オンエア

のちの超有名人 あの人は誰?

母からの教えを守り、絶体絶命のピンチを何度も乗り越えた男、若者からお年寄りまで誰もが知っているあの人! 一体誰なのか、想像してください。
その少年の父は、かつて戦闘機のパイロットを務めた軍人だった。 ところが、少年が3歳の時、憧れていた父が事故で急死。 退役後の事業で作った2000万円もの借金だけが残り、一家は一夜にして貧しい生活を余儀なくされることになった。

それでも母は、昼は農作業、夜は内職と寝る間を惜しんで働き、借金を返しながら子供達を育てた。 そんな姿を見て、少年は母を助けたいと思った。 少年も畑の手伝いや、新聞配達など、遊ぶ暇なく働いた。 またこの頃、航空自衛隊の戦闘機パイロットになるという夢を抱いたという。

そんなある日、少年は友達にもらったと言って、トマトを持ち帰ってきた。
それを見た母は、「嘘をつくのはやめなさい!よそのうちの畑から盗んだんだろう」と叱責した。 母は、全てを見抜いていた…「どんなに貧しくても、後ろ指さされることはするな」と少年を諭したのだ。 その言葉が少年の胸に刻まれた。 やがて、この教えが少年の人生を大きく左右することになる。

ある日、法事で出された料理を母が持ち帰ってきた。
4人でマグロは2切れ。 すると母は半分に切り、4切れに分けた。

この時、母は1人で食べるよりみんなで食べたほうが何倍も美味しく感じるからと、マグロを持ち帰ったのだ。 そして、こう言った。
「喜びは分かち合えば、何倍にもなって返ってくるものなんだよ」
大人になった少年は、この言葉をまさに実践することになる。 のちのあの人は、番組の取材に当時を思い出し、こう語った。
「1人で食べれば足りないと思うけど、みんなで食べれば満足できる。そんなことを教えてもらったのかなと思います」

成績は優秀、それでも高校に通う経済的な余裕はなかった。 母を助けるため、すぐに働くしかない。
そこで、航空自衛隊第4術科学校 航空生徒隊に入隊した。 給料をもらいながら訓練ができる、専門学校のような場所。

まさに理想の環境と思えたが…入隊後、青年はあることを知る。
パイロットになるためには『操縦学生』になる必要があるという。 それには、高校を卒業しなければならなかった。 入隊時は通信兵であり、そのままではパイロットになれない。 高校の勉強は通信制で行なっていたのだが、操縦学生になるための卒業の資格を得るには4年が必要だった。

だが、大検に合格すれば、その資格を得られるという。
大検とは、当時、高校を卒業していなくても大学受験の資格が得られる国の検定試験。
しかし、朝6時から夜まで課題が山積み、受験勉強ができるのは就寝前のわずかな時間だけ。 青年は1日も休まず、猛勉強をした。
そして、見事 大検に合格! 18歳で普通の高校生に遅れることなく、操縦学生になる資格を得た。

しかし 1年後、交通事故に遭遇。 頭部に怪我を負い、目のピント調整力が低下してしまった。 なんと、怪我のせいで戦闘機のパイロットにはなれないことが判明したのだ。
退院後、21歳にして退官。 子供の頃からの夢を諦めることになった。
のちのあの人は、当時の気持ちをこう語った。
「しばらくは酒に溺れました。けれどもふてくされていてもしょうがない。今できる一番難しいことをやろうと思い直しました」

退官後、彼が目指したのは、司法試験!
弁護士になれば、人の役に立てて、お金も稼げる。 わずかな貯蓄で食い繋ぎ、猛勉強を開始した。
だがその矢先、資本金が必要だという友人に全財産200万円を貸したのだが…そのまま音信不通になり、全財産を失った。

これでは、勉強するにも生活費がない。 そこで、職業安定所で紹介された水産関係の会社でアルバイトを始めた。
配属先は、できたばかりの冷凍食品部門。 築地市場で働く人の気性は荒く、怒鳴られる毎日。 挫けそうになる彼を陰で支えたのは、入院中、彼の担当だった看護師の女性。 彼女が生涯の伴侶となったのだ。

そんなある日、足が千切れていて廃棄されそうになっていたタコを見て、青年はある行動にでる。
果たして彼は何をしたのか?
さあ、あなたならどうする?

青年が市場で目にした足の足りないタコ。 青年の思いついたアイデアとは?
当時、傷物として捨てられていた足の足りないタコをスライスして安い値段で寿司店に売り込んだ。 さらに、廃棄されていたモンゴウイカの耳の部分をすりつぶし、ちくわの材料として売り込んだ。
他にも、大量に余っていたスケソウダラをフライにして弁当店に卸したり、冷凍食品を使った病院食を開発したりと、ひらめいたアイデアを貴社に提案、行動に移した。

商売の面白さに取り憑かれた青年は、弁護士になるよりも商売で身を立てることが夢になっていた。 そして、27歳の時、彼は勤め先を辞め、独立。 自ら会社を立ち上げた。
その数年後、バブル景気に突入する。 彼は多額の融資を受け、カラオケ店やレンタルビデオ店、海外でダイコンの生産など、さまざまな事業を成功させていった。

