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消えた名馬? ブームの最中に姿を消したハルウララ

今年9月9日、一頭の競走馬が29歳で天寿を全うした。
その馬の名は…ハルウララ
生涯成績、0勝113敗。 一勝もできなかったにも関わらず、その馬は今から約20年前、日本に一大ブームを巻き起こした。

そして、そんなハルウララを世話し続けた男がいた。
競馬の世界では勝つことが全て。 それでも男は、負け続けるハルウララに愛情を注ぎ、懸命に調教した。
そんなブームの最中…ハルウララは忽然と彼の前から姿を消し、行方知れずに! だが、その10年後…思いもよらぬ形で、男はハルウララの意外な消息を知ることに。 いったい何が起きていたのか!?

始まりは、いまから27年前…高知競馬場の調教師・宗石 大(むねいし だい)が、懇意にしている北海道の牧場主から連絡を受けたことだった。 引取り手が見つからない馬についての相談だった。 そのメスの馬は競走馬としては体が小さく、競売で買い手がつかなかったため、仕方なく生産者である北海道の牧場主が自ら馬主となり、引き受けてくれる調教師を探していたのだ。 その馬は馬格が小さく、神経質な性格で、競走馬として成功する可能性が低いことはすぐ分かった。 それでも…宗石はその馬の調教を引き受けることにした。

宗石はその馬に、当時、放送していた朝ドラ『天うらら』の主人公にあやかり、『ハルウララ』という名前をつけた。 そこには、「春の陽気のように、うららかな気持ちの馬になってもらいたい」という思いがあった。
当時、高知競馬には、中央では勝てなかった馬や、引退間近の馬など、様々な馬が集まっていた。 そんな馬を高知競馬の調教師は、丁寧に調教し、レースに復帰させてくれると評判になっていた。 ハルルララも、調教すれば勝てるかもしれない、という期待があったのだ。

しかし…デビュー戦の結果は、最下位。 そこから一度も勝てない日々が続いた。
宗石はそんなハルウララに対して、怪我もせず、一生懸命走り続けていて、十分エライと思うようになった。
宗石はこう話してくれた。
「勝ち負けは(一緒に走る)メンバーによりますから、運と。(一生懸命に)走らない馬は、天才騎手が乗っても勝てない」

調教師の仕事は、馬を調教して勝利を目指すこと。 馬を世話する厩務員の給料、施設の管理費など、厩舎に関わる経費については、馬主からの預託料の中で、調教師がやりくりしなければならない。
また、レースに出走して、5着までに入ることができれば、賞金をもらえるのだが、6着以下では厩舎に入るお金はゼロ。 それでも、出来の悪かったハルウララが可愛かったのか、宗石はレースの際に被るマスクを自ら飾り付けた。

だが、負け続ける馬を抱えていては、経営的に苦しくなるのは明らかだった。 馬の進退を決めるのはあくまで馬主…馬主が引退といえば、調教師は従うしかない。
サラブレッドの引退後の道は主に三つ。
優秀な戦績を残したオス馬は、いわゆる種牡馬(しゅぼば)となり、牧場でセカンドライフを送ることができる。 またメス馬も、次世代に繋げる繁殖牝馬として牧場に戻ることができる。 もう1つは、乗馬や使役用の馬として、乗馬クラブや競馬学校に引き取られるケース。
そして、この二つの条件に当てはまらない馬たちは、残念ながら処分の対象となるケースも。

宗石は、ハルウララが走れる限りは、走らせてやりたいと考えていた。 高知競馬で、16歳から42歳まで 騎手を務めていた宗石。 馬に対する意識が変わったのは調教師になってからだという。
宗石「競走馬がいて自分は生きていける。生活ができる。そういうことを思うようになった」

宗石はハルウララだけでなく、厩舎に空きがある限り、どんなに弱い馬でも受け入れ続けた。 走り続けていれば、いつか勝てる…そう信じて。
すると、ハルウララはそれに応えるように、小さな身体で奮闘。 時には、勝利寸前まで行くことも。

そんなある日のことだった。 馬主が、ついに引退を勧めてきたのだ。
ハルウララもすでに7歳。 多くの競走馬が引退する年齢に差しかかかっていた。 普通なら馬主の決定には逆らわない、だが…なんと宗石は、自ら 他の馬主に頼み込み、ハルウララのオーナーを引き受けて貰ったのだ。

