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アノ超人気温泉!知られざる奇跡の快進撃

かつて、存亡の危機に瀕していたさびれた温泉街が…今では年間100万人もの観光客が訪れる大人気温泉地に!
この奇跡の快進撃…それは、逆転のアイデアの連続により生まれた!

大逆転のその舞台は、駅からも高速道からも遠く離れた、熊本県阿蘇市の山あいにある黒川温泉。 71年前、当時は東京から近い熱海や箱根など、巨大温泉街が家族連れや団体が楽しめる大型の内風呂を設けて人気を集めていた。 黒川温泉は江戸時代から続く秘湯だったが、交通の便が悪く、わざわざ足を運ぶ客は少ない。 さらに、どの旅館にも新たに大型の内風呂を作るスペースも、金銭的余裕もなかった。

そんな中…「お客を呼ぶには、名物がいる」と言い出した若者がいた。
この青年は、後藤哲也、当時23歳。
哲也の実家は明治初期から続く旅館・新明館。 父は別の職に就いたため、祖母が経営する旅館を子どもの頃から手伝っていた。

哲也は新明館に名所を作ることを決意。 だが、新明館の裏は岩山となっているため、新たなものを作るスペースはない。 さらに、改装する金銭的な余裕もなかったのだが…哲也にあるアイデアが浮かんだ。 これが、大逆転への第一歩!閃いた最初のアイデアとは!?

その日から、ほぼ毎日、哲也は新明館の裏山の岩を削り続けた。 期間にして、なんと3年。
大逆転への第一歩! 哲也が作り上げたものそれは…温泉!
そう、旅館の裏山に、洞窟温泉を完成させたのだ!

その後、混浴だと女性客が来ないからと拡張工事を決意。 今度は、7年掛けて女湯まで作ってしまった。

その後…哲也は観光客の後をつけ、不審がられた。
そうかと思えば、新明館の庭木を枯らすために塩をまいていた。

それから、およそ20年の歳月が流れた。
黒川温泉の旅館も、多くが次の代に代替わりしていたが、客足は以前と変わらず少ないまま。 そのため、若手はソフトボールばかりしていた。
そんな中、後藤哲也の新明館だけは、黒川温泉で唯一、平日にも満室になるほどの人気旅館となっていたのだ。

もちろん、洞窟温泉も人気となった理由の一つだが…実は、20年ほど前の怪しげな行動にこそ、その答えがあった。 あの時、京都などで若い女性観光客の後をストーカーのようにつけていたのは…流行に敏感な若い女性たちが、観光に何を求めているのか、生の声を聞くためだった。

その結果、客が求めているのは、整然とした人工の日本庭園などではないと感じた哲也は、自身の旅館の庭の植物を枯らすために塩を撒き、山で自然に育った雑木を持ち帰ると、旅館のいたるところに植え、日本人の原風景ともいえる雑木林に囲まれた宿を生み出した。 すると、自然を感じる空間に癒やしを求め、都会で働く若い女性たちが殺到、逆転の発想で黒川温泉で唯一の人気旅館へと変貌を遂げたのだ。

新明館の試みを他の旅館の主たちは、ほとんど理解しようとしなかった。 だが、背に腹は変えられない…若手の主は意を決して、旅館を立て直すため、哲也にアドバイスを求めた。
ただ、哲也はこれまで他の旅館の主人におかしなやつと言われ、馬鹿にされ続けていた。 しかもアドバイスなどしたら、自分の客が取られてしまう可能性もある。

なんと、哲也はただノウハウを教えるだけに留まらず、率先して旅館の改修を手伝い始めたのだ。 なぜ哲也はノウハウを簡単に教えたのか…その理由は…
「自分だけが儲かろうと思っても、そんな世の中じゃなか。自分一人で生きられん時代じゃけん。みんなで力を合わせんといかんばい」

哲也の助けにより、旅館 山河も里山の自然あふれる、趣ある旅館へと変貌。 効果はてきめん、宿泊客が目に見えて増え始めた。
すると…二代目の若手を中心に、哲也に教えを乞う旅館の主が続出。 そんな彼らに哲也は、惜しみなく自分のノウハウを提供。 かつて、魅力のなかった黒川温泉の旅館は、一軒一軒、それぞれの特徴を活かした露天風呂を持つ宿へと生まれ変わった。

この頃、黒川温泉を訪れるのは、露天風呂目当ての客が多かった。 そこで、そんな客のために、黒川温泉を「露天風呂の街」として、大々的に売り出そうという案が出たのだが…2軒の旅館の主人が猛反対した。 2軒の旅館は庭や敷地が狭く、露天風呂や洞窟温泉を作ることが出来なかったからだ。 そのため、すでに他の旅館に比べ、客が少なくなっていたのだ。 露天風呂をウリにした場合、作ることが出来ない旅館に客が来なくなるのは明白。 2軒の旅館も救いつつ、黒川を露天風呂の街として売り出す方法はあるのか!?

この問題を解決する起死回生のアイデア! それは…まず、客に手形を買ってもらう。 そして、通行手形があれば黒川温泉にあるどの旅館の温泉にも入れるようにするのだ。 この方法であれば、露天風呂のない旅館に泊まった客でも他の旅館の露天風呂に入ることができる。
さらに売り上げは、全旅館で組織された組合で管理、各旅館の改修作業などに使用するという仕組みを、若手が考えたのだ。 黒川温泉自体が一つになる…それは哲也の夢だった。

手形は、入湯手形と命名。
入湯手形はお土産にして貰えるよう、杉の木の輪切り板で手作りすることに。 これも若手のアイデアだった。

ここから一つになった黒川温泉の快進撃が始まった。
今から39年前入湯手形の販売を開始。 1個1000円で、全ての旅館の露天風呂に入れる仕組みとした。
これを徐々にマスコミが紹介。 すると、大きな評判となり、宿泊客はもちろんのこと露天風呂目当ての日帰り客も急増。 2002年には年間およそ21万枚、2億5千万円を売り上げた。

その間、黒川温泉では手形の売り上げを利用し、皆のアイデアでバラバラだった景観を黒を基調とした街並みに統一。 看板や橋の欄干などの色も合わせた。 さらには、通りなどにも雑木を植え、「ふるさと」をテーマにしたブランディングを推進。 その結果、「九州人気観光地ランキング」で数々の名所を抑え、6年連続1位に輝くほどの人気の地となった!
現在はインバンド客も取り込み、その人気は不動のものになりつつある。 黒川温泉自体が一つになる…黒川温泉一旅館。 そんな後藤哲也の夢は叶えられた。

実は、露天風呂が作れない旅館の問題が出た際、哲也はこんな事を語っていた。
「前進するのも一緒なら苦労するのも一緒。これが今の黒川温泉のスローガンじゃなかですか。黒川全体が良くなってこそ、初めて個々の旅館が光るとです。どげんすれば日本一の温泉地になれるのか。一緒に考えていこうじゃなかとですか」
黒川の発展を見届けた後藤哲也さんは、7年前の1月、86歳で永眠。

山河旅館第11代組合長健吾さんは、こう話す。
「黒川温泉自体が一つの方向性を持ってやっていって、お客さんに理解してもらうと『黒川良い動きしているな、みんなで協力しているな』というようなお客さんが共感されていったんですね実際に。そういう事を最初から哲也さんは分かっていたんじゃないですかね。生きがいを教えてくれた方だと思います」