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ボロボロの車 ある夫婦からの寄付

今から6年前、京都にある自動車の整備士を養成する専門学校、日産京都自動車大学校に一台の車が引き取られてきた。 それは発売から40年以上が経った旧車、外見は綺麗だったが、分解し中を見てみると…部品の至る所に大量の泥が付着している。
実は、ボロボロで動きはしないが、整備士を夢見る若者のために寄付された車なのだという。 そして、そこにはある家族の『思い出』『覚悟』が刻まれていた。

始まりは今から28年前に遡る。
徳島の大学に通っていた山本晃司さんは、この日、夜の11時までアルバイトをし、一人暮らしのアパートへ帰ろうとしていた。

ほどなく岡山にある晃司さんの実家に一本の電話が…晃司さんがバイクで青信号だった三叉路を直進したところ、対向車線の乗用車が急に右折。 よけきれずに衝突し、全身を強く打って命を落としたのだという。
両親は直ちに、徳島の病院に駆けつけた。
母・富美枝さんはこう話してくれた。
「ベッドに寝てましたので顔を見たら顔は綺麗だし、寝てるぐらいの感じだから、『亡くなってます。息はしてません』と言われても、亡くなったっていう意識を受け入れられなかった。そやからその頃、なんか涙も出なくて、お父さん、晃司寒いからとにかく早く連れて帰ろうやっていう感じで」

幼い頃から車やバイクが好きだった晃司さん。 営業マンだった父と母、そして晃司さんと既に嫁いでいた姉。 笑い声が絶えない家族だった。 しかし、その幸せは、一瞬で失われた。 息子の死を受け入れられず、富美枝さんはしばらく、何も手につかなかったという。

そんなある日のこと…父・晃さんは車の手入れをしていた。 その車は、晃司さんがアルバイト代を貯めて買った中古のスポーツカーだった。
晃司さんは、休みのたびに実家に戻り、友人と日々、車いじりに明け暮れていた。 その車こそ日本を代表するスポーツカー『フェアレディZ』。 晃司さんが買ったのは、1982年式の真っ赤なフェアレディZだった。 長い間ガレージに置かれたままになっていたため、すでに動かなくなっていたが、それでも父・晃さんは手入れを欠かさなかった。

父・晃さんはこう話す。
「動かない状態なんだけど私はずっと洗っていた。形見として置いているわけだから、これは外だけでも綺麗にしておかないといけない。当て傷なんかもあったんだけど、でも埃まみれにするのは嫌だったのでずっと触って手入れしていた」
母・富美枝さんはこう話す。
(晃司の)好きな物を入れてあげようねって言って、要するに車内が晃司の部屋みたいな感じにはしてたんです」

晃司さんの形見『フェアレディZ』は、両親にとって息子そのものだった。 やがて時は流れ、心の傷も少しずつ癒やされていった。
しかし、晃司さんが亡くなって21年目の夏、息子との思い出を…一瞬で消し去るような出来事が起こった。
今から7年前の7月、平成最大ともいわれる豪雨災害、『西日本豪雨』が発生。
岡山では複数の堤防が決壊、甚大な被害を及ぼした。 室内に流れ込む濁流で水位はみるみる上がり…瞬く間に一階は完全に水没。 最終的に…水は2階にまで迫って来たのだという。

2日後、水が引いた自宅へ戻ると、信じがたい光景が広がっていた。 家具は至る所に散乱、とても人が住める状態ではなかった。 晃司さんの形見の『フェアレディZ』も、二日近く水深3メートルの水の底に沈み、泥まみれの状態だった。 そこで父・晃さんは…かつて内装関係の仕事をしていた経験を活かし、リフォームを行なったのだが…
「住処を第一優先にするしかしょうがないなと。(車が)動かないことに変わりはないから、でもこの際(車を)捨てるとかいうような気にはならなかったですね」

そんなある日…近所を清掃していた、復興ボランティアの若者たちが、ついでにと、泥だらけだったZの洗車をしてくれたことがあった。 彼らは車の整備士目指して専門学校に通っているという。 そんな彼らにとっても『フェアレディZ』は憧れの存在だった。

そして…富美枝さんは、晃司さんの『フェアレディZ』を学生たちの教材に使ってもらってはどうか考えた。 そう、富美枝さんは、晃司さんの形見の車を学生に提供する決断を下した。
富美枝「なんせその子たちが晃司に見えたんですよ。それと車が好きな人っていうのがわかったんで」

こうして両親は、晃司さんの車を次の世代の技術者のために役立ててもらおうと決めた。 そして…晃司さんの死から22年が経った2019年、形見のスポーツカーは、日産京都自動車大学校に引き取られた。
富美枝「あの時はちょっと涙出ましたね。でも泣いたら取りに来られている人に悪いから、それはぐっと堪えましたけどね。ああ、もうこれで最後なんだと思って」

