オンエア

話題の鰻店! 伝説の職人の壮絶人生!

土用の丑の日でおなじみのうなぎ。 しかし、実はうなぎの旬は秋以降だとご存知ですか? ちょうど今頃は、新仔と呼ばれる若いうなぎ、冬にかけては冬眠前に栄養を蓄えた脂の乗ったうなぎが出回る。

ちなみに、うなぎには大きく分けると2種類の焼き方があり、関東のうなぎは、一度蒸してからふっくら柔らかく焼き上げる。
対する関西のうなぎは、蒸さずに地焼きで表面をパリッと焼き上げるのが特徴だ。

そんな関西うなぎ界で今、評判のお店が! 兵庫県、西宮市に昨年オープンしたばかりの「うなぎ心斎亭(しんさいてい)
このうなぎを焼き上げる職人を賞賛する声多数。
職人1「あの人のうなぎ捌きを見ていて、レベルの違いを感じました」
職人2「うなぎに対する情熱が凄い」
職人3「捌きも焼きも速くてキレイ」
その職人は…女性! 多くの職人から尊敬される彼女だが…うなぎ職人を志したのは30を超えてから、その人生は不運の連続だった。 自分と他人に正直に生き挑戦する姿勢と人との出会いにより、まさにうなぎ登りで人生の大逆転を果たした職人だった。

今から52年前、大阪府堺市で生まれた智子。 幼い頃から彼女は、おままごとのような遊びにはまったく興味なし。 もっぱら、男の子とメンコをするのが大好き!

そして将来の夢は…自衛隊員。
しかしその後、トラックドライバーを見るや…「かっこええ〜」。 バンドマンを見るや…「こっちも かっこええな〜」。
夢が定まらないまま高校を卒業。

「就職に有利になるかも」という思いで、簿記が学べる専門学校に進学。 だが、専門学校を卒業する頃は、運悪く就職氷河期真っ只中数十社の面接を受けた。
営業も接客も向いていないと一般事務を希望した。 地道な就職活動によって、営業でも接客でもない「経理職」として採用されたのが、小売店などへレジの販売とアフターケアをする中小企業だった。

しかし就職して3ヶ月が経った頃…レジの修理をする部署に移動することになった。 しかし、その移動を断ると、突如解雇を通告されてしまったのだ。 その場で庇ってくれた同僚までも解雇!

父は不動産業、母は和裁士、姉は介護と手に職をつけている家族が多い中、自分には何にも無い。 その後はしばらくアルバイトでその日暮らしをしていた智子だったが、転機を迎えたのは30歳、実家近くの会社で、再び経理として働くこととなった。

朝9時前に出勤。3階にある会社の事務所に向かう途中…うなぎを焼いている良い匂いがしてきた。 実は、就職したのは魚の卸売会社で、2階がうなぎの加工場になっていたのだ。 3人の職人が、早朝から作業を行っていた。 智子は、何に惹かれたのか…毎朝、職人たちとたわいない話をしてから、3階の事務所に行くのが日課になっていった。

そんな日々を過ごすうち、ある思いが湧き立ちはじめた! そして、職人たち「うなぎ職人…やってみたいんです。修行させてください」とお願いした。 それを職人たちは快諾。
会社の社長も、朝9時からの通常業務をこなしさえすれば、問題ないと言ってくれた。! 思いのほか優しく人のいい社長だった。

うなぎ職人の世界には、こんな言葉が。
串打ち三年、捌き八年、焼き一生!
それぞれに得意分野があり、師匠が三人もいる…贅沢な職場だった。

それまでの雑談相手が、この日から師匠となった。 やりたいことに正直になり、始めた職人修行。 それまで何事も長続きしなかった彼女だったが…師匠達に教わって、気付くと8年が過ぎていた。

師匠たちに認められ、職人魂にいっそう火がついた智子だったが、決して火がついてはいけないものまで、燃えていた。 会社の経営が火の車だったのだ。
経営が傾いた理由の一つが、社長のお人好し! あるとき社長に、海外の大手銀行から連絡が届いた。 その内容は、明らかに詐欺のように感じる内容だったのだが…信じた社長は総額約1億円を騙し取られてしまい、会社は負債を抱えることになった。

