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大企業の不正を発見!? 社会の闇と闘った男

昨今、組織内の不正を明るみに出そうという内部告発に関連する様々な出来事が世間を賑わせている。
内部告発とは…「自ら従事している事業者に属する労働者が外部機関、例えば報道機関などの第三者に対して公益のために(不正を)開示すること」
しかしあなたはご存知だろうか? 今からおよそ50年前、SNSなどはもちろん存在せず、内部告発という言葉すらほとんど知られていなかった時代、勇気をもって内部告発を行い、今へと繋がる『公益通報者保護法』を作るきっかけを作った人物がいるということを。

串岡弘昭さん現在78歳、かつて北陸有数の大企業でサラリーマンとして働いていた。
しかし、内部告発を行なった途端、突如転勤を命じられ、移動先で与えられたのは、机と椅子しかない4畳半ほどの部屋。 ここから終日、窓からの景色を眺めて過ごした。 その期間はなんと16年近くにも及んだのだという。 たまに与えられる仕事は、営業マンとして働いていたそれまでとは全く関係のない雑用ばかりだった。

そんな串岡さんがこの日、我々にあるモノを見せてくれた。 それは今から24年前54歳の時の給与明細。 手取りでおよそ18万円。
実は内部告発を行なって以降、この後も最後までほとんど上がることはなく、同僚との差は広がる一方だったという。 役職も入社3年目に昇進して以来、ずっと変わることはなく、最後まで主任補のままだったという。
それだけではない…会社幹部が自宅を訪れ、家族を巻き込み朝の4時まで会社を辞めるよう説得することもあったという。
それでも彼は言う…「人生は後悔の連続だけれども、内部告発を行なったことについての後悔は全くない」
これは、たった1人で気丈に立ち向かった男と、そんな彼を支えた家族の31年間にも及ぶ実話である。

今から55年前、北陸のとある県出身の串岡弘昭は、東京の私立大学を卒業後、地元に戻り、当時 運輸業界で全国10位、県内最大の運輸会社に就職した。 時はおりしも高度経済成長期、その業界も好景気に湧き、物流を担う運輸会社には大量の荷物が行き交っていた。 入社2年目で結婚した串岡は、その翌年、岐阜の営業所に転勤、主任補に昇進した。

そんなある日、彼は期せずして自身の会社のみならず、運輸業界全体が抱える深い闇の存在を知ることになる。
日々、営業マンとして懸命に仕事をこなし、顧客の獲得に成功した串岡。 だがその数日後、串岡に顧客を横取りされたというクレームの電話が入ったのだ。 しかも1社だけではなかった。 何度も足を運び、新たに契約を取り付けたにも関わらず、その契約先が以前取引していた会社から抗議を受けるケースが相次いだ。

ことの真相を知ったのは、大手運輸会社が加盟する東海道路線連盟の会合に所長の代理で出席した時だった。 そこで、運輸業界の共存共栄を図るため、ある誓約書にサインを求められた。 誓約書を見た串岡は、闇カルテルだと直感した。
『カルテル』とは、複数の企業が話し合い、価格を高い金額で統一をはかるなどして消費者に対して不利益を及ぼすこと。 独占禁止法により、違法とされている行為である。

この時、串岡が目にした誓約書には2つの取り決めが書かれていた。 そして、その2つに違反した場合には罰金を支払うことが明記されていた。
1つ目は『料金を認可されている最高額に統一する』こと。
最高額に統一とは…当時、貨物トラックの配送運賃は電車やバス同様、公共性が高いという理由から運輸省の認可制となっていて、標準運賃という指標が定められていた。 標準運賃は荷物の重さや距離から算出され、最低料金は300円に設定されていた。 本来、配送料は荷主と交渉し、標準運賃の10%の幅の中で各社自由に価格設定することができた。
しかし、路線連盟の取り決めにより標準運賃に10%上乗せした最高額を最低金額として統一することに決めたのだ。

二つ目の取り決めは『荷主移動の禁止』
すなわち、他社の顧客の依頼を引き受けないこと。 そう、この誓約があったからこそ、串岡はクレームを受けていたのだ。
当時、国内のトラックによる荷物の輸送は、東海道路線連盟に加盟する大手企業がシェアの大部分を押さえていて、長距離の輸送はほとんど独占状態だった。 さらに、大手企業の中には重量を実際よりも重く見積もったり、距離を長く計算したりして、料金の水増し行為まで行っている会社もあったという。 顧客の側からすれば、大手企業にほぼ独占されていたため、そもそも選択肢が少ない上に、運輸会社の取り決めにより他社の顧客の集荷依頼を拒否することになっていた。
結果、配送料を運輸会社の言い値で支払うしかなかった。

