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関東一円の住民が大パニックになった事件

今から70年前、1955年昭和30年、東京、埼玉、神奈川をはじめ、関東一円が大パニックに陥いるアンビリバボーな大騒動が起こった。
その発端はこの2年前、栃木県のとある村の雑貨店を営む家で絞殺された4人の死体が発見された。 被害者は雑貨店の女主人とその息子、彼女の母親と、そして住み込みで働いていた女性の4人。 前日に店を開けていたことから、犯行時刻は深夜から朝にかけてと思われた。

被害者が4人もいるため、警察は複数犯の仕業だろうと考えた。 めちゃくちゃに荒らされた部屋からは、現金と女性用の腕時計が盗まれていた。 この店は相当な金額の金を溜め込んでいると村中で噂されていたという。

警察は村の噂を知っていることから、人口600人の村の中に犯人がいると見て捜査を開始。
さらに犯人が犯行現場に戻ってくる可能性も考え、雑貨店が見通せる村の世話役で皆から信頼の厚い青年団長の家に協力を仰ぎ、そこに詰め所を設置した。

この時はまだ戦後10年足らず。 配給だけでは物資が足りない都会の人々に正規のルートでは無い、いわゆる闇米を売る農家が現れ大きな儲けを得るという時代だった。
そこで、警察は闇賭博に関係している村の不良たち4人を賭博罪などの別件の容疑で逮捕。 厳しく取り調べたが、いずれも決定的な証拠は得られず、事件発生から2月が経過。

すでに約600人の村人たちの行動はすべて調べ尽くし、警察内部にも焦りが広がっていた。
そこで警察は、村の出身で現在村を出ている人たちに注目した。 すぐさま、元村人たちにあたったが、当日アリバイがない人物はいなかった。

最後の一人は東京に住んでいた女性。 当時、東京から村へは10時間以上かかることもあり、犯行は到底不可能と考えられた。 それでも念のために話を聞くことにしたのだが…彼女と話していて、警察はある人物が真犯人であると確信した。

警察はすぐさま村へ戻ると、真犯人である人物のもとに向かった。
それは、警察に部屋を提供していた青年団長、菊地だった。

ではなぜ、警察は犯人だと断定できたのか?
実は…東京に出ていた妹が雑貨店から盗まれた時計を持っていたのだ。 犯行現場の様子から複数犯の犯行と疑われたが、菊地は犯行人数やアリバイなどの偽装工作を行っていたと自供。

犯行の動機は、母親の目の治療費が欲しかったため。 菊地の母は、白内障でほぼ失明状態だった。
実の父から兄とともに虐待を受けて育っていた菊地。 後に離婚した母が別の男と再婚し、妹たちが生まれていた。 しかし、義父からも疎まていた。 その境遇もあり、肉親への愛情は特別強かった。

だが、菊地の家はもともと地主から畑を任されている小作農で、生活はギリギリ。 白内障の手術は当時保険などがなく、高額。 義父はそのような高額な治療費を払うつもりはなく、母に治療を受けさせなかった。
その後 義父が亡くなり、母はほぼ見えない状態まで悪化していた。 そして当然、菊地自身も手術を受けさせる金はなかった。 そんな時、雑貨店が家に金を溜め込んでいるという噂を聞き、豊かな者から少しぐらい金を奪ってもいいだろう…その金で母の目を治してやろう。

そんな短絡的で自分本位な考えに達し、雑貨店に盗みに入ったのだった。 しかし、眠っていた女性が気配で目を覚ました。 気が動転した菊地は家の中にいた全員を殺害。 現金と時計を盗み、現場を立ち去った。
そして何も知らぬ妹に盗んだ時計を贈った。 東京までは捜査の手が伸びないと高を括ってのことだった。

逮捕から約半年後、菊地は宇都宮地裁から死刑判決を言い渡され、その後控訴も棄却され、最高裁に上告をしていたものの、二審までの判決がひっくり返るとは考えられず、菊地自身も死刑を覚悟していた。 東京拘置所で死刑の確定を待っているときに菊地はある決意をする。
それは…菊地は拘置所から脱獄したのだ! どこかで手に入れた金ノコで鉄格子を切断したという。

菊地の独房にはある書置きが残されていた。
『お詫びの申し上げようもありませんが、暫日の命を許してください』
実は、当時の東京拘置所はこの2年前にも脱獄を許しており、国会で所長の責任を追及されるなど、問題になったばかりだった。 この事件ののち有刺鉄線を張るなど対策をとったものの、鉄格子は鋳鉄と言われる金ノコで簡単に切断できるもので、バリケードも強固なものではなかった。 そうした設備的な不備があるうえ、戦後の混乱期で、拘置所の定員を超える囚人が入所したため、職員が不足し、警備が行き届かないという問題もあった。

