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話題の大ヒット作品 誕生のウラに熱き想い

今年3月、日本映画界最高の栄誉とされる日本アカデミー賞 最優秀作品賞に選ばれたのは…並いる大作を抑え最優秀作品賞、最優秀編集賞などを含む、全7部門を受賞した『侍タイムスリッパー』
メガホンを取ったは、安田淳一さん、58歳。 実は初めて長編映画を発表したのは11年前、47歳の時。 監督としての実績は、自主制作の2作品のみ。 しかも、時代劇の経験は全くない。 おまけに上映はたった1館でのスタート。 にも関わらず、SNSなどで話題を呼び、あれよあれよという間に全国380館以上に拡大され、インディーズの自主制作映画としては異例の大ヒットを果たした。

物語は江戸幕末の侍が雷に打たれ、現代の時代劇撮影所にタイムスリップ。 最初はお芝居だと分からず、撮影の邪魔をして怒られてしまう。 だが次第に時代劇の聖地、京都太秦で斬られ役として第二の人生を歩み出し、衰退気味の時代劇に本物の侍だった男が真摯に向き合う、笑いあり、涙ありの痛快チャンバラ時代劇だ。
しかし、この大ヒット作品の裏には、監督が作品に込めたある人物の生き様、そして受け継がれていく想いの連鎖があった。

京都で生まれた安田は、高校時代 柔道部に所属していたため、映画研究会の友人にカンフー映画の撮影を手伝わされ、映像制作に関心を持ったという。
独学で映像制作を学び、大学在学中から結婚式や幼稚園の行事などを撮影する仕事を開始。 さらにイベント演出や飲食店なども手がけ、日々忙しく過ごしていた。

そんな中…「誰かから頼まれるんじゃなくて、自分自身がおもしろいものを撮りたいということで、1回 映画を撮ってみようと思いました」
そして47歳にして初めて長編映画を発表。 その後、2作目を作るも、どちらも利益がでるほどにはヒットしなかった。
もっと多くの人に楽しんでもらえる映画を撮りたいと意気込んでいたものの、資金面の不安から重い腰がなかなか上がらなかった。

そんな時 見つけたのが、京都映画企画市という企画コンテストだった。 優秀映画企画には350万円相当の映像制作権が与えられる。
条件は、安田も住んでいる京都府内で撮影する時代劇・歴史劇であること。 次回作を自主制作したい安田にとって願ってもないものだった。

そうはいっても、簡単にはアイデアは浮かばず…休憩しようとテレビをつけた時だった。 安田の目に飛び込んできたのは、役所広司演じる侍が現代にタイムスリップするという宝くじのCMだった。 これを見て、アイデアが降ってきた!
こうして一気にあらすじを書き上げた。 これが『侍タイムスリッパー』の原型となる。

だが、その内容はCM以上にある人物から得たインスピレーションの影響が強かったという。
その人物こそ、知る人ぞ知る時代劇俳優・福本清三
トム・クルーズ主演の「ラスト サムライ」で侍役を好演し、22年前に日本国内でも話題となった人物である。 安田は福本のどこに魅力を感じてストーリーを作り上げたのか?

福本清三は15歳で京都に出て、親戚の精米店で働き始めたが、シャイな性格で客商売には向いていなかったという。
そんな彼が次に紹介され、1958年から勤めたのが、京都太秦にある東映の撮影所。 彼は、時代劇の最大の見せ場、立ち回りで主役に襲いかかっては派手に斬られ、主役を引き立たせる斬られ役や、通行人や死体役などを演じる俳優たちが楽屋を与えられずに大きな部屋を共有していたことからその名がついた、大部屋俳優になった。 そこはスターを夢見る若手が集まっていて、出番の取り合い。 映ることがあってもほんの数秒だったという。 稀にセリフを与えられることもあったというが、NGを連発してチャンスを活かすことができなかったという。
当時の心境を福本自身が語った貴重な映像が残されている。
福本「そのときホンマに俺は役者に向かんなと、つくづく思いましたね。俺はもうスターにならんでええと、立ち回りの方でスターになってやろうと」

安田「セリフやお芝居の部分は(福本さん)ご自身がおっしゃているんでしたら得意じゃなかったかもしれません。斬られ役として主役を立てながら自分自身も映像の中でクオリティを下げない、上げるような斬られ役を研究して努力された」
そして、ある映画を見たことでのちの彼の代名詞が誕生したという。 それは…喜劇の王様、チャップリンの作品だった。 吹き替えなしでものすごい倒れ方をしていたのだ!

