オンエア
今から2年前、WBCの決勝戦!
侍JAPANが強敵アメリカを倒し、見事優勝を果たした!
この快挙に多くの日本国民が大興奮!
優勝直後には駅に多くの人が大挙して押し寄せ、大混乱に!
その理由は…優勝を報じる号外を入手するため、人々が殺到したのだ。
あまりの混雑ぶりに駅から少し離れた場所で列を整理、警察官が号外を配ることになるほど、前代未聞の大騒動となった。
その熱狂は…選手が帰国する空港にも及んだ。
約1200人ものファンが選手たちを出迎えたのだ。
日本中に勇気と希望を与えた英雄たちが生み出したアンビリバボーな大騒動だった。
今から51年前の1974年、昭和49年、日本中がこの男性に夢中になった…ユリ・ゲラー!
彼の特殊な力に日本人たちは度肝を抜かれた!
それは…スプーン曲げ!
来日する前の彼はイギリスの有名人。
テレビに出演し、硬い金属製品などを念力で曲げ、人気を博していた。
彼が来日し、日本で初めてその能力を披露したのが、まさにこの年1974年2月25日放送の深夜番組『11PM(イレブン ピーエム)』。
その後『木曜スペシャル』でも披露された。
スタジオの中心にユリゲラー、その周りには出演者、そして観客も入れた状態で披露された。
驚くのはこれだけではない。
この日の放送は、一部生放送で行われていて、中継先のユリゲラーが視聴者に向け「止まっている時計があったらテレビの前に持ってきてください」と呼びかけ、念じたのだ。
すると、なんと止まっていた時計が動き出したという視聴者が日本中で続出。
当時のある雑誌によれば、日本テレビの近くにある電話局のヒューズが飛ぶほどの電話が殺到したという。
さらに、彼がきっかけであるアンビリバボ―な現象が起こる。
それは…テレビを見て真似をしていたら「僕も出来た!」という少年が続々名乗りを挙げ、彼らの一部が一躍スターになったのだ!
まさに、突然訪れた超能力ブーム!
そんなブームの火付け役である、ユリ・ゲラー…超能力は今でも健在!
彼は故郷であるイスラエルに「ユリ・ゲラー博物館」を建設。
館内にかつて訪れた国々の記念品や超能力に関連したものを展示している。
中でもこの博物館を訪れた人が度肝を抜かれるもの、それが…これまでに彼が曲げた数千本のスプーンでこしらえた玉座。
ユリゲラー自身も館長、そして解説員として接客しているのだという。
今から29年前の1996年、昭和にすると71年(平成8年)の大騒動。
翌年になってもその商品が入荷されるとの情報が出ると…前日から待機するものまでいるほどの大行列ができた。
さらに、孫に頼まれ、宮沢元首相も商品を買いに2回も店へ向かったのだが、あまりの人気から購入することができなかったのだという。
多くの人々を熱狂させ、アンビリバボーな大行列を作り出した商品の正体、それは…電子玩具「たまごっち」!
ペットを飼育するように、「たまごっち」と呼ばれる生物のお世話をして、育てていく玩具。
ご飯を与える時間や就寝時間など、育て方次第でさまざまなキャラクターに進化。
さらに1ヶ月ほどの寿命を迎えると「たまごっち」は死んでしまい、また新たな「たまごっち」を育てていくことができる。
そうした変わった特徴、そしてかわいらしいデザインや、ユニークなキャラクターなどが女子高生を中心に評判を呼び大ヒット!
さらに、一大ブームを引き起こした「たまごっち」は、日本だけにとどまらず、海を越えて世界へ!
発売3年で国内外合わせて4000万個以上、全世界の約150人に1人が持つほどの驚異的な販売記録を叩き出したのだ。
実は当時「たまごっち」に関連して、あるアンビリバボーなセレモニーが行われていたことをご存知だろうか?
それはなんと、死んでしまった「たまごっち」の供養。
育てた「たまごっち」に愛着を持ちすぎた結果、また新たな「たまごっち」を育てることができるにもかかわらず、供養し弔う人が続出!