では、なぜ東海道路線連盟はそのようなカルテルを結んだのか?
それは…今から52年前の10月に起きた第4次中東戦争。 イスラエルとアラブ諸国の間で起きた戦争である。 これにより石油産出国の多くを占めるアラブ諸国が生産量を減らすとともに輸出禁止を決定、原油価格が上昇した。 いわゆる『オイルショック』である。
燃料が上がったことにより、トラックの運送コストも上昇。 そのような状況の中、運輸業社の間で自由な価格競争を行えば、共倒れになる可能性がある。 結果、互いの利益を守るため、こうした取り決めを交わしたのである。

今回のカルテルに対して専門家はこう話してくれた。
「競争を回避するということになるので、ある意味ぬるま湯に浸かって利潤をその一部の人たちで得ていた。そうなると競争していないということになりますし(競争すれば)適正な価格になるはずにもかかわらず、(消費者が)高い価格を払わないといけない。質も良くない。それは社会全体にとって損失になる」

運輸会社が互いに利益を守る一方、その皺寄せは運送量を負担できない零細企業や消費者など立場が弱い人に及ぶことは明らかだった。
串岡は何度も上司に抗議した。 だが、その訴えは届くことはなかった。

当時の串岡は、上が言った通りに仕事をしていれば、出世を望める立場にいた。 だが…「忘れられない言葉があるんだ」といって、妻にこのままで良いのかと悩んでいることを相談した。
北陸の農家に生まれた串岡は、勉強が苦手。 正義感は多少強かったものの、普通の子供だった。 それでも東京への憧れから新聞奨学生に申し込み、採用が決まると、高校卒業を機に上京。 働きながら勉強をして、一朗の末、私立大学の法学部に入学した。

そんなある日のこと、若い講師によるある講義に惹きつけられた。
「カルテルはスポーツの八百長試合みたいなものなんです」
講師は言った、スポーツの試合で八百長が行われ、それがバレたら大きな問題になる。 しかし、もしバレなかったとしても、それを知りながら黙っていたら、いずれ八百長が横行し、そのスポーツ自体の人気が凋落するに違いない。
だからこそ…「カルテルのような不正を目の前にした時、目先の利益のために知らないふりをするのか、それとも社会全体の利益を考えるのか、みなさん一人一人の選択が未来を創っていくんです」

串岡は、「声を上げたら損をするかもしれない。でもどうしても見て見ぬふりをしたくないんだ」と言って、妻に頭を下げた。
妻の順子は「とっくにそういう人だって諦めてるわよ」と言ってくれた。

妻に決意を語った串岡は、誓約書のコピーをたずさえ新聞社を訪れた。 当時はSNSなどはない時代、会社の不正を公にするには新聞に頼るほかなかった。
そして翌月、読売新聞の朝刊に大手運輸会社50社が闇カルテルを結んでいる疑いがあるという記事が掲載されたのだ。 もちろんリークした串岡の名前は出ていない。 ただ彼は記事になることで闇カルテルはすぐに破棄されると信じていた。

だがその翌日、社員に向けて張り出された社内通達にはこう記されていた。
『新聞に載った記事は当社とは関係がない』
『ただし、荷主移動禁止(他社の顧客の依頼を引き受けない)のことなどは他言してはならない』

会社は闇カルテルと関係がないと否定しつつも、誓約書の中身については認めるという矛盾した姿勢をみせたのだ。

このままでは何も変わらないかもしれない…そんな危機感から、温厚でかねてから親しみを覚えていた支店長に内部告発者は自分だと名乗り出た。
すると、支店長からの連絡を受け、取締役が飛んで来た。 会社の幹部たちはみな闇カルテルを必要悪と認め、串岡の訴えに賛同するものなど1人もいなかったのだ!

それでも串岡は諦めなかった。 今度は公正取引委員会に直接訴えでたのだ!
公正取引委員会の担当者によれば、闇カルテルの調査は難航しているという。 それでも時間はかかってもできる限り厳しく調査してくれるという。 串岡自身もできることはやると約束した。

当時、串岡の会社の労働組合は会社の言いなりになる御用組合のような存在だった。 そこで自社の加盟する運輸会社の労働組合で組織された全国的組織、運輸労連の幹部に相談を持ちかけた。 労働者の権利を守る組織なら共に闘ってくれるはず…そう信じてのことだった。
だが、実は当時、運輸労連の幹部と各運輸会社との関係は馴れ合いで、串岡の動きは会社に筒抜けだった。

そして、予期せぬことが…いきなり転勤を命じられたのだ。 当時は報復人事に対する法整備も進んでおらず、串岡への不当な転勤命令がなされた。 北陸をメインに営業していた会社の中で神奈川への移動は明らかな左遷。 転勤を拒否することも考えたが、最大の目標は闇カルテルの破棄だと思い直し、命令に従うことにしたのだという。 串岡には顧客への挨拶も、後任の営業担当者への事務の引き継ぎも一切 許されなかった。