この映画を見た福本が編み出したものこそ、それまでにはなかったエビ反りという技法。 斬られた後、一瞬立ち止まり、大きくのけ反り、断末魔の苦しみをカメラに見せ…倒れる。
安田「相手をきちっと立てながら自分もしっかり顔を映すということでエビ反りを考えたよと(福本さんが)おっしゃってましたから、斬られ役という仕事を突き詰めながら、その中で自分を残したいという、しかもそれがわざとらしくなくですね。ギリギリの間の中で生まれた着地点というのがエビ反りの斬られ方だと思うんですけども」

このエビ反りで徐々に注目されると、里見浩太朗、高橋英樹、松平健など、時代劇の大スターたちからたくさんの指名を受け、実に50年以上も斬られ続け、『5万回斬られた男』という異名までついた。
やがて熱狂的なファンがファンクラブを結成。 さらに、その評判は海外にまで伝わり、大部屋俳優としては異例のハリウッドデビューも果たしたのだ! キャスティングプロデューサーの強い推薦で抜擢されたのだが、その演技はトム・クルーズからも手放しで賞賛された。

しかし、福本は「ラスト サムライ」の撮影が終わり、ハリウッドから日本に帰国した翌日もすぐに京都撮影所に行き、斬られ役を演じていた。
そんな福本にはずっと大事にしてきた信念があった。
福本「一生懸命やっていけば絶対誰かが見てくれている」

安田はそんな福本の生き様に感銘を受け、自身2作目の映画『ごはん』に出演してもらった。
そこでさらに感銘を受けた彼は、福本の性格を反映させた侍が主人公である『サ侍タイムスリッパー』の脚本を書き上げたのだ。
こうして、コンテストに応募したのだが…最終まで残るも、落選。 制作費の援助は受けられなかった。

しかし、誰かに見てもらうためには自分が頑張るしかないと、安田は自腹での制作を決意した。
もちろん、福本にマネージャーを通じて出演をオファー。 現代にタイムスリップした主人公に斬られ役を指導する役だった。 福本は出演を快諾してくれた。

だが、時代劇は衣装やかつら、セットなど、特殊なものが多いため自腹では賄いきれない。
しかも悩める安田の前に予想だにしなかった出来事が…今から5年前、コロナ禍に突入。 撮影どころではなくなってしまったのだ。

さらにその9ヶ月後…2021年1月4日。
それはあまりに突然の知らせだった。
福本清三さんが肺がんのため、自宅で息を引き取った。 77歳だった。
福本清三にインスパイアを受け、脚本を書き上げ、さらに出演も快諾してもらっていた。 何より、最も尊敬していた福本の訃報だった。

それから『侍タイムスリッパー』は何一つ進むことはなく、時間だけが過ぎていった。
そして、福本の死から1年半近くが経ったある日、福本のマネージャーから撮影所に来て欲しいと連絡がきた。 安田が撮影所に出向くと…待っていたのは、若い頃から水戸黄門などを手がけ、東映京都にこの人ありと言われた敏腕プロデューサー 進藤と、業界歴およそ40年の美術部のベテラン 辻野だった。

さらに、衣装担当をはじめ、かつらやメイク、刀、それぞれの分野で時代劇を支えてきたトップレベルの面々が安田に協力しようと勢揃いしていた。
実は安田は脚本を亡くなった福本と彼のマネージャーにしか渡していなかったのだが、脚本を読んで感銘を受けたマネージャーがこっそり進藤に相談していたのだ。

この映画は通常なら2億円以上かかる内容…しかし、時代劇は衣装が重装備で夏場は暑くて撮影に向いていないため、通常よりも安い金額で貸してくれるというのだ。 予算のままならない自主制作にとっては願ってもないことだった。

しかし、問題はまだまだつきない。 時代劇はセットだけでなく、衣装、かつら、刀など私物で揃えられるものが少ないうえ、とてもお金がかかる。
すると…なんとメイク代として提示された額が、通常の半額以下の金額だった! さらに衣装も刀も安く借りることができた。
こうして東映時代劇の名だたるプロフェッショナルたちが協力してくれたことで目処がたった! 良いものを作ろうと思えば、誰かが見てくれていると思った瞬間だった。