なんとこのお寺では、のべ一万人以上の人が「たまごっち」の供養を行ったという。
そして、はるか海を超えたイギリスでも死んでしまった「たまごっち」を弔うための、専用の墓地ができたという。
こうして世界的大ブームを引き起こした「たまごっち」。
その後もお互いのキャラクター同士が交流できるよう、通信機能がついたり、Wi-Fiを搭載し、ネットで世界中のたまごっちユーザーと交流できるようになったりと時代と共に進化を続け、いまだに高い人気を誇っている。
今から37年前の1988年 昭和63年の2月10日。
平日の早朝に日本各地で大行列が!
東京池袋では、なんと1万人を超える行列も!
徹夜して待機する猛者も多数出現。
彼らがそこまでして手に入れたかったもの、それは…テレビゲーム「ドラゴンクエスト3 そして伝説へ」。
今なお続く人気ゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズの3作品目であるこのゲームは、主人公になりきり、仲間を集め巨悪を倒すという当時としては画期的なゲーム。
前作のヒットもあり、発売前から話題になっての大行列だったのだ。
さらにその人気の高さから、アンビリバボーなある騒動まで引き起こしていた。
平日であるにも関わらず、学校を休んで列に並んでいたとして、283人もの子供が補導されるといった異常事態。
また、子ども同士によるソフトの強奪事件が相次いで発生!
この事件を機に、人気ソフトは土日祝日に販売する、事前に予約券を発行するなど、同様の問題や被害が出ないよう対策が取られることになる。
社会のルールすら変えた大騒動だった。
今から50年前、1975年ちょうど昭和50年のこの年、日本中であるものを売るお店に行列が!
その商品の正体、それは…小麦の生地にあんこを入れ、鉄板で焼いて作る…そう、たい焼き!
今でも多くの人が好む食べ物だが、この年、ある出来事がきっかけで一大ブームに!
百貨店では自宅用のたい焼き器売り場が出来るほど!
そんなたい焼きブームのキッカケ、それは…童謡「およげ!たいやきくん」!
子供番組「ひらけ!ポンキッキ」のオリジナルナンバーとして発表されたこの曲は、子供たちだけでなく、その哀愁漂う歌詞から大人達の反響も呼び、放送直後からフジテレビにはレコード発売に関する問い合わせが殺到。
その結果、発売前にもかかわらず30万枚以上の予約が!
オリコンランキングでは、初登場から11週連続一位という驚異的な記録を樹立。
450万枚以上ものレコード・CDを売り上げ、その販売数はいまだに日本一を誇っている。
ちなみにこの大ヒット曲には幾つかのアンビリバボーな真実があることをご存知だろうか?
この曲を歌っていたのは、子門真人さん。
大ヒットゆえ多額の印税が手に入ったのでは?と思うかもしれないが、実はレコード会社と買取の契約を結んでいたため、大ヒットしたにも関わらず、手にしたお金はギャラとしてのたったの5万円。
その後、レコード会社から100万円と白いギターがプレゼントされたと言われているが、それにしても少なすぎる。
さらにこの曲には、昭和のある大スターにまつわるアンビリバボーな秘密が!
その大スター、それは、「どうにもとまらない」や「狙いうち」など、ヒット曲を連発し、熱狂的な人気を博していた山本リンダさん!
なんとリンダさんは、「およげ!たいやきくん」のアンサーソングを歌っていたのだ!
リンダさんのおかげもあってか「およげ!たいやきくん」はブームを作り、同時にたい焼き自体も大流行!
行列ができるほどの社会現象を引き起こしていたのだ。
続いての行列は、今から51年前の…1974年、昭和49年。
あるモノを目当てに上野に多くの人が集結、長蛇の列を作った。
行列の先にあったモノ。
それは…「モナリザ」。
フランスのルーブル美術館から日本に初めて貸し出しが許されたのだ。
その魅惑の微笑みを一目見ようと、約50日という展示期間の間、1日あたり約3万人、計150万人を超える入場者が!
これは、単独の美術館で行われた展覧会で、日本一の記録となっている。
人々を引き寄せるアンビリバボーな魅力がモナリザには秘められているのかもしれない。
さらにその2年前…1972年昭和47年も上野が熱かった。
長蛇の列!なんとその長さ、約2km!
彼らのお目当て、それは…上野動物園にやってきた、ジャイアントパンダ!