そんな両親の思いが詰まった車を引き取ることになったのは、自動車の整備学校で指導教員を務める井上恵太さん。 しかし、内部は水没によりひどく損傷していたという。
井上(引き取った車は)実際水深3メートルぐらいのところまで浸水した状態で、水没といってもちょっとレベルが少し違うかなというところがあって」

活用法が見出せないまま、1年の月日が流れた…そんな中、世界を新型コロナが襲う。 学校でも授業のほとんどがオンラインで行われるようになった。
その翌年、形見の車を手放してから2年が過ぎ、無事、リフォームを終えた山本家に一通の手紙が届く。 差出人は指導教員の井上さんだった。 そこにはこう記されていた。
『禍で先の見えない中、少しでも充実した学校生活を送ってもらえたらと、有志による活動がスタートしました』と。

実は井上さんの胸には、ずっとある想いがあったのだという。
井上「何とか走らせるというところは目指したいなという風には思いました」
スタッフ「でも実際はなかなか厳しいと思われていたんですか?」
井上「正直なところで言うと。もうほぼ(走らせることは)出来ないっていう風には思ってました」

発売から40年以上経つ旧車。今の車とは構造もまるで違う。 授業で扱うにしても、実践的な教材になるとは考えにくかった。 それでも、もう一度走れるようにする過程で、何か学びがあるかもしれないと課外授業という形で有志を募った。 すると…36名の学生が名乗り出てくれたのだ。

整備士の卵たちによる挑戦がはじまった!
平日の週2日、通常の授業が終わってからの約2時間、学生たちは課外授業に時間を費やした。 彼らはまず、車両を構成するパーツを取り外し…洗える部品は高圧洗浄機でこびりついた泥を流していった。
しかし、全てを取り除くには限界がある。 取り切れない泥は手作業で落とすしかない。 部品を取り外し洗浄を終えると、それぞれのパーツを修理し取り付ける。
しかし、40年近く前の旧車、今の車とは構造がまるで違う。 中には、実習授業でも見たことのない部品も数多くあった。 それでも井上さんは学生に指示を出すことはなかった。
井上「今回の活動に関しては、まずいつまでというのはないんですよね。そういう風な状況の中で、学生さんに考えてもらったり、調べてもらったりとかっていう所をやってもらいたかったので、何か学生さんが困ったようなことがあったら、その先に進めるようなアドバイスをしたぐらいですかね」

答えのない作業に向き合う学びの日々、学生たちは、自分たちなりに『正解』を模索した。
高木「普段、配線関係を直していく中で、ここを直せばこうなるっていう正解がわかる。授業の中で習った知識を使って直しても、直るはずなのに直らないことが一番大変だった」

まさに手探り状態、インターネットで調べるにも限界があった。 そんな時だった。
彼らが見つけたのが『日産名車再生クラブ』。 社員が自主的に集まり、社内倉庫にある過去の名車をレストアする団体だった。 さっそくクラブの代表者に連絡を取ると…快く協力してくれた。

ほどなく代表者から、当時のZの『配線図』など、貴重な資料が学生たちのもとに送られてきた。 入手した資料をもとに部品を組み立てていく。
これで作業は滞りなく進む、そう思われた。 だが、予期せぬ事態が起こる。 それが…サビ

本来、ここまで傷みが激しい場合、部品を交換するケースがほとんど。 それでも学生たちは可能な限り交換は避け、修理して再利用したいと考えていた。
しかし、そんな彼らに最大の壁が立ちはだかる。 どれだけ手を尽くしても直せないパーツがあったのだ。 その中の一つが、燃料タンクと給油口をつなぐ錆だらけでボロボロのパイプだった。

そこで…学生たちは学校に掛け合った。 部品を交換するために、廃車となった車を買ってもらえないかと。
課外授業であるがゆえ、本来、そんな予算はない。 しかし、整備士を夢見る学生たちの役に立つならと、校長は二つ返事で快諾。 中古車を2台購入してくれた。
そして…取り外されたパイプは…晃司さんの修復中の車に取り付けられた。
こうして…無事、全ての作業が終了。 約4年に渡る今回のプロジェクトに参加したのは、卒業した学生を含め、のべ63名に上った。

いつしか山本夫婦がZを手放してから、6年の月日が流れていた。
実は今回のプロジェクトで有志を募る際、学生たちは井上さんから…ご両親がいかにこのZを大切にしていたか、その想いを伝えられていた。 だからこそ学生たちは、部品を新品に変えてしまえば、晃司さんが乗ってた『あの車』ではなくなってしまうと考えていたのだ。 そう!彼らのゴール、それは、車を可能な限り元の状態に戻し、ご両親のもとに返すことだった!