さらに、水産物を扱うべく、アメリカの市場を視察した。
その時、刺身を食べる習慣のないアメリカでマグロが1キロ2000円と、日本ではあり得ない安さで取引されていた。 さらに驚きなのは、赤身も大トロも値段は一緒! 青年は、それらを格安で輸入。 帰国すると、お客さんに安く提供した。
後のあの人は、この時のことをこう語った。
「このマグロによって儲けようというより、お客さんが『おいしい』って喜んでくれる…そういうことを疎かにして商売してはいけないという気持ちが母の教えにあったと思います」

事業が大成功しても彼の姿勢は変わらなかった。
取引先が困った時は、惜しみなく助けた。

ところが、バブル経済が崩壊。
銀行が融資を渋るようになり、資金繰りが厳しくなっていった。 銀行などから多額の借り入れをしており、一斉に返済を求められたのだ。
その結果、事業は全て精算。 借金は返済できたものの、残ったものはほとんどなく、夢は水の泡と消えた。

当時 43歳、途方に暮れた。
そんな時、かつてのビジネス仲間からゴルフコンペの誘いをうけた。 とてもゴルフをする気持ちではなかったが、お世話になった人の誘いを断ることはできなかった。
それにしても不思議だった。 事業を精算し、もはやビジネスの相手でもない自分をなぜ誘うのか?

ゴルフコンペにはたくさんの参加者が…その数は170名を超えていた。 驚いていると、妻から電話があり、色んな人から口座人お金が振り込まれているという! 振り込んでくれたのは、ゴルフ場に集まっている仲間たち。
『喜びは分かち合えば、何倍にもなって返ってくるものなんだよ』
母の言葉を胸に生きていたら、いつの間にか支援してくれる仲間たちができていたのだ! 彼はアイルランドに飛んで、最高のマグロを自ら釣り、正式な手続きを経て輸送。 お礼として配った。 借りたお金には手をつけず、全て返したという。

支援してくれる仲間に恩返ししていきたいと思う一方、苦労をかけ続けた妻のことも気にかけていた。
当時、手元に残ったのは生活費も込みで300万円。 妻に2人で屋台でも引こうかと持ちかけたところ、応援してくれる人がいるのだから事業をやったらと、勧められた。

やはり、昔 母が食べさせてくれたマグロの美味しさをみんなにも味わってほしい。 そんな思いもあって、始めたのは寿司店。
これまでの人脈とノウハウを活かして、新鮮なネタを仕入れ、リーズナブルな価格で提供すると、店は大繁盛! 次第に行列が絶えない店になっていった。

そんなある日、築地場内の老舗食器店の会長が訪ねてきた。 一等地にある店舗を貸すから、何か商売をして築地を活性化させて欲しいという依頼だった。
どうやって人を呼ぶのか? 彼が考え出した寿司店の常識を破る新しいやり方とは?
あなたなら、どうする?

築地に人を呼びたい、寿司店の当たり前を覆す新しいやり方…それは、24時間営業!
しかもネタの仕入れは、1日4回。 常に新鮮で売り切れはない。
それには狙いがあった。 築地には深夜、5000台のトラックが到着する。 そのドライバーを狙ったのだ!

だが…アテは外れてお客さんはほとんど来なかった。
ドライバーたちは、荷物をおろしてすぐに出発しないとひどい渋滞に巻き込まれてしまうため、寿司を食べている時間などなかったのだ。

悩んだ末に彼はある苦肉の策を思いつく。 それは…景気の良い頃に通っていた店のママに営業終了後、客を連れてきてくれないかと頼んだ。
すると、当時では考えられなかった、お店が閉まった後でも行ける美味しい寿司店として評判となり、客が急増。 また築地の近くには、深夜まで働く新聞社、テレビ局、大手広告代理店などがあり、話題の人気店となった。

そんな大人気店を作り上げた人物こそ、すしざんまい社長、木村清さん。
築地に本店を置き、現在、全国に46店舗を展開。 年商は200億円を超えるまでに成長した。

木村社長をここまで支えてきたのは、2切れのマグロを分け合って食べた時の母の教え。
木村社長「人が喜ぶことをやらせてもらうことが自分の生きがい、生かしてもらっている。だからいつも元気にバイタリティにあふれ生きられるのは、生かしてもらっているエネルギー」

そして、今月5日。
豊洲市場で行われたマグロの初セリ。 一番マグロをすしざんまいを経営する会社が、史上最高値となる5億1030万円で落札! その日のうちに解体し、客に振る舞った。 しかも値段は、通常のままで!

2005年、母が病気で倒れたという知らせを受け、木村は駆けつけた。 木村に母は、こう語ったという。
「お前たちがいたから私は元気にこられた。お前たちによって生かされたんだよ。生かしてもらって、ありがとう」

母は、しばらくして94歳で亡くなった。
母は、亡くなる前、木村が持っていったマグロを同じ病室の患者さんたちと分け合って食べていたという。
『喜びは分かち合えば、何倍にもなって返ってくる』
母の教えは、今の木村の活動にもつながっている。 取ったマグロをすぐに出荷するのではなく、天然の生簀で産卵させ、増やし、必要な数だけ出荷するという、乱獲を防ぐ、備蓄事業に取り組んでいる。

また木村は、災害支援にも取り組んできた。
モロッコの大地震では、すぐに物資を輸送。
木村社長「経済というもので、みんながにこやかに世界平和をしながら、おいしい食べ物で交流を開いて。戦争だったりいろんな問題が起きてますけれども、美味しいもの食べて、そういうことをやらないような世界に持っていかないといけない」