こうして制作は始まった。 タイムスリップする侍、主人公・高坂新左衛門役には、大河ドラマ『麒麟がくる』をはじめ、多くの時代劇に出演している山口馬木也。 精悍な顔立ちが高坂にピッタリだと監督がオファーした。
52歳にして初の主演となったのだが…実はこんな偶然もあった。
山口「20年以上前に最初に東映の撮影所に行って、本当に右も左もわからないときで現場で右往左往していたら福本さんが “そこはそっちに行くんじゃなくてこっちでこうやってくればいいんだよ” ということをボソボソと教えてくださったんです。本当に侍みたいな人でした。口数が少なくて。京都にいて福本さんのことを尊敬していない人は誰もいないんですよ。僕の中では福本さんはこうで こうでというふうな、勝手な想いで(演じた)
そう、実は山口は福本清三に恩を感じていた一人。 そのため、出演を快諾したのだ。
さらに、当初、福本にオファーした、斬られ役を指導する役には、彼の後輩でベテラン大部屋俳優の峰蘭太郎を起用。

撮影は予定通り7月から始まったが、安田のチームには驚きの事実が存在した。
それは…時代劇映画のスタッフは通常は少なくとも100人は必要だが、『侍タイムスリッパー』は、たったの11人!
安田は監督、脚本、撮影のほか、照明、編集、ドライバーも兼ね、一人なんと11役以上。

それは安田だけでなく、主人公が思いを寄せる作品のヒロイン、映画の中で助監督の優子役を演じた沙倉ゆうの…安田監督の3作品全てに出演している常連の俳優だが、実は彼女もまた通常のヒロインではありえないもう一つの役割を果たしている。
なんと!作中の助監督役に留まらず、人手が足りず、実際の撮影でも本当の助監督を務めたのだ! 予算が少ないゆえのアンビリバボーな役回りである。
沙倉「最初は自分が出てない日はスタッフで手伝うと言っていたんですけど、結局(スタッフが)10人足らずでの撮影だったので、その人数だけだとこの時代劇で出演者の方も多かったし、プロの俳優さんたちばかりだったので、結局は自分が出てる日もスタッフの仕事をしないと現場が回らない状況でした」

そして、一人11役以上を抱える監督の安田は、どの仕事も手を抜かず、ワンカット、ワンカットこだわって撮影。 何度もリテイクを重ねた。 そのため、本来は8月で終える予定だったオープンセットでの撮影は期限までに終わらなかった。
辻野「7月8月は撮影所が空いているというのも…それはそうなんですけども、隙間を狙って(期間の後も)やることは可能だろうなとは思っていました」

撮影は予定を3ヶ月は過ぎた11月になっても行われていた。 そんな中、主役の山口には気掛かりなことが…
山口「安田監督が1人で何役もこなされていたので、色んなことに集中しているときって時間を忘れちゃうじゃないですか。もちろん僕らも俳優として時間を使わせてもらっていたんですけど、本当に完成するのかなというふうになった時に(自分に)別のお仕事のお話があったんですよ。舞台と映画とNHKさんのお話をいただいていて、さてどうしたものかなと。二度とHNKさんでは仕事をさせてもらえないちう覚悟で…今どうしてもスケジュールが埋まっているので(と断った)舞台の制作さんには自分の方から電話して本当にすみませんと言った。なんであんなトチ狂ったことができたんだろうなって、今は本当に本当に怖いなって思いますけど、まあなんかその時はどうしても完成させたいという想いだったんでしょうね」

一方、監督の安田も追い込まれていた。
撮影開始時にはコツコツ貯めたお金が1200万円ほどあったが、撮影を続けるうちに人件費や食事代、宿泊費など、最大で1日50万円以上かかることもあり、貯金はものすごいスピードで減っていった。
しかし、撮影はまだまだ残っている…そんな時、32万円のレンズを落とし、修理費およそ18万円かかることに。 だが 絶対に諦めまいと、安田は愛車を売却