これまで日本ではみることができなかった、パンダの動く姿を見ようと人々が殺到したのだ。
この年「日中共同声明」を機に、日本と中国の国交が正常化したことを記念して、カンカン、ランランの2頭のパンダが送られてきたのだ。
その姿を一目見ようと、公開初日、約6万人もの人が押し寄せたのだが…このアンビリバボーな混雑から入場制限が行われ、半分以上の4万人近い人がパンダを見ることができず…見物が叶った2万人もその時間は一人当たりわずか30秒しかなかったのだという。
可愛いパンダの魅力が引き起こしたアンビリバボ―な行列だった。
ここで番外編、ある場所でアンビリバボーな人混みが撮影された。
それは今から60年前の1965年、昭和40年。
この年、都心にあった有名遊園地にあるものができた。
それは…豊島園にできた世界初の流れるプール。
泳げない子ども達に、浮き輪に乗っているだけで、水を掻き分けて進む気持ちよさを味わわせてあげたい!
そんな思いから生まれたこのプールは…日本各地から大勢の客が押し寄せ…最盛期にはアンビリバボーな状態に!
これでは流れを感じられないのでは?と思うほどの人で埋め尽くされている…まさにアンビリバボーな人混みだった。
今から52年前、1973年昭和48年にあるブームが起こる。
この年 発売された書籍が累計250万部を超える大ベストセラーになったのだ。
元になったのは、海外の古い一冊の詩集。
この詩集の一節が紹介されると、日本を恐怖で覆い尽くしたのだ。
詩集は占星術や学術的な見地から未来の事柄について書かれた予言集というもの。
そしてその著者こそ、ノストラダムス。
16世紀、フランスで医師をしていた彼には、当時 人々を苦しませていたペスト、その病原菌が確認される300年も前に、まるで未来を見通せたかのようにペストに有効な対応を指示したという逸話が残っている。
そんな彼が書いた予言集は、フランス王妃が愛し、多くの学者が研究するなど、ヨーロッパでは500年ほど前から高い知名度を誇っていたが、日本では翻訳書籍の発売まで、ほとんど誰も知らないものだった。
日本語に翻訳したのは、作家である五島勉氏。
フィクションや独自の解釈も交えて紹介したその書籍こそが、大ベストセラーとなった「ノストラダムスの大予言」なのだ。
それにしても何がそんなに日本人の興味を誘ったのか?
それは…書籍のサブタイトルにもついている「人類滅亡」の4文字。
そして具体的には、ある一節の詩の日本語訳と解説だった。
その内容は…
『1999年7の月、天から来るであろう恐怖の大王がアンゴルモアの大王を蘇らせ、その前後、火星が幸福に統治するだろう』
これを書籍では『1999年の7月に人類が滅亡する』と解釈し、紹介していた。
政情不安や、経済的逼迫感を持っていた当時の日本人の中には、環境汚染や全面核戦争などによる人類滅亡はありうる、そう信じるものも多かった。
恐怖のあまり、核シェルターを作る人までいたという。
しかし、滅亡の日とされた1999年7月が過ぎ去っても、結局は何も起こらず、もちろん、人類が滅亡することもなく、多くの人々は胸を撫で下ろした。
本の発売から26年もの間、日本を大いに沸かせた大騒動だった。
今から33年前の1992年、昭和67年にあたるこの年(平成4年)、あるアンビリバボーな姉妹が日本を席巻した。
そのキッカケとなった一つが、CM。
可愛らしく元気な姿で国民的人気者となった、100歳の双子…成田きんさんと蟹江ぎんさん。
CM出演まではほとんど知られていなかった2人だったが、その後は多くのテレビ番組に出演、全国区の知名度になった。
そして、明るい2人の姿は、多くの人々に元気を分け与えた。
さらにこの年…CMのコメントなどで、年間の流行語大賞を受賞。
100歳という歳で時代の流行りを作り、まさに国民全員の注目の的だった。
そんな2人の人気は、アンビリバボーなことに海を越え、102歳で初めて訪れた海外、台湾でも大歓迎された。
100歳を超えてなお元気で明るい双子がいると、台湾でも評判を呼んでいたため、とある企業から招待されたのだ。
日本国内のみならず、世界中の人々を明るい笑顔で包み込んだふたり。
そののち、きんさんは今から25年前、107歳、ぎんさんはその翌年 108歳で大往生を遂げた。
今から59年前…1966年、昭和41年に海外からある人気者が来日。
移動する一瞬の姿をひとめ見ようとファンが集まり、宿泊先には若い女性が殺到。
警察官 数百人が出動する大騒動に!
