オンエア
2週間前の7月10日。
横浜市でマンホールが吹き飛び、水が噴き出す事案が発生。
水難学会・斎藤秀俊氏によると、原因は、豪雨によって起きる『ウォーターハンマー』現象の可能性があるという。
この日は1時間に、およそ100ミリの雨が降った。
そのため、下水道管に大量の水が流れ込み、水位が急激に上昇。
その水圧で、マンホールが飛んだという。
豪雨による被害は後を立たないが…今から32年前の8月6日。
鹿児島県を襲った豪雨は、まさに異常であった。
1時間におよそ100ミリという猛烈な雨により、市内を流れる川が氾濫。
鹿児島市内の浸水被害は、およそ1万2000棟、死者・行方不明者は48人に。
そんな中、鹿児島市郊外の小さな駅とその周辺で、四方を完全に塞がれ孤立した650人もの人がいた。
これは、未曾有の災害と闘った者たちの実話である。
鹿児島県の錦江湾に位置する、竜ヶ水地区。
海岸線の山側をJR日豊本線、海側を国道10号線が走っている。
竜ヶ水駅の背後は、急斜面の崖。
それゆえ、大量の雨が降ると、このように沢となるため、この地域一帯は水害が発生しやすい場所として知られていた。
今から32年前の8月6日、午後4時過ぎ。
鹿児島市内の全域で激しい雨が降っていた。
その日、鹿児島県警の有村新市と後輩の前田広茂は、強盗未遂事件が発生し、犯人が逃走したため…国道10号線の竜ヶ水駅近くで検問を行おうとしていた。
有村は普段は交番勤務、実直で任務を黙々とこなす警察官だった。
午後4時53分。
竜ヶ水駅に鹿児島方面行きの列車が停車。
向かいのホームには、宮崎方面行きの列車が止まっていた。
この時、鹿児島方面に向かう列車の車内は…激しい雨音により、大声で話さないと聞こえないほどだった。
その時…宮崎方面の線路が冠水したため、宮崎行きの列車に乗っていた乗客たちが鹿児島方面行きの列車に移動してきた。
実は、この少し前、鹿児島方面行きの列車が竜ヶ水駅に向かっていた時のこと…この鹿児島行き列車の車掌であった福田雅人は…これ以上、宮崎方面に向かうのは危険と判断。
宮崎行きの乗客を全て鹿児島行きに乗せ、引き返させる決断をしたのだ。
この時、福田は嫌な記憶を蘇らせていた。
遡ること16年、竜ヶ水地区で土石流が発生、山の中腹に住む住民が死亡するという事故が起きていた。
この地域一帯は、急な斜面が多いだけでなく…桜島の噴火によって降り積もった、軽石や火山灰で出来た地層が上に乗っている。
これらの地層は、水を通しやすいがゆえに、通しにくい地層との間で水が溢れ出すことがある。
結果、大雨が降ると土石流が起きやすかった。
乗客の乗換が終わり、出発しようとした、その時…!
列車のおよそ200メートル前方で土石流が発生。
砂や瓦礫が線路を完全に塞ぎ…国道の一部まで流れ込んだ。
さらに後方では、線路に冠水の危機が迫っている。
こうして列車内には、逃げ場を失った、およそ330人の乗客が取り残された。
そこで福田は乗客を降ろすことを決断する。
このまま列車の中にいると、次に土石流が発生した場合、命に関わる可能性があるため、少しでも斜面から離れた方がいい。
また、国道10号線は長い一本道。
竜ヶ水駅から宮崎方面は、線路だけでなく、道路も冠水する可能性が高い。
鹿児島方面は、崩れた土砂が道を完全に塞いでいるわけではないが…その先も切り立った崖が5キロほど続いており、土石流発生の可能性がある。
つまり、徒歩での鹿児島方面への移動も得策ではない。
そう考えた福田は…駅から、およそ30メートル離れた国道沿いにある、大きな屋根の付いたガソリンスタンドに乗客を避難させるべきだと考えた。
通常、災害などで列車が止まった場合、乗客を車内に留まらせるのが鉄道業務の鉄則。
だが…福田は乗客の安全を第一に考え、決断を下したのだ。
この決断が乗客たちのその後の運命を大きく変えることになる。
一方その頃、国道10号線にいた二人の警察官は、宮崎方面の線路が冠水していることは知らず。
竜ヶ水駅近くで起こった土石流も、激しい雨音や検問の対応に追われていたため、気付いていなかった。
そんな中、検問の数十メートルほど手前で追突事故が発生。
普段は混むことはないのだが、道が混雑し始めていた。
有村は、追突事故があったことを、所轄の交通課に連絡しようとした。 大雨の影響なのか、無線が繋がりにくい状態に。 そこで…近くのガソリンスタンドに移動し、公衆電話から連絡をしようと思ったのだが…そこで、乗客を避難させていた福田に会い、状況を知ることになった。 さらに、公衆電話も断線、全く通じなくなっていたのだ。
一方、検問場所にいた前田は、束の間繋がった無線である事実を聞かされる。
実はこの時、竜ヶ水から宮崎方面の国道沿いの数カ所で、土石流が発生。
中には、崩れてきた土砂と水害を防ぐための堤防が水捌けを遮断したため…大雨で道路が冠水し、車が浮いているような場所も。
前田は、この事実をガソリンスタンドにいた有村に報告。
まさに、その時だった。
ものすごい山鳴りがした。
次の土石流が来ると感じた有村は、ガソリンスタンドにいる人たちを海側へ避難するように誘導した。
そして全員が海側に避難した、まさにその時…!