当時、赤字続きで、廃止の危機が迫っていた高知競馬。 関係者は、なんとか存続するためには、観客を呼びこむ、スターとなる馬が必要だと考えた。 そんな時、高知競馬専属実況アナの橋口浩二(当時37)の目に留まったのが、ハルウララの60という連敗記録だった。
橋口さんはこう話してくれた。
「60戦というよりは30戦ぐらいで、おそらくはどの馬もちょっとこの馬は走らないのでということで、引退となるが、なかなかそうならない。宗石大厩舎で走り続けている。なんかちょっと不思議な存在だなと感じていました」
そこで、ハルウララの存在を懇意の新聞記者に伝えたところ…高知新聞がハルウララを記事に。 すると、地元高知で大きな反響を呼んだ。
橋口「『1回ぐらい、勝とうな』という素晴らしい記事が出来上がりました。あれがハルウララブームの原作になったと僕は思っています」

その記事に注目したのが「なんとか高知競馬を救いたい」と思っていた、当時の高知競馬組合の広報、吉田昌史(当時37)。 高知競馬を救うには、ハルウララを売り出すしかないと考えたのだ。
だが、連敗記録を更新するハルウララを起爆剤に使おうという作戦には、反対意見も多かったという。
吉田「競馬の世界は勝つことが全ての目的の世界。負け続けている馬を表彰したり宣伝したりするのは、おかしいんじゃないかというのはみんな思っていた。個人的には応援したいけど競馬界の中では違う。あとでなんか言われるんじゃないかなと思いながら、高知競馬は後がない。もうなりふり構っていられんというのがあって」

何とか高知競馬を救いたい、吉田は祈るような気持ちで全国のマスコミにハルウウラの資料を送った。 すると…今度は、毎日新聞が全国版で記事に。
さらにその新聞が…朝のワイドショー「とくダネ!」で取り上げられたことをきっかけに、その後 様々なメディアで報じられ、ハルウララの存在は日本中から注目を集めることに!
また、当時の時代背景も、ハルウララブームと大きく関係していた。 ITバブル崩壊などの不況により、リストラの嵐が吹き荒れ、格差社会を表す、『勝ち組』『負け組』という言葉が流行していた。 そんな時代の中、負けても一生懸命、そして、ウララかに走り続けるハルウララの姿は、瞬く間に『負け組の星』として、社会現象となったのだ。 高知競馬場は、ハルウララを一目見ようと多くの客で溢れ、グッズも飛ぶように売れた。

だが、一方で…宗石の厩舎にまで、抗議が殺到、嫌がらせの電話や手紙が届くようになったのだ。 それでも、高知競馬が存続すれば、ハルウララは走り続けることができる。 宗石は普段通り、丁寧に調教しては、レースにハルウララを出し続けた。
だが、ハルウララは負け続け、ついに…100連敗に達した。 結果は9着だったが、ひたむきに走る姿は観客の心をとらえ1番人気だった。

ハルウララの連敗記録が100敗に達したある日…ハルウララと同じ誕生日の9歳の女の子が厩舎にやって来た。 7歳から剣道を始めた聖さん。 試合で勝てない日々が続き、剣道をやめようと考えていたという。 そんな中、どうしてもハルウララに一目会いたいとやってきたのだ。 この出会いによって、彼女はハルウララから元気をもらったという。
当初、宗石自身も「負け続ける馬が持て囃されることはおかしい」と感じていたが、徐々に気持ちは変化していったという。
宗石(手紙で)『もう死のうと思ったけど、死ぬのはやめた、頑張る』と。男の方でした。電話もかかってきた。(ハルウララが)人の心の支えになっているなら、僕が中傷を受けても、やらにゃいかんと」
負けても、負けても、懸命に、そしてうららかに走り続ける。 ハルウララの姿に救われたという多くの声が、日本全国から寄せられたのだ。 届いた手紙の数は980通にも及んだ。

