船長がしてくれたことは、非常に人道的で尊い行為です。あのような極限状況の中で私たちを救ってくださったのですから」
一緒に船に乗っていた、グエンさんの次女、トゥオン・ヴィさんは当時の状況をこう振り返る。
トゥオン「救出された次の日、大きな嵐が起こったのを覚えています。もしあの小さなボートに乗っていたら、今頃私たちは溺れていたか 死んでいました。宮城船長が私たちのために作り出してくれたのは美しい未来なのです」
グエンさん一家は、アメリカに渡り、言葉や文化の壁はあったものの、自由を手に入れた。
7人の子供たちから、12人の孫たちへと未来が繋がったのだ。
そして2年前、念願だった宮城さんと再会。
グエンさんがどうしても伝えたかったこと、それは…
グエン「『ミスターキャプテン、あなたがいなければ、私たちに今日という人はありませんでした』と伝えました。私たちは思わず声を上げて泣きました。そしてお互いに抱きしめ合いました。本当に感動しました」
そして、同じく時を経て宮城さんと奇跡の再会を果たしたジャン少年こと、南雅和(みなみ まさかず)さん。
船長との再会に立ち会った、娘の亜理沙さんに改めてこの奇跡の物語を伝えたという。
亜理沙「沖縄の方々に救われて 日本で受け入れられたことは、奇跡と善意がなかったらできなかったことなので、それがなかったら 私も生まれてこなっかったので、とても感謝しています」
亜理沙さんは現在独立し、設計士として、プラントの構造設計などに携わっている。
そんな娘から見た父は…
亜理沙「とても親切で見返りを求めないような人なんですけど、助けられた側という経験があるから、救われたことを別の形で人に返している。娘として尊敬しています」
神奈川県愛甲郡愛川町、ベトナム寺院。
お店が定休日のこの日、南さんが訪れていたのは、各地からベトナムの方々が集まる寺院。
南さんは10年ほど前から、休日にこの寺院で料理の腕を振るっているのだという。
ここに集うのは、留学生や国際結婚をした方たち。
南さんは時に技能実習などで来日し、異国の地で戸惑う方の相談にものることも。
南「宮城船長からこの命を助けて頂いたし、人のために人を助けることは 恩返し。そこだけで終わってしまうのではなくて、次の世代、次の世代に広まれば、世の中とても素晴らしいものになる。素晴らしいと思いますよ」