2度目の土石流が発生。
それはガソリンスタンドの脇をかすめ…道も覆い、堤防の手前にまで達した。
有村たちの必死な誘導の甲斐もあり、犠牲者は一人も出なかったのだが…この土石流により、国道が塞がれてしまったため、鹿児島方面へ進ことは完全に不可能となった。
そして、宮崎方面も土石流と冠水で進めない。
つまり…竜ヶ水駅周辺は前後左右が閉ざされ、乗客330人の他、車の中にいた人を合わせ、ガソリンスタンド周辺におよそ650人もの人々が取り残される、陸の孤島と化してしまったのだ。
実はこの時、鹿児島市内でも、およそ1万2000棟の浸水被害が出ており、市はすでに対策本部を立ち上げてはいたが、直ちに竜ヶ水に救援部隊を送ることは、不可能な状態だった。
さらに…!山の中腹にある民家から、手を振る男性の姿が。
その家は、有村が以前パトロールしたことがある、足の不自由な高齢女性が住む家だった。
豪雨で母を心配した長男が家を訪ねたものの、危険を感じ、助けを求めたのだ。
再び土石流が起きたら、家が流される可能性が高い。
実はこの時、あちこちで電線が切れており、線路の上の切れた電線には、およそ2万ボルトの電流が流れていた。 しかも、中腹の家に行くには、土石流による土砂を越え、山道を登らなければならない。 途中で、がけ崩れが起こったら生きては帰れない。 それでも…有村と前田の二人は、切れた電線を慎重に避けながら、民家に続く山の斜面を登って行った。
そして、なんとか高齢女性を堤防まで運ぶことに成功。
緊迫した状況の中、束の間の笑顔が溢れた。
だが、彼らは知る由もない。
大自然の猛威が、再び牙を剥くその時を、虎視眈々と狙っていることを。
最初の土石流から、およそ2時間後。
取り残された人々は、ガソリンスタンド付近の国道上の外や車の中で、救助が来るのを待っていたが…なかなか救助が来ず、みんなが不安に感じていた…その時だった。
そこに現れたのは…大型のフェリー。
実は、福田が船を呼んで欲しいとJRの司令室に報告していたのだ。
そしてJRが災害本部に連絡。
そこから要請を受けたのが、当時は桜島町が運営していた桜島フェリー。
港に待機していたフェリーが竜ヶ水に向かった。
航海は順調と思ったのも束の間…沖合で突如、立ち往生したフェリー。
その理由は、生け簀。
当時、この辺りの海には、ハマチを養殖する生け簀がそこかしこに浮かび、ロープが張り巡らされていた。
それゆえ、大型のフェリーでは、岸に近づくことができなかったのだ。
その時…! これまで聞いたことのないほど、大きな山鳴りが!
