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街の人々の笑顔と絆が生んだ日本初のグルメ

今から約55年前、大手証券会社の営業マンだった櫻田は型にはまった生活に疑問を抱き退社。 同僚だった吉野と 後輩の渡邉を誘い 新しい商売を始めた。
それは…靴の出張販売。 メーカーの余った在庫を団地やスーパーの駐車場で売っていたのだが…思うように売れず、三人はギリギリの生活を送っていた。

そんな、ある日。 三人は何か新しい商売はないかと話していた。
櫻田はは、証券マン時代、海外転勤の際に食べた あるグルメをふと思い出した。 彼は2人にその味と思い出を説明。 そして…そのグルメを売る仕事に挑戦する決意を固めた。

しかし、彼らは誰一人 飲食店で働いた経験はなく、そのグルメのレシピすら知らなかったのだ。 そこで資金を稼ぐため靴の販売を続けた渡辺をのこし、櫻田と吉野の二人は、櫻田が転勤していたアメリカ・ロサンゼルスへ! 思い出の店で直接そのグルメを学ぼうとしたのだ。

こうして無償で働く代わりにレシピや飲食店を営むコツを教えてもらうことに。
オーナー「成功の秘訣は3つ。1つ目は味、2つ目はボリューム、3つ目は価格だ。店には金をかけるな。商品に金を回せ。そして絶対に忘れてはならないことがある笑顔だ。笑顔だよ」

櫻田は帰国するやいなや、食品会社に勤める知人の協力を仰ぎ、そのグルメを日本人の舌に合うように改良する商品開発に取り掛かった。
そして半年後、ついに理想の一品が完成!

資金が多くなかったため、都心への出店はできず。 開店先は、住民が多く、自宅から近いため仕込みがしやすいという理由もあり、板橋区・成増に狙いを定めた。
3人は町中を駆け回った。 そして、見つけた物件は…成増商店街の入口にあった青果店の倉庫だった。 倉庫なら安く貸してもらえるかもしれないうえに、道路沿いで人通りもある。 三人はここに店を構えることにした。

しかし…青果店の店主に倉庫の貸し出しを断られてしまった。
それでも、吉野は何度も店を訪ね…ついには、お店を手伝うように。 そして2ヶ月後…根負けした店長が倉庫を貸し出してくれることになった。

こうして、今から53年前、広さはわずか2.8坪、キッチンとカウンターだけの小さな店がオープン! そのとれびあ〜ん!ビリバボーな店こそ…日本で生まれたハンバーガーチェーン、モスバーガーである!

モスバーガーは、元々靴の販売を行っていた3人が立ち上げた店だったのだ。 彼らが当時修行した店はアメリカ・ロサンゼルス郊外にある地元の人気ハンバーガーショップ。 現在も営業中で、モスバーガーの研修でも使われているのだという。 そこのハンバーガーに使われているチリソースを日本人の舌に合わせてアレンジして作ったのが、今も看板メニューのモスバーガーなのである。

いまでは誰もが知る大人気ハンバーガーチェーン。 しかし、すぐに成功を掴んだわけではなかった。 このあと、彼らの前に大きな試練が立ちはだかるのである。

オープン当初、靴の販売を続けていた渡辺に代わり、店頭には櫻田と吉野に加え新たな従業員を雇った。 通勤、通学の客を狙い、営業時間は朝6時半から夜の11時。 そのため毎朝5時半に起き、片付けや翌日の仕込みなどを終え、帰宅するのは 深夜2時半。

しかし、売り上げは一向に上がらなかった。 この前年あたりから、大手ハンバーガーチェーンが相次いで日本に進出。 アメリカンファストフードの味が都心を中心に話題となってはいたのだが、ハンバーガーはまだ身近ではない食べ物という印象も強く、ましてや郊外にある成増での売れ行きは伸び悩んだ。

そんな中、…櫻田が、過労で倒れた。 倒れた櫻田は、自分の顔色を見て、アメリカのハンバーガーショップのオーナーの言葉を思い出した。
「そして…絶対に忘れてならないことがある。笑顔だ。笑顔だよ」

櫻田は、自分たちが疲れた顔をしていたら、お客さんは来てくれないと気づき、交代で週一回は休みを取ることを決めた。 そして、自信を持ってお客様に快適な店づくりを心掛けた。 それに必要なのは…まずは笑顔!