そして…2004年3月22日。 8歳になったハルウララに一世一代のレースが訪れた。 当時、人気、実力ともに、中央競馬のトップ騎手だった武豊がハルウララに騎乗することになったのだ。
高知競馬史上最多の1万3千人が大声援を送る中…結果は…11頭中10着。 武豊が乗っても勝てなかった。 それでも、レース後、武豊を背にしたハルウララは、大声援に包まれた。 これは、106連敗のウィニンググランと呼ばれたという。

世間の注目の的となったハルウララ! しかし、113敗を喫したあと、なんと宗石の前から、忽然と姿を消すことになる…いったい何が起こったのか?
実は、ハルウララの馬主は、3人目の新たな人物にかわっていたのだが…その馬主が、ハルウララの年齢を考慮し、競走馬から引退させ、栃木の牧場に移送することを決めたのだ。 馬主の決定は絶対。 宗石自身は、ハルウララはまだまだ走ることができると思っていたものの、今回ばかりは、その決定に従わざるを得なかった。

だが、その別れはあまりにも突然だったという。 その後、ハルウララの消息は、ぷっつりと途絶えた。
そして、いつしか世間の熱も覚め、潮が引くようにハルウララの存在は、忘れられていった。 日々の業務に追われる中でも、宗石の心の片隅には、いつもハルウララのことがあったというが、その行方を知る術はなかった。

それから10年の時が流れ…2014年のことだった。 ハルウララのその後の消息が書かれた手紙が届いた。
実は、この日から遡ること4年(2010年)、千葉で『マーサファーム』という牧場を営む、宮原優子のもとを1人の女性が訪れていた。 マーサファームは、馬主から預託料をもらい、馬を預かる牧場。 そこには、競走馬や流鏑馬、警察の騎馬隊として活躍した引退馬が多くいた。
そこを訪れたのは、ハルウララの3人目の馬主。 彼女はハルウララを引き受けてくれる牧場を探していたのだ。

実は、ハルウララは高知を離れた後、全国のいくつかの牧場を転々としていたという。 そして、宮原は馬主の頼みを受け入れ、ハルウララはマーサファームへとやってきた。
だが、しばらくすると…なんと馬主からの預託料の振込が、突然途絶えてしまったのだ。 毎月飼育費はかかるため、途方に暮れていた…そんな時だった。
宮原「掃除してたら隣から視線を感じるなって、パッと目を上げたら、ウララちゃんがこっちを見ていたんですよね。目が合った瞬間、目を離して。(私)見てないわよみたいな顔して。それまで全然こっちのことに興味ないのかなという態度をしていたのに、ちゃんと見ているんだなと思って。かわいいところあるじゃんって思ってしまって、(うちから)出すと言えなかった」

宮原は馬主と交渉し、ハルウララの所有権を譲り受けることに。 だが、マーサファームは赤字ギリギリで運営していたため、とてもハルウララを養う余裕などなかった。
そこで、宮原が思いついたのが…『春うららの会』を立ち上げ、会員を募集することだった。 月3千円の会費をハルウララの世話代に充てる。 35名集まれば、どうにか賄える計算だった。 だが、ブームが去って約10年、果たして会員は集まるのか!?
なんと、全国から80名以上もの応募があったという。 そして『春うららの会』の会員からの手紙などにより、宗石をはじめとする高知競馬の関係者もハルウララが生きていたと、知ることができたのだ。
宗石「驚きもあるけれど、さすがだなとは思いましたよね。ハルウララだから ファンが見守ってくれて、生きながらえていると。やっぱり幸せな馬だなと」
会に申し込んだのは、ブームの最中、ハルウララに救われた、恩返しがしたいという人々。
宮原「ウララの情報が出てこないから、もう行方不明、最悪はもう死んじゃってるんじゃないかって、みんな思ってて。それがポッと出てきて、あー生きててよかったって言ってくださってますね」

