オンエア
日本時間の明後日開幕する、ミラノ・コルティナ冬季オリンピック。
そんなオリンピックの注目競技・スキージャンプといえば、あの感動を思い出す人も多いのではないだろうか?
今から28年前に開かれた、長野オリンピック。
日本のスキー ジャンプチームは、ラージヒル団体で初の金メダルを獲得。
中でも印象的だったのは、原田選手のこの言葉…
原田「俺じゃないよ。皆なんだ、みんな…」
『みんな』という言葉は、一緒に飛んだ、岡部、斉藤、船木の3選手のことだと誰もが思った。
だが…実はこの『みんな』という言葉には、もう一つの意味が込められていた。
これは命の危険も顧みず、日本に金メダルをもたらした25人の凄すぎピーポーによる奇跡の物語。
この日、生憎の悪天候の中、長野オリンピック・スキージャンプ団体戦は行われた。
ジャンプの同体戦は、各国4人の選手が2回ずつ飛び、その合計点で争われる。
ジャンプ台から120mの地点には、K点と呼ばれる飛距離の基準点がある。
メダル獲得には、このK点を越えるところまで大きく飛び、どれだけポイントを稼ぐかが重要となる。
個人で金メダルを獲得し、「世界一美しい」と称されるフォームを誇る船木。
そして、個人銅メダルの原田。
最強のメンバーを揃えた日本代表は、団体初の金メダルを目指していた。
岡部、斎藤ともにK点越え大ジャンプを決め、日本は早くもトップに立った。
次のジャンバーは個人銅メダルの原田、国民の期待も高まっていた。
そのとき、原田の姿を特別な思いで見守る男がいた。
スキージャンプ元日本代表、西方仁也。
彼には、複雑な思いがあった。
長野オリンピックの四年前(1994年)に行われた、リレハンメルオリンピック。
この大会に西方は原田とともに代表選手として出場していた。
飛距離135m、西方の大ジャンプにより、日本は再びトップに躍り出る。
この時、日本は西力や代表メンバーの活躍で、史上初となる、ジャンプ団体での金メダルを目前にしていた。
残すは原田のみ。
優勝への条件は105メートル。
普段通りに飛べば、全く問題のない距離だった。
金メダルに向かい滑走する原田。
だが…悪夢のような失速。
基準となるK点はおろか、金メダルが確実となる105mを大きく下回る97.5m。
完全な失敗ジャンプだった。
原田の失敗で、日本は2位に。
手が届くところまで来ていた金メダルを逃してしまったのだ。
西方「金メダルをとれなかったのは、非常に悔しかったです。でも原田君ひとりを責めるわけにはいかないですし、改めて長野に目標を定めて金を獲ろうという気持ちになりました」
西方は日標を4年後、長野での金メダルに切り替え、練習を再開。
しかし、突如襲った腰の故障により、本来のジャンプができなくなり、オリンピックの代表選考に影響を与える大事な大会で、なかなか結果を出せないでいた。
一方、原田は世界選手権で日本人初の優勝を果たすなど、華々しい活躍を続けた。
そして迎えた、長野オリンピック聞催の年、日本の選手層は厚く、西方は代表メンバーから漏れたのである。
しかし、テストジャンパーとして長野五輪に参加してほしいと依頼された。
テストジャンパーとは、競技の前に跳ぶ裏力のジャンバーのこと。
その飛び方を見て、ジャンプ台に危険がないかを確かめたり、スピードが出過ぎないようスタート位置を調整したりする。
さらに競技中雪が降った時は、飛距離を確保するためテストジャンパーが何度も飛び、ジャンプ台の雪を踏み固める。
そのため、多い時は20人以上も集められるのだ。
オリンピックは選手として選ばれるはずだった舞台。
ライバルたちが晴れ姿を見せる中で、裏方としてジャンプすることに西方が抵抗を感じないはずはなかった。
だが…
西方「自分の中でオリンピックの終止符を打つために、テストジャンパーを引き受けました」
そして長野オリンピックまで、あと一週間となった日…テストジャンパー、25人が集められた。
そのほとんどがオリンピック代表を目指した一流のジャンバーである。
だが…代表に選ばれた選手を見るたび、白分もあの場所にいたかった という思いにかられた。
そんなある日、原田が西方にアンダーウェアを貸して欲しいと言ってきた。
ライバルとして競ってきた原田たちが遠い存在に思えた。
そしていよいよオリンピックが開幕。
西方は複雑な思いで原田のジャンプを見守っていた。
すると…リレハンメルの悪夢が再び起こった。
原田の79.5メールというミスジャンプで、日本はトップから4位に順位を下げてしまった。
西方が様子を見にいくと…原田は、オリンピックの開幕直前、西方が貸していたウェアを着ていたのだ。
しかも原田のグローブは4年前のオリンピックでともに金メダルを逃し、今なお現役を続けるレジェンド葛西選手のもの。