ここまでの騒ぎを起こした人気者!?
それは…初来日した世界的ロックバンド、ビートルズ!
世界的大スターに万が一のことがあってはいけないと、アンビリバボーな警備体制が敷かれた。
たった4人のメンバーために、なんと8000人以上の警察官と警備員が投入されたのだ!
そんな中、武道館で行われた初の来日公演。
集まった観客は大スターの生演奏に酔いしれた。
多くの日本人が興奮に包まれた大騒動の5日間となった。
さらに、今から71年前、1954年、昭和29年には…あるビッグカップルの来日で羽田空港は大騒動!
滞在先のホテルにも、マスコミやファンが殺到!
彼らのお目当ては…マリリン・モンロー。
そして、その夫…ニューヨーク・ヤンキースの強打者として活躍していた、野球界のスーパースター、ジョー・ディマジオ。
そんな二人は、来日の半月前に結婚したばかりの、新婚ホヤホヤ。
ハネムーンで日本にやってきたのだ。
マリリン・モンローは日本各地で熱狂的な歓迎を受け…スターらしく常に笑顔で、その声に応えていた。
しかし、ご存知だろうか?
日本滞在中彼女にあるピンチが訪れ、それを救ったある日本の有名人がいたことを!
実はマリリン・モンローは日本滞在中に胃痙攣を発症。
注射を嫌う彼女の元に呼ばれたのが…「指圧の心は母心 押せば生命の泉湧く」、この名台詞で知られる、指圧師の浪越徳治郎さん。
のちに吉田茂元首相をはじめ、歴代の総理大臣11人を受け持ったほどの指圧の第一人者なのだが、無名時代に指圧がテーマのテレビ番組に出演すると一躍人気者に。
ドラマやバラエティ番組にも出演し、当時の日本で彼を知らぬ者はいなかったと言われている。
そんな彼がマリリン・モンローのツボを指圧すると…なんと痛みが消え、回復したのだ!
さらに、浪越さんの指圧をすっかり気に入った彼女は、東京滞在中に7回も彼の指圧を受けたのだという。
その後もマリリン・モンローは、世界を股にかけて大活躍!
しかし、その功績は…浪越さんのおかげだった!と言えなくもないかも?
今から38年前…1987年、昭和62年にはあの超大物が来日!
成田空港には、その姿をひとめ見ようと、ファンや報道陣が大挙して押し寄せた。
そんな彼らの前に姿を現したのは、世界的大スター キング・オブ・ポップ、マイケルジャクソン!
愛するペットチンパンジーのバブルス君を連れ、ソロツアーのため来日。
東京・大阪・横浜で計14回の公演を行い、40万人以上の観客を動員。
チケットの総売り上げは25億円を超え、延べ8000人もの警備員が雇われたという。
さらに、来日中東京ディズニーランドを訪問。
しかもアンビリバボーなことに貸切!
世界的スターの格の違いを見せつけた。
マイケルの来日は「マイケル台風」とも呼ばれ…日本を熱狂の渦に巻き込む正真正銘の大騒動となった!
今から23年前の2002年、昭和77年に当たる(平成14年)この年の夏、とある人気者をみるため川に人だかりが!
彼らがどうしても見たい人気者、それは…多摩川に現れたことからその名がつけられた、生後1年ほどのアゴヒゲアザラシ「タマちゃん」。
通常、この種のアザラシは北海道付近まで来ることはあるが…タマちゃんは潮に流されてしまい、多摩川に迷い込んでしまったと見られた。
突然現れた愛くるしい生き物に、子供から大人まで多くの人がその虜に!