会員の1人…東京都足立区の会社員、田中恵子さんはこう話してくれた。
「会が立ち上がった時に、泣いてマーサファームに「ありがとう」って感謝を伝えた人がいっぱいいるって私は伺ってます。私もそのうちの一人でした」
田中さんは、幼い頃に筋肉が萎縮する病を発症。 トイレや着替えにも母親の介助が必要で、移動は車椅子。 『わたしは人生の負け組』と感じていたという…そんなとき、負けてもうららかに走り続けるハルウララの姿から勇気をもらった。
田中「ハルウララは私です。自分自身。希望、生きる希望でした。実力には劣ってはいるけれども、でも彼女は彼女なりに頑張るんですよ。一生懸命ただひたすら頑張るんですよ。それがすごい私にとっては素晴らしいことであって、頑張れば未来につながるっていうのを、彼女は彼女の存在で示してたと思うんですね」
また、『春うららの会』会員以外の方々からも…「一生懸命走る姿には、本当に元気と勇気をもらいました」など、ハルウララに救われたという多くの人たちから感謝の声が届いたという。

ブームから10年以上が経った2021年、ハルウララに更なる奇跡が! 競走馬をモチーフとした大人気ゲーム、『ウマ娘 プリティーダービー』のキャラクターにハルウララが選ばれたのだ。 これにより、当時のブームを知らない若い世代にも名を知られ、一躍人気者に。
さらに今年6月、英語版がリリースされると、その人気は海を越え、世界にも広がった! ゲーム化にあたり、宮原たちは、特にお金などはもらっていなかったが、『春うららの会』発足後…全国のファンから支援金が送られてきたという。 海外のファンから生の牧草が届いたことも!

そして、日本中を駆け巡ったブームから約20年。
今年9月、余生を過ごしていたマーサファームでハルウララは最後まで多くの人に愛されながら、29歳で息を引き取った。 高知競馬場には献花台が置かれ、多くの人がその死を悼んだ。
宗石「ハルウララを見ていない世代の方が花束を持ってきてくれている。ハルウララってすごいなと」

2000年代、地方競馬が赤字で次々と廃止になる中、ハルウララのブームなどを経て、高知競馬場は窮地を脱した。 国で初めて通年のナイター競馬を開催したり、成績の振るわない馬を集めて競わせる『一発逆転ファイナルレース』を行ったりするなど、独自の工夫を重ね、黒字経営を続けている。
来年75歳となり、調教師を引退予定の宗石さん…引退したあと、ハルウララに会いに行く予定だったという。

ハルウララが亡くなってから2か月後…ある女性が宗石さんの元を訪れた。 実はこの女性、今から21年前、9歳の時にハルウララと対面した剣道少女、永吉聖さん。
永吉「ハルウララに出会ってから、私ももうちょっと剣道を頑張ってみようという気持ちになって、気づけば今もまだ竹刀を握っていますので」
現在は高知県警で警察官として、市民の安全を守っている。
宗石「一番になるのは一握りの人間ですから。一番になればみんなが褒め称えてくれるけれど、一番じゃなくっても いいじゃないですか、一生懸命やれば。一生懸命やった成果が2位でも3位でも、それで僕は良いという考え方ですから。やっぱり一生懸命やっている姿が僕は好きです」

競走馬としての成績は震わなかったハルウララ、だが、その存在は多くの人の心の支えになった。 ハルウララと出会い、やめようと思っていた剣道を続けることに決めた永吉聖さん。 ハルウララから『勝ち負け』にこだわるより『今日を笑顔で過ごすことが大切』ということを学んだという。
現在、2児の母となった聖さん。 この日、親子で宗石厩舎を訪れた。 聖さんは今、負け続けても一生懸命に走ったハルウララの物語を、娘たちに伝えているという。

ハルウララの存在が希望になったという『春うららの会』の会員、田中恵子さん。 改めてハルウララの存在について聞いてみると…
田中「彼女は ある意味では『勝ち組』だったんじゃないかなと思います。想いを残す馬 名馬だったと思っています」
ハルウララの死を乗り越え、田中さんは、在宅でオペレーターの仕事を続けている。

ブームを作った高知競馬の橋口アナ、彼もハルウララに対して、特別な思いを持っていたという。
橋口「例えばジョッキーでも すごく勝つジョッキーと、そんなに勝てないジョッキーがいる。僕は高知競馬の実況している上で、みんなに同じくらい勝って欲しいという気持ちはあります。でも 絶対そうはならないじゃないですか。そこって人生の真実というかリアルな所であって、やっぱり頑張っているジョッキーを応援しようという気持ちはあるので、(ハルウララを応援する気持ちは)その延長戦上にもあるかもしれません」