原田は西方や葛西の試合道具を借り、共に飛んでいたのである。
だが、そのときジャンプ台では日本チームのメダル獲得を阻む、もう一つの事態が起こっていた。
1本目が終わった時点で日本は4位。
しかし、2本目で全員が大ジャンプに成功すれば、逆転の可能性がある点差だった。
競技は2本目のジャンプに入ったのだが、吹雪により選手たちがすべる2本の溝に雪が積もってスピードが出にくくなり、飛距離が伸びない状態になっていたのだ。
このままではジャンプ競技自体が成立しなくなってしまう。
そして、競技はついに中断に追い込まれた。
競技委員会の判断でこのまま2本目が中止となれば、1本目の順位が最終的な結果となる。
それは4位の日本にとって、悲願の金メダルへの道が断たれることを意味していた。
再開か中止か、すべては4人の競技委員の話し合いにかかっていた。
メンバーは、暫定4位の開催国日本、1位のオーストリア、2位のドイツ、3位のノルウェー。
くしくも、1本目のジャンプを終えた時点での上位4カ国だった。
暫定1位のオーストリア委員は、中止になれば金メダルが確定するだけに、当然 中止と主張した。
暫定2位3位のドイツ、ノルウェーの委員もメダルが確定するとあって、流れは競技の中止に傾いていた。
このままでは、日本の逆転金メダルの可能性は完全に絶たれてしまう。
その時、日本の委員が待ったをかけた。
そして、テストジャンパーにより、競技が再開できるのか確かめることになった。
しかし、それはあまりに過酷な挑戦だった。
高さ140m近いジャンプ台を滑走し、時速およそ90kmのスピードで飛びだすスキージャンプ。
ましてや吹雪で視界が悪い上、2本の溝には雪が積もる最悪の状態。
もしジャンプに失敗すれば、大怪我を負う可能性。
仮にジャンプができたとしても転倒すれば、競技続行は危険とみなされ中止になる可能性が高い。
それは逆転のチャンスすら奪われることを意味していた。
あまりにも重いプレッシャーが25人にのしかかっていた。
西方はテストジャンパーたちを鼓舞した。
すでに西方のなかでわだかまりは消えていた。
最初にジャンプを行うことになったのは、高校生ジャンパーの梅崎慶大だった。
だが、天候はさらに悪化。
果たして…完璧な着地を決めた。
断続的に降る雪で視界も悪いまま、ジャンプをするのですら危険な状況。
加えて、転倒が許されないプレッシャー。
しかしテストジャンバーたちは、次々と跳耀した。
そこには拍手も歓声もなかった。
日本の金メダルのために、彼らが必死で戦っていることを知る者はいなかったのだ。
そして…何と、24人目まで無事にジャンプを成功。
転倒者は一人もいなかった。
みなが恐怖心とプレッシャーに打ち勝ち、自分の役割を果たしたのだ!
最後は西方だった。
ここにきて雪はさらに勢いを増す。
しかもこの時彼は、ある重大な事実を知らされていなかった。
それは…リレハンメルの銀メダリストである西方が代表選手並みの飛距離を出せれば再開させるというもの。
これ以上無いという、悪条件。
西方は大ジャンプを見せられるのか?
それは…代表選手をも超える大ジャンプだった!
飛距離はK点超えの123メートル!
そして…競技は再開!
日本の逆転金メダルを信じて、25人のテストジャンパー凄すぎピーポーたちが夢を繋いだ。
暫定4位の日本が金メダルを獲得するには、少なくともメンバー4人全員が120m地点にあるK点を越える大ジャンプをする必要があった。
そして…日本チームの2回目のジャンプが始まった。
1番目の岡部、2番目の齋藤ともにK点超えの大ジャンプ。
そして3番目の原田、137メートルの大ジャンプ!
日本はトップに躍り出た。
そして最後のジャンパー、船木。
上位3カ国の競技は既に終了、日本が金メダルを確実にするには、115m以上飛ぶ必要があった。
船木の記録は125m!
日本はスキージャンプ団体で、初の金メダルを獲得した!
原田「俺じゃないんよ。皆なんだ、みんな」
その言葉は他の3人のみならず、金メダルヘの夢をつなげたテストジャンパー、25人の凄すぎピーポーへの言葉でもあったのだ!
あの日、日本に金メダルをもたらした原田選手は、現在、全日本スキー連盟の会長を務めている。
そんな彼から今回、後輩たちに向けて、メッセージをいただいた。
原田「皆さんの挑戦は、日本中に勇気と感動を届けてくれます。心を一つにして応援しています」
一方、西方さんは、長野オリンピックの3年後に現役を引退。
現在もスキー部として所属していた会社に勤務している。
そんな彼から、選手へ向けて、メッセージをいただいた。
西方「長野では原田くんが気を配ってくれたことで、純粋な気持ちで応援できました。どうか皆さんも自分にしかできないことを全力でやりきってきてください」