そして智子の入社10年目に社員たちの給料はとうとう未払いに。 そこで…智子は自ら借金をし、会社に250万円の貸し付けを行った。 しかし数ヶ月後、会社はあえなく倒産。

そして…高齢だった師匠3人は引退することになった。
師匠3人が大切にしていたそれぞれの包丁を智子に託してくれた。

倒産直後すぐに職人として働き口を見つけた智子。
そこは『うな智』といううなぎの加工・販売を行う会社。 そう、この『智』は智子の『智』! 社員はいないが、一人社長を務めることになったのだ。

実は、倒産前、九州の水産業者がこの会社を訪ねて来た時、あまり見かけない女性のうなぎ職人に注目。
この水産業者からブランドうなぎを仕入れ、智子が加工、販売するという商談が成立したのだ。

そして倒産した会社の社長が新たな加工場を見つけてくれた。 なぜか場所は住宅地だったのだが、何はともあれ智子は40歳にして、はれてうなぎ職人として独立を果たしたのだ。
しかし従業員はいないため、自分で営業しなければうなぎは1本も売れない。 デパートの催事に出店することもあったが、定期的にできるものではない。 会社経営を続けるために、常に限度額いっぱいまで借金した。

そして、独立から3年…思いがけない事態に見舞われた。 会社を立ち上げるキッカケでもあり、うなぎの仕入れ先でもあった水産会社が突如倒産すると連絡をよこしたのだ。
だがすでに智子は、大手百貨店と半年後のお中元用にうなぎを納品することが決まっていた。 どこの会社からも先払いしなければ、うなぎを仕入れることはできず…脳裏を破産の文字がよぎる。

なんとか新たな借入はできないものか…会計士に相談をしたある日のことだった。 智子の元に怪しい男性が現れた。
実はこの怪しい男性、売り上げ100億円を超える、大阪の某企業を一代で築いた創業者! 年齢・当時65歳。 男性は、うなぎに挑戦して絶対に成功させたいという。

男性は智子が焼いたうなぎを試食した。 智子のうなぎが、遠くに暮らす90代の母と昔よく食べたうなぎの味に似ていると感じたという。
実は、倒産した会社の社長が見つけてきた、この小さな加工場は、偶然この男性がよく通る道に面していた。 うなぎが大好きでその事業もおこしたいと考えていた彼は、どんな人がやっているのか以前から気になっていたのだという。 男性は一緒に店を出さないかと提案した。

しかし、渡りに船の話にもかかわらず、智子は首を縦に振らなかった。 彼女は仕入れが困難なことや借金のことを洗いざらい話した。
男性は「大切なことには順番があるんや、その順番は『ヒト、モノ、カネ』」と言い、仕入れ代と借金を払った上で、さらに一千万円の出資を申し出てくれた。

出資した男性は本人の希望で名前を明かすことは出来ないが、電話で話を聞いてみると。
「本物やなと思った。『味に味なし、人に味あり』という言葉がある。味は人によって好き嫌いがあるけども、人の味はなかなか変えられない。この人が作ったらええ味になると感じた」

その2年後、男性のさらなる出資によって、うなぎ料理店「宝塚 うな智」もオープン。 この店は智子の希望もあり、経営者ではなく、うなぎ職人として専念することになり、このお店を繁盛店に成長させると…昨年には、男性の出資で兵庫県西宮市に「うなぎ心斎亭」をオープン。
心斎とは『雑念を払い、心を浄化する』という意味があり、智子の正直な性格を出資した男性が店名に込めたものだ。
智子「何かを続けて継続することが大事(継続すると)助けてくれる人を引き付ける、師匠にも感謝ですし出資した男性にも感謝」

今月、心斎亭を訪れたのは、智子さんの師匠の三髙さんとノブさん。 智子さんの活躍は知ってはいたものの、心斎亭を訪れるのは初めてなのだという。
そんな二人に智子さんが見せたいものが…そう、師匠たちのもとで修行していた際に使っていた道具一式を智子さんは今でも大事に使っているのだ。 中でも思い入れが強いものが…『歴代包丁』。 3人の師匠から譲り受けた包丁は短くなるまで、何度も磨いて使用しているのだという。

ここでせっかく来てくれた師匠たちにうなぎを焼き上げる、智子さん。 師匠たちが彼女のうなぎを食べるのは、実に11年ぶり。
師匠たちは美味しいと言ってくれた。