警察は都内近県に住む、菊地の親戚や知人宅など、およそ50ヶ所をマークし、大量の人員を動員して捜査にあたった。
一方、各マスコミは死刑囚の脱獄をこぞって報道。 この報道に関東一円の住民たちは震え上がった。 数日経っても菊地がどこに潜伏しているかの情報も掴めず、マスコミによる報道も錯綜していた。

しかし、脱走発覚から6日目ある有力情報が届く。 脱獄当日に菊地の実家のある栃木へ向かう列車の中で検札に引っ掛かった男がいた。 その後、栃木県を走行中にその男は逃亡し、姿を消していたのだが…対応した車掌に手配写真を見せたところ、その男が菊地に似ていたと証言したのだ。
その日から、栃木県警は村の実家付近に人員を集中的に配置。 4人を殺害し、死刑判決を受けた男が近くにいる可能性が高いとわかり、村民はパニックに陥った。

菊地には、幼少期共に虐待を受けていた兄がいた。 その兄は脱獄の直前に菊地と面会、その後、行方をくらましたことから警察は脱獄に関与していると睨んでいた。
そして脱獄発覚から7日目、警察はようやく実家付近で兄を発見し、逮捕。 そして、彼の取り調べを行った。 その中で兄は驚くべきことを証言。 その内容は…差し入れの本の中に金ノコを隠し菊地に渡したこと、脱獄した菊地と宇都宮で待ち合わせ、逮捕される直前まで行動を共にしていたことを白状したのだ。

さらに兄は、取り調べでもう1つの驚くべき証言をしていた。 兄によると、菊地が脱獄を決めたのは、自分が送った手紙が原因だという。
その内容は…『お前があんなことをしたせいで、母親が村の人から冷たい仕打ちを受けており、大変苦しんでいる』
菊地は自分が脱獄すれば、復讐を恐れた村の人々が母への冷たい仕打ちを改めると考えたようだと、菊地の兄は供述した。 この報道を見て村の住民は、菊地に逆恨みされ、危害が加えられるのではないかと、さらに震えあがった。

今回 我々は、当時菊地の実家があった付近で取材を敢行。 そして、当時小学校低学年で事件について記憶のある女性に話を伺うことに成功した。
大騒動の渦中にいた女性が語ったこととは…
「知っている人が犯人だったし、その人が(拘置所から)脱走した。(菊地の)親が村にいるから絶対来るから、フラフラするなとみんな言っていた。どっから出てくるかわからないから、村の周りは林ばかりだから、潜んでいるかもしれないし、先生がまとまって帰れと、団体で帰りなさいと言っていた」
中には、就寝時、枕元に刃物を置き、万が一に備える住民もいたという。

兄の自供を受け、警察は近くの山に潜伏している可能性が高いとみて、200人を動員し、24時間体制で捜索を行なった。
しかし、山狩の情報をつかみ、マスコミが大挙して押し寄せた。 我先にとスクープを狙い取材合戦を繰り広げていたのだった。 当時はまだ報道協定もなく、警察とマスコミの連携は全くと言っていいほど取れていなかった。

一方で、警察は近くの山で脱獄に使ったと思われる縄を発見することに成功。 菊地が近くにいることを確信し、翌日、捜査員を700人に増員、しらみ潰しの作戦に出た。 それでも菊地の行方は掴めなかった。

その夜、ついに菊地が姿を現した。 長く飲まず食わずで飲まず食わずで山に潜伏していた菊地は衰弱していた。 限界を感じた彼は捕まることを覚悟で姿を現したのだ。
警察と共にマスコミに囲まれる菊地。 まさに、異例の公開逮捕とも言うべきものだった。 マスコミはその逮捕の瞬間をカメラに収めていた。

はたして、菊地はなぜ捕まることを覚悟で出てきたのか? 彼が脱獄を決意したのは、住民たちに恐怖を与えることだけが目的ではなかった。 実はもう一つの大きな目的があったのだ。
母はほとんど目が見えない状態…10時間近くをかけ東京の拘置所に面会に訪れることは不可能、母は息子と会うことを諦めていた。 死刑を覚悟していた菊地は、最後に一目だけでも母に会いたかったのだ。

その直前に捕まった菊地が脱獄の目的を果たすなど、叶えられない望みのはずだったのだが…母の目のことや家族への愛情を知っていた警察は、菊地の身勝手極まりない犯行は許せないと思いながらも、微かな温情をかけたのだった。 戦後間もない時代ならではのエピソードだった。
一瞬だけの再会を果たした菊地は、その後、警察に連行された。

翌日、東京に移送され、再び菊地は死刑の確定を待つ身となった。 そして拘置所に戻った1ヶ月後、菊地の死刑が確定。 同年の11月、死刑が執行された。
脱獄をした菊地を警戒していたため、死刑確定から半年以内という当時でも異例のスピードでの執行だったという。 こうして関東一円の住民たちは元通りの日々を取り戻したのだ。