この年の流行語大賞に選ばれるだけでなく、あるアンビリバボーな出来事も起こしていた。
なんと…タマちゃんが姿を現した横浜市西区の区役所が住民票を発行、「ニシ タマオ」という名前までつけたのだ。
すると全国から、その住民票の写しが欲しいという要望が殺到し、登録からわずか1週間で約4000枚もの写しを印刷したのだという。
その後、埼玉県の荒川に拠点を移したタマちゃん。
なんと1年8ヶ月ものあいだ日本に滞在。
しかし、2004年4月以降姿が確認されなくなった。
専門家によると、外洋に出てしまった可能性が高いという。
アゴヒゲアザラシの寿命は長いと約30年。
当時子どもだったタマちゃん、もしかすると今も遠い異国の地で、新たな大騒動を産み出しているかもしれない。
今から52年前、1973年、昭和48年、NHKで放送されたドラマであるアニマルの存在がクローズアップされた。
ドラマのタイトルは「すべって転んで」。
あるアニマルの捕獲に夢中な夫とその妻の物語。
そして、それまであまり知られていなかったそのアニマルが、現実社会でも捕獲しようとする人々に探されるようになった。
なんと、当時、東京のあるデパートが懸賞金までつけたのだ。
生け捕りで20万円、現在の価値で約60万円、相当な額だ。
ただ残念ながら該当者は現れなかった。
だが、和歌山県のある村で目撃者が現れた。
目撃者「太いのにものすごく短いマッチの軸みたいに可愛らしい尾がついていた。そらもう ビックリしましたわ」
これを期に全国各地で大捜索が始まり、一大騒動に!
そのアニマルこそ!そう、ツチノコだ!
数々の目撃情報により浮かび上がってきたその姿は、体長30センチから70センチほど。
全身鱗に覆われた褐色の皮膚に頭部は三角形で、ビール瓶のように扁平した胴を持ち尻尾は細く短い。
さらに、ツチノコのもっとも奇妙な特徴、それは…そんな姿にも関わらず数メートルも飛ぶというのだ!
ほかにも、夜行性で目が光っている、毒を持っている、その姿を見ると祟りがあるなど、様々な言い伝えがある。
実はツチノコの歴史は非常に古く日本書紀や古事記にもツチノコの本来の名称である「ノズチ」という名で記載されている。
さらに、江戸時代の百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』や、妖怪画集『今昔画図続百鬼(こんじゃくがずぞくひゃっき)』などにもノズチは登場している。
幻の生物、妖怪とされたツチノコ…だが昭和40年代後半、突如目撃例が多発。
懸賞金を提示する企業や自治体も続々登場!
ツチノコを巡る大騒動が勃発したのだ!
かつてアンビリバボーでは、とある目撃者にインタビューを行っていた。
その人物は『釣りキチ三平』の作者として有名な、漫画家の矢口高雄さん。
彼は自らの目撃体験を漫画化し少年誌に連載。
ツチノコブームをより一層加熱させた。
矢口「ヘビにしては随分太いな。石の間に頭を突っ込んで、背中をこちらに向けていた。むくっと起き上がって、グッと鎌首を持ち上げて僕らの方を見た。ヒューっと飛んだと思ったら、細い川を横切って、ヨモギの葉っぱの上の方をスーッと滑るように通り抜けて藪の中に消えていった」
日本中で大捜索が行われるも、ツチノコを捕獲するものは現れずブームは過ぎ去っていった。
しかし、ブームからおよそ20年後の1992年、突然発見者が現れたのだ!
フジテレビ取材班は専門家とともに5m飛んだというツチノコを捕獲した人物を訪ねていた。
彼はなんとツチノコをホルマリン漬けにしているという。
その姿がこれだ!当時鑑定などはされておらず、その正体は現在でも不明だが、この『ツチノコ』は町の図書館に寄贈され、大切に保管されている。
今から35年前、1990年、昭和65年にあたるこの年(平成2年)、人々が指を指し、中には拝む人も。
きっかけは写真週刊誌フライデーに載った読者投稿の写真。
池の鯉の顔が人みたい!人面魚だ!
人面魚が見つかったのは山形県にある善寳寺の池。
貝喰池(かいばみのいけ)と呼ばれ、野球場くらいの大きさがあり、龍神の伝説もある霊験あらたかな池である。
そんな場所に現れたありがたい生き物についつい手を合わせる気持ち、分かります。
当時、寺には一日一万人が訪れ、テレビなどのメディアもこぞって人面魚を取り上げる、まさに大騒動が展開される。
ちなみにこの人面魚は現在も生息しているか定かではないう。
そして大騒動の24年後、この寺で新たなアニマルが話題に!
それがこちら…なんと金の人面魚が現れたのだ!
ありがたさが増した気がした。
そしてさらに一昨年には、またまた新たなアンビリバボーなアニマルが話題になった。
それがこれだ!