そして、店の周りを掃除すること。
店舗から向こう三軒両隣までを掃除する…櫻田のこの教えは「朝課」と呼ばれ、現在でも受け継がれている。

さらに、積極的にお客さんに話しかける。 こうした客との触れ合いが、店を単なるハンバーガーショップではなく、地元に愛される憩いの場へと変えてゆき…高校生に勉強を教えることも。 ハンバーガーショップが勉強を教えてくれるらしいと、地元の生徒の間で噂になり 放課後の溜まり場になっていった。

だが、常連客は増えつつあったものの、商売としてはまだギリギリの経営状況。 家族連れやお年寄りに来てもらうには、ハンバーガーをもっと馴染ませるしかないと考え、日本人に馴染むような懐かしい味を感じられるハンバーガーを作りたいと、取引先の食品会社の開発部長に相談した。

厨房には一般的なハンバーガーとはかけ離れた日本の伝統的な調味料が並んだ。
そして、日本人の舌に合う味を開発。 味の決め手となったのは、味噌だった。

こうして生まれたのが、和風のソースをパティに絡ませ、レタスやマヨネーズと合わせた、そう『テリヤキバーガー』!
今でこそメジャーなテリヤキ味のハンバーガーだが、実はモスバーガーが日本で初めてこの味を生み出したのだ。

だが、テリヤキバーガーは発売当初、全く売れなかった。
当時の日本では『照り焼き』といえば『ぶりの照り焼き』のイメージが強かったため、魚ではない『肉の照り焼き』は何か気持ち悪いと多くの客から敬遠されたのだ。

そんな時、店の常連の女子高生たちが学園祭で差し入れにして、みんなに食べてみてもらえば、テリヤキバーガーの美味しさを広められるかもしれないと言い出した。 彼女たちの提案にのり、テリヤキバーガーを数人の女子高校生にタダで50個提供。

そして、女子高校生たちにテリヤキバーガーは大好評! これがきっかけで、友達や家族へと瞬く間に口コミで評判が拡散し、店にテリヤキバーガーを求める大行列ができたのだ!
こうして、テリヤキバーガーは、現在もモスで選ばれ続ける王道メニューとなったばかりか、モス以外のハンバーガーショップにも広まっていき…現在では、このメニューが誕生した5月15日は日本記念日協会によって『テリヤキバーガーの日』と認定されるほどにまでその認知度を高めた!

しかし、女子高校生がそのきっかけになったという話は本当なのか? モスバーガーに問い合わせたところ…当時アルバイトとして成増店で働いていた創業者の甥、櫻田厚さんにお話を伺うことができた!
櫻田厚「高校生、大学生までずーっと通ってた伝説のモスお客様成増会っていうコミュニティがあるんです。その子たちが学園祭に来た人たちに美味しいよと言って渡したら効果覿面で、どこ行ったら食べられるの?となって、成増のモスバーガーで売っていると(口コミで広まっていった)(お客さんが)本当に増えましたね」

そして、現在も交流があるという厚さんから連絡をとっていただき…伝説の女子高校生の一人が、今回、取材に応じてくれることに!
「一番多感な時期に成増店に行っていたので、青春そのもの。お店の皆さんが優しかったので、暖かく見守ってくれて、家族みたいな感じに思っていた」
そう、少しでも多くの友人に知ってもらって、笑顔を増やしたい、その一心だったという。

そして、テリヤキバーガー人気もあり、その発売の5年後には、モスバーガーは全国に90店舗を構えるまでに成長した。 しかし!…そんな中、成増の一号店に思いがけない大ピンチが訪れる!
創業者の桜田は本社社長になり、先程インタビューに応えていただいた櫻田の甥、厚が店長を任されていた成増一号店。 変わらず地元の人達に愛され、当時全店舗で一番の売り上げを誇っていたのだが、成増店の目と鼻の先に…某大手ハンバーガー店が出店することになったのだという。 業界の雄が襲来したのだ。

そんな中、行われた緊急会議。 当時、定番メニューのモスバーガーは180円。 成増店には1日に500人以上の客が訪れ、平均およそ16万円の売り上げがあった。 だが、ライバル店のオープン日の売り上げは、3分の1程度になると予想された。 本社も含めた上層部の多くは、弱気だった。 だが…厚は、メンバーみんなでできることをやろうと決意。

そして、運命の競合店開店当日…なんと、モスの前には大勢の常連客が! さらに夕方には、地元の中学生や高校生が友達を連れてきてくれた。
そして、閉店後、売り上げを確認すると…当時の平均を遥かに超え、平日の売り上げとしては最高の23万7000円を記録した!

しかも、快進撃はこの日だけではなかった。
翌日の土曜日は37万円、そして日曜日には、なんと約50万円と史上最高の売り上げを叩き出したのだ。 そして、その後も客足が衰えることはなく、この月の売上はモス史上最高の847万円を記録したのだ!
それは、創業以来、ずっと大切にし続けてきた『お客さんとの信頼関係を育てていこう』という地元に根ざした気持ちが形になった瞬間だった。

残念ながら創業者の櫻田慧は今から28年前、60歳で他界。 その後は 厚が社長に就任し、長年モスバーガーを支えてきたが、2年前に会長職を勇退。
現在は、学生時代 モスの常連だった『元お客さん』の中村が代表取締役社長を務めている。
中村「創業者が言った中で一番大好きなのは『どうせ仕事をするなら感謝をされる仕事をしよう』という言葉。そういう想いを持って(モスバーガーは)笑顔が溢れるような存在になれば良いなと思っています」