そんな安田の作品へのこだわりや頑張りを太秦のスタッフたちは見ていた。
時代劇の撮影はメイクが崩れやすいからと常に現場に立ち合いプロの仕事に徹した、かつら・メイク担当の川田。
川田「みんなが(アイデアを)出し合って協力し合って最大限のものを作るという、もの作りの本来の姿というか、そういうのはすごく感じて(撮影期間が)延びたことに対してどうとかというのは思わなかったし、最後までやりたいという気持ちだった」

衣装を担当した古賀は、ドラマ『SHOGUN』の撮影現場で衣装着付けを務めた重鎮。 大作映画なら着物を新調できるが、この映画の予算は少ない。 そこで脚本を読み、倉庫にある何万枚もの衣装から、これはというベストな衣装を選び出してくれた。 たとえ安田に何度もダメ出しをされても、嫌な顔一つせず、懸命に納得いくまで衣装を出し続けた。
古賀(こだわりが)強かったし、しつこかったですね。久しぶりにあそこまで食い下がった監督と仕事しましたね。やっぱり気持ちが伝わってくる。この映画を完成させたいというのがね。ひしひしと伝わってくる。監督の圧が。僕も負けず嫌いなところもあって、監督が納得いくまで(衣装を)出してやるとなった」

辻野「私たちが忘れかけているもの作りの原点というんですか、手作りの良さみたいな、そういうものは感じましたね。仕事でありながら それを楽しむという感覚。安田監督は本当に少年の心を持って作っているんじゃないかなと思った。周りのみんなもそれに引きづられて、おもしろがってやっている、楽しんでやっているという感じが現場から感じられました」

彼らだけではない…制作日に余裕のない安田たちが発注したくてもできなかった撮影用の足場を、進藤プロデューサー自らが調達してくれたのだ!
進藤「僕がやると決めたんだから、付き合ってあげないと撮れない。放っておいたら多分中断するしダメになると思った。やると決めたら終わるまでやらないとしょうがない。この世界(映像業界)みんなそうでしょ?」

安田「文句ひとつ言わずに色々な方が最後まで撮らせてやろうという気持ちの中で関わってくださって、とても嬉しかったですし。これは特別なことなんですよ。自主映画が時代劇の本場である太秦撮影所に行ってね、色々なご迷惑をかけながら格安の値段で撮らせてもらっているというのは普通にはありえないことだから、僕としては返せるものとしてはやっぱりこの作品をね、本当におもしろくて良い作品で色々な人に見てもらえる作品に絶対仕上げないといけないと思った」

そして、12月中旬、ついにクランクアップ! 監督、スタッフ、俳優、皆一丸となり、なんとか撮影を終えたのだ!
最終的な制作費は、およそ2600万円
安田は貯金や車の売却などで得たお金など全財産を注ぎ込み、文化庁の映画制作の助成金を受け、かろうじて借金はせず、残高6250円で踏みとどまった。

1年以上の編集を経て『侍タイムスリッパー』を上映したのは、池袋 シネマ・ロサ 1館だけだった。
そして迎えた初日…観客が入っているか心配していた安田だったが、満員だった!
一体なぜ客席は埋まったのか? その理由として…役者やスタッフがビラ配りにまで行った効果が出たことや、目の肥えたインディーズ映画ファンたちの嗅覚が働いたことなどが考えられるという。

さらに翌日も大盛況! 大受けだった!
そして観客の中に大手配給会社のスタッフが見てくれていたのだ!
観客たちも感想をSNSにアップし、話題となり、とんとん拍子に人気に火がつき、あっという間に公開映画館は激増!
今年3月時点で全国380館以上で公開され、興行収入10億円超えの大ヒットを果たした!
その熱は海外にまで伝わり、海外映画祭で観客賞を取るほどの賞賛を浴びた。 そして、今年3月、日本アカデミーの授賞式でインディーズ映画初の日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞したのだ!

映画の完成に尽力してくれた東映京都撮影所の男たちは、それぞれ仕事などがあり授賞式の会場にその姿はなかったのだが…
辻野「みんなの苦労したのが報われて、監督の想いもアカデミー書の授賞式のスピーチでジーンときましたしね。あのとき加わったメンバーは確かにみんなすごく喜んだと思いますし、私自身もちょっとびっくりしました」
進藤「お客さんの評判を聞いたら(賞レースに)入ってくると思っていた。それでもよく獲った。そこはすごいなと思っている」

『侍タイムスリッパー』のラストシーンが終わった後、スクリーンには安田がしたためたこんな文字が…
「In Memory of Seizo Fukumoto.(福本清三を偲んで)」
この文を英語にしたのには意味がある。 提案したのは福本のマネージャー、彼はこう言っていたという。
安田「日本語でね『福本清三に捧ぐ』とか入れたら(福本さんは)『もうそんなアホなのやめとけ』と絶対言う人だから、ただ福本さんは英語がわからない、だから英語で『In Memory of Seizo Fukumoto.』という献詩やったらごまかせるんで。福本さんも何も言わないはずだからということで英語にしたんです」

さらに安田にはどうしても劇中で入れたかった言葉があるという。
それは、磨き上げた剣の腕を頼りに斬られ役こそ自分の居場所と腹を決め、必死の努力を重ねた主人公に大役のオファーが舞い込む場面。 そのシーンで撮影所の所長にこのセリフを託していた。
「一生懸命頑張っていれば、誰かがどこかで見ていてくれる」
そう、大好きな立ち回りを50年以上、有名になってもなお謙虚に必死に続けた福本清三のあの言葉。 自分が一番夢中になれることを諦めず謙虚にコツコツと続けていけば、必ず努力が身を結び、認めてくれる人が現れるのだと。 そのことをスパッと痛快に描いてくれたからこそ、多くの人々に勇気を与え、大ヒットに繋がったのだ!
安田「頑張っていれば誰かがどこかで見てくれていて、素敵なご褒美があるかもしれない。作品を通して色々な人が福本さんの残された言葉を自分なりにしっかりとらえて日々生きていってほしいなと思います」

日本一の斬られ役、福本清三さんへのリスペクトが作品の随所に表されているという『侍タイムスリッパー』。 安田監督には福本さんの家族とのこんなエピソードがある。
福本さんが亡くなったという知らせが届いて間もなく、マネージャーからこんなお願いが…
安田「『ごはん』という作品のDVDを貸してくれないかと」
安田監督の2作目の自主制作映画『ごはん』、この作品には福本さんも出演していたのだが、福本さんの妻・雅子さんには彼が亡くなってからどうしてもできなかったことがあった。
安田「福本清三さんの作品を亡くなられてから ご覧になれないと、斬られて亡くなっていくような役柄が多かったから観ているのが辛いと」

一方、『ごはん』での福本さんは、米農家を継ぐ主人公の女性を支える優しい老人役だったのだ。
マネージャーがDVDを届けると、やがて雅子さんからメールが…
『「ごはん」の中で動いている福本は普段の福本そのものです。真夏の暑い日にタオルを首にかけ、冷たい麦茶を2杯用意して汗だくになりながら暑い暑いと笑って草を刈っていた、在りし日の福本の姿そのものでした…観れて良かった。安田監督にありがとうとお伝えください』

安田「『侍タイムスリッパー』の公開が始まる直前に福本さんのお宅にお伺いして、祭壇に向かってちょっとご挨拶させてもらって、そのときに奥さんと色々しゃべった。“『侍タイムスリッパー』の中に福本清三は生きています。映画を作ってくれて ありがとう” ということを言ってもらった。今こうして『侍タイムスリッパー』という映画がある程度ヒットして福本さんの存在というのがもう一度クローズアップされて世間の皆さんに思い出してもらえたとか、福本清三という俳優がいたことをみんなが認識できているという状況はとても喜んでくれているんじゃないかなと思います」

福本さんを映画の中で感じられるのはこんなところにも…物語の中で主人公は自分は現代にやってきたタイムスリッパーであることを決して周囲に打ち明けないのだ。
実はこれ、安田監督のこだわりの一つ。 なぜ主人公は周囲に打ち明けなかったのか?
安田「福本清三さんは自分のことで周りを煩わすというのをすごく嫌がる人だったので、その性格を反映させてもらった」
そう、ハリウッドデビューしたにも関わらず、帰国した翌日から斬られ役に没頭した謙虚な性格の福本さんなら、自分のことで周囲のことを混乱させたりしない。そう考え、福本さんならこうするという設定で主人公の人物像を築き上げたのだ。