そしてこの日、無事、『Z』は山本家へ届けられた。 ナンバープレートがないため公道を走ることはできないが、もちろん動かすことも可能だ。
すべては『未来の整備士に息子の形見を役立ててほしい』両親のそんな想いから始まった。 そしてその想いは学生たちに確実に受け継がれている。
「私が持っている整備の力でいろんな人と繋がることができるし、幸せにすることもできる。その反面、命を奪ってしまうこともあるというのが、今回ちゃんとお車を整備して学んだことなので、今就活しているんですけれども、就職先でもいろんな方の役に立てるようになりたいと思いました」

プロジェクトは終わったが、今年の8月、学生たちは晃司さんのお墓参りをした。 山本家と学生達の交流は、まだ始まったばかりだ。
「縁もゆかりもなかった子供たちがここに来て、みんな晃司やな、息子やなって感じやね。これは不思議な感情です」
富美枝「晃司が僕が親孝行できないから、僕の使いを寄越したよというような感じで、私の前に現れたんじゃないかなってずっとそう思うんです。晃司が私に親孝行をするためにこの子らを寄越してるんだなっていうのは常に感じます」

今年5月、晃司さんのZの姿は、静岡県にあるサーキットの上にあった。 これまで井上さんたちは、学校内で多少動かすことはあっても走行させたことはなかった。 そこでご両親に車を返却する前に、実際にコース上を走らせてみたのだ。
すると…本コースは1周約4.5キロ。 晃司さんのZは時速120km、でコースを周回した。
再び走らせることはできないだろうと考えられていたZが、完全復活した瞬間だった。

これは車が返却された日、ご両親に手渡されたZの取扱説明書。 そこには手書きで、『リアゲートを開閉する時の手を添える位置』や、『ドアを開ける時はドアノブを引っ張りすぎないこと』などといった注意点が事細かく記されていた。
作成した津田さんによれば…
「昔錆びていた部分もあるので、取り扱いをもし間違ってしまったら部品が取れてしまうこともありますし、やっぱり予想外のことが起きた時に、山本ご夫妻が慌ててその間違った処置をしてしまって自分たちで傷つけてしまったっということで、落ち込まないために作りましたね」

一台の車が育んだ山本家と学生たちの不思議な縁。
つい先月も、ご夫婦は学校の文化祭に足を運んだのだという。 お互いの存在を今、どのように感じているのか、聞いてみた。
「同年代の人からは山本さん、孫だなって言われるけど、孫いないから、息子しかいないから息子と同じ感覚です。あの子らは」
富美枝「うち孫いないから、お婆ちゃんって呼ばれたことないし、そやから晃司と同年代だったら、みんな息子」

一方、学生たちは?
「もう家族ですね。本当にお母さんとお父さんのような(自宅に)おじゃまさせていただいた時に、他人なんですけども他人の家に入った感じじゃなくて、ただいまって言っても違和感がないくらい、すごく安心感がありますね」

for the next…未来へと羽ばたく学生たちのために、ご両親は晃司さんの愛車を提供した。 その想いは専門学校を卒業し、実際に社会で働くメンバーの心の中にも確実に息づいている。
当時はひたすら、車の洗浄に明け暮れていたという山田さん。 入社して半年、現在は日々、実際の現場で整備の腕をふるっている。
山田「可能であれば車両を修復して、ご家族の元に返せたらなという思いで活動を始めたんですけど、やっぱり現場でもお客様の車に対する想いっていうのが、あの活動のおかげで理解できるようになったんで、そこはもう車の扱い方一つ小さい作業ひとつひとつに丁寧に作業を進めていって。できるだけ新車の状態を維持するために作業する(意識が)身につきましたね」

伊原さんも入社半年、プロの整備士として働き始めたばかりだ。
伊原「車に乗ってるお客さんって色々理由があると思うんですけど、通勤で使ったりとかとか、レースに行ったりとか、もう走ることを楽しむために乗ってるんだよっていうお客さんとか様々だと思うんですけど、やっぱりああいう形見として形で残したいっていう、そのお客さんがおられて、形として残したいっていうその気持ちが車にあるっていうそういうことを知れた経験は、すごくでかいのかなと思ってます。もしかしたら普通の軽自動車とかでも、そういった気持ちで乗ってるお客さんなのかもしれないとか、それをちょっと思うだけでも、やっぱりその作業をひとつ、ここをちゃんと見ておこうとか。ちょっとでも、綺麗にしてから渡そうっていう、そういう気持ちが出てきているので、やっぱりそういったところで(今の仕事に)活きているのかなと思ってます」