パンダナマズ!顔は普通だが白黒模様だ!
一昨年の秋に突然池に現れ、隠れた人気者になった。
この池には不思議なアニマルが集まってくるのかもしれない。
因みに現在も生息しているか定かではないという。
今から55年前、1970年、昭和45年、山間部のとある町に注目が集まった。
我々は今回、大騒動の中心となった広島県庄原市西城町を訪れた。
このアニマル大騒動に詳しい恵木さんにお話を伺うことができた。
恵木「慌てて車を止めたらそのまま山の中に入って行った」
当時この街では、謎の類人猿の目撃情報が相次いでいたのだという。
その名も「ヒバゴン」。
目撃されたこの街が比婆郡だったことからそう名付けられた。
そして役場に「類人猿係」という新しい部署が設けられた。
先ほどの恵木さんは当時類人猿係で仕事をしていた、この大騒動について最も詳しい人物だ。
その後、日本各地の大学や研究機関類人猿調査隊によって徹底捜索が行われ、足跡らしきものが採取された。
恵木さんは当時 この足跡を動物の研究者に送ったのだと言う。
恵木「広島に安佐動物公園あるので聞いてみたら、サルの足跡は指を曲げた状態のもの。当時の足跡は指を広げた状態のもの。広げた状態はクマの足跡でもない、サルでもない」
そしてその4年後、さらにアンビリバボーなことが起きる!
ヒバゴンらしき姿が写真におさめられたというのだ!
さらに、きぐるみで踊る類人猿踊りも登場!
ヒバゴンの郷は全国の注目の的となった!
その後、目撃情報は途絶え、その正体は謎のまま調査は打ち切り、類人猿係も廃止となった。
だがヒバゴンは今でも愛されている。
最近のヒバゴンの姿…それがこれだ!
そして、このキャラクターにもアンビリバボーな秘話が隠されていた。
協会「(近隣の)庄原市の市役所に勤めていた方がちょっと(ヒバゴンを)描いてみたら、可愛かったのでとても評判が良かったので西条市の公式キャラクターになった」
そう、一般の方が趣味としてデザインしたものが、市の公式キャラクターになったのだ。
このキャラは街の至る所に存在、地元で愛され続けている。
今もどこかで生きていてほしい。
今から46年前、1979年 昭和54年の夏。
ワイドショーがその模様を連日報道、平和な街に戦慄が走った。
街にトラが逃げ出したというのだ!
前代未聞の大騒動!
千葉県にある寺が10種類の動物を飼育しており、その中に12頭のトラがいたのだ。
当時は特別な許可は必要なく誰でも飼育出来たのだが、檻の鍵の閉め方が緩かったため2頭のトラが脱走!
飼い主が気づいたのは逃げ出してから6時間後だった。
周辺には80世帯の民家があった。
それだけではない、夏休みだったため合計400人の人々が付近の施設を訪れていた。
家の外に凶暴な肉食獣が潜むという恐怖。
機動隊と猟友会による捜索が始まった。
視界が悪く、一瞬たりとも気が抜けない。
対策本部は住民の夜間の外出を一切禁止した。
楽しい夏休みムードが突如一変、住民たちの眠れない日々が始まった。
トラの脱走2日目、住民を本当の恐怖が襲う。
まだ明け方だというのにその日に限って激しく吠える犬。
ついにトラが民家の庭先に出没したのだ!
これをうけ、猟犬を使って山狩りを慣行、さらには捜査人員を800人に増強。
そして、1頭を射殺した。
だがもう1頭はなかなか見つからず、住民たちの眠れね日々は続いた。
1週間以上経ってもトラを見つけることはできない中…脱走から26日が過ぎたある日。
トラが住民の犬を襲ったのだ。
それまで具体的な被害が出ていなかっただけに、生き物が襲われたという事実に衝撃が走った。
警察はすぐに対応、射撃の名手で選抜隊を結成。
殺傷能力の高いスラッグ弾の使用を決めた。
そしてついに、もう1頭を発見。
脱走から26日、2頭目のトラを射殺、トラを巡る大騒動は終結した。
街はすっかり活気を取り戻した。
この一件をきっかけに全国で条例の制定が相次ぎ、猛獣を飼育する際には特別な許可が必要となった。