ガソリンスタンドを挟んで、2回目と反対側、多くの人がいる場所に土石流が起きようとしていた。
午後7時32分。
3度目の土石流が発生。
有村を始め、大勢の人が海まで飛ばされた。
大量の土砂が駅を直撃、停車中の列車や車を押し潰し…海にまで達した。
その威力は凄まじく…2つあった列車のうち一台は、連結部分でちぎれるほどだった。
もし300人を超える乗客が車内に残っていたら…。
車掌の福田の判断が正しかったことが、改めて証明された結果となった。
だが、その一方で…海に落ちた瞬間、有村巡査部長は死を覚悟したという。 しかし…「俺が諦めたら、海に落ちた人たちはどうなる!」との思いで、必死に海上に顔を出した! そして、奇跡的に一命を取り留めた有村は、力の限り救助活動を続けた。
そんなとき…桜島の沖合で漁をする漁船があった。
鹿児島市内で小料理店を営む田中勝徳。
夏休み中の二人の息子と一緒に、店に出す魚を獲りに来ていた。
その最中…趣味で行っていたアマチュア無線で、助けを求める声が聞こえた。
アマチュア無線は、各個人が持つコールサインを言ってから話し始めるのがルール。
それを無視していたため、最初はイタズラだと思った。
その後もアマチュア無線家からのルールを無視した助けを求める声がいくつも入った。
当時、アマチュア無線愛好家の中には、車の中に設置している人も多くおり…田中に届いた無線は、竜ヶ水にいる人々が、車内から発信したものだったのだ。
田中さん「(助けを求める声が)2人3人と情報が入ってきましたから、これは本当なんだなと思っている時に『国道10号線が崩れて遮断されて、前も後も土石流で動けないから、誰か助けてください』とおっしゃるから、よし じゃあ俺が行こうって言って、私がそっちに向かったんです」
竜ヶ水へ向け、針路をとった漁船。
すると…目の前に現れたのは、あの桜島フェリーだった。
フェリーの船員からも救助協力の要請を受け、漁船は、大雨の真っ暗な海を巧みに進んだ。
ところが…突如エンジンが止まってしまった。
土石流で漂流したゴミが、エンジンの給水管に詰まり、動かなくなってしまったのだ。
そこで、フェリーの船員が海に入り、ゴミを除去。
その頃、前田巡査長は、堤防を降りたところの岩場で…土石流で海に投げ出された人の捜索を続けていた。 そこに有村が戻ってきた!
JRの車掌、福田や運転士も救助活動に尽力。
彼らの思いはただ一つ。この困難を乗り越えること。
現場で奮闘する有村や福田たちの姿が、いつしか取り残された人々の心を動かした。
避難していた人たちが手伝いを申し出てくれたり、お互いを気づかい、助け合い始めた。
すると、その時!
20隻を越える小さな漁船がやって来た!
先頭にいたのは…田中の船だった。
実は、田中がアマチュア無線で漁師仲間に呼びかけ…その呼びかけに応じ、漁船が竜ヶ水に集結したのだ。
田中さん「生け簀に乗っている人はまだ冷たくないでしょうけど、生け簀の下に下がっている人は、首から下は海の中ですから、何とかしなきゃいけないと思って、一人ずつ、すくい上げて、すくい上げて。そんなに速いスピードは出ないんですけど、それでも辛うじて人を乗せて、桜島フェリーの方に運べましたから、なんとかその場を少しず少しずつ打開していきました」
そして桜島フェリーは、漁船で運ばれた人々を3回にわたって鹿児島港まで搬送し…最初の土石流から、8時間ほど経過した時、およそ650人の脱出が完了した。
JRの福田と運転士は、最後の船で竜ヶ水を離れた。
福田さん「僕が一番最後に(船に)乗ったんですけれども、その時に初めて怖くなりましたね。助かってから。それまでは気が張っているので。自分の家族のこととか、考える余裕とかなかったですね。自分のことも考える余裕とかなかったんですね。助かってからが一番怖かったですね」
二人の警察官が竜ヶ水を離れたのも最後の船だった。
前田さん「自分たちだけの力では警察官としても限度があるので、他の方の協力というのがあって皆さん一人一人の助け合い。励まし合って何とか乗り越えられたと思ってます。」
有村さん「私たちが現場でとった一連の行動というのはですね、警察官として当然の行動であったと思いますね。」
未曾有の災害から、まもなく32年。
竜ヶ水の急斜面の崖には…土砂災害を防ぐ「砂防堰堤」や、土砂が崩れ落ちないような工事が施されるなど、対策が講じられた。
その効果もあり、以後、この地域一帯では、土石流による大きな被害は確認されていない。
あの時得た教訓は、今も確実にこの地に息づいている。
多くの人々に恐怖をもたらした、竜ヶ水地区の土石流災害。
この災害によって、4人の尊い命が失われた。
有村さんは32年経った今も後悔の念に苛まれるという。
有村さん「私たちの避難誘導というのがですね、万全ではなかったんですよね。ちょっといい方法はなかったかと、悔やまれる。そういう人的な被害がなければ、万歳だったんですけどね。残念ながらそういう結果になってしまいました」
JR竜ヶ水駅のホーム。
そこにひっそりと佇む一つの記念碑がある。
これは『二度と同じような災害が繰り返されないでほしい』そんな願いを込めて建てられたもの。
使われているのは、あの日、土石流によって流されてきた石。
碑文が刻まれた石は、およそ5トン。
台石の重さは実に9トンにも及ぶ。
多くの人の記憶に刻まれた、1993年8月6日。
巨大な石は、今も無言で語りかけている。
あの日を忘れない。その想いが、次の命を守る力になると信じて。