新しい支店に出社したものの、冷たい対応をされた。
それは支店長だけでなく…社内には誰一人、串岡の味方はいなかった。

そんな中、ある吉報が舞い込む。 公正取引委員会がついに串岡の会社を始め、大手運輸会社に立ち入り検査を行なったのだ! これで状況は一変するかに思えた。 だが…会社が全社員に向け配った社内報には驚くべきことが書かれていた。
『立ち入り検査は当社とは関係はなく、一部の悪質な業社の仕業で行われた』
『公正取引委員会は、業界全体の問題とはしない予定である』

明らかな嘘だった! そう、会社は全く反省する気配を見せなかったのだ。

それでも串岡は諦めなかった。 日本消費者連盟にも話を持ち込んだのである。 そして事態は大きく動く。
日本消費者連盟から社会党の議員を紹介してもらった串岡が、今回の一件について相談すると… その議員が串岡の会社の社内報を国会で取り上げ、立入検査後も反省しない会社や業界の姿勢を追求してくれたのだ。
さらに国会では、当時の副総理・福田赳夫から
『法があって、それに違反してそれで利益を得る “違反はやり得だ” こういうような状態であっては相ならぬ』
という政府の公式答弁を引き出したのである。

実は、国会で社内報が取り上げられることを事前につかんだ東海道路線連盟は、国会での追及の直前にある公告を出していた。
そこには…『当連盟は認可運賃の最高額の収受、荷主移動の停止等を申し合わせ実施させましたが、独占禁止法に抵触するおそれがあると判断し、自主的に破棄させました』と記されていた。
そう、彼らは世間の批判や国会の厳しい追及から逃れるため、自ら先んじて闇カルテルの存在を認めるばかりか、破棄することを宣言したのだ。

しかし何はともあれ、これで全ての決着がつくかに思われた。 だが、業界は変わることはなかった。
当時、独占禁止法に違反していたとしても、公正取引委員会が行政指導を行う程度の処分だけで刑事罰などは与えられなかった。 そのことを知っていた東海道路線連盟は、形だけの破棄広告を出すことによって、実際にはカルテルを破棄することはなく、違法な運賃を取り続けた。

そこで串岡と日本消費者連盟は、ある実験を行うことに。
その実験とは、東京にある消費者連盟の事務局から新潟の同じ場所に向け、串岡の務める会社を含め、大手3社に荷物の配送を依頼するとうもの。 その結果、違法行為の明らかな証拠となる請求証明書を入手することに成功した。

消費者連盟は入手した証拠を世間に公表。 翌日、その内容は新聞に掲載された。
3社ともに荷物の重量や配送距離をごまかし、正規の料金から水増ししていた。 以前と変わらず、違法な運賃を受け取っていることが白日にさらされたのである。
この事実を元に日本消費者連盟は3社を道路運送法違反の罪で東京地裁に刑事告発。 ついに闇カルテルに司法のメスが入ることになった。

その後、東京地検は刑事告発を正式に受理。 一定の成果を得たことで、串岡にはここで会社を去るという選択肢もあった。 しかし、彼はその道を選ばなかった。 なぜか?
串岡「辞めさせられるべき理由がないということはもちろんあったが、みんなが下の者は上に従うと、自由にものを言えない風土、そういうことが蔓延しているように私には思えた。そういう中で自分はどんな批判を受けようとも、会社のために良かれと思うことは自由に言っていく。会社に入った時に自由にものを言える雰囲気がなければ企業は発展していかない。人間性が無視されるようだったらその企業はやがて衰えていくはずだという思いは常にあった」

告発とほぼ時を同じくして、会社の本部がある北陸へ串岡の移動が決まった。 これを機に妻の実家で義理の両親と一緒に暮らすことに。
そしてちょうどこの頃、妻が長男を妊娠。 ようやく平穏な日々が訪れるはずだった。

神奈川から北陸の本社に移動してほどなく、串岡は副社長に呼び出された。 そして、転職先を紹介されたのだが、串岡はこれを断った。 これが、地獄の始まりだった。

入社以来、花形の営業部所属だった串岡…そんなある日、彼は配送ドライバーを養成する研修所に行くように勧められた。
1階では他の従業員が普通に働いているのだが、串岡に与えられたのは、4畳半ほどの部屋。 あるのは、机と椅子。 そして外にかけられては困るからなのか、内線しか繋がらない電話だけだった。 それだけではない、課長を始め他の従業員たちも挨拶すらまともにしてくれなかった。

さらに、研修生がやって来ることになった時…営業経験が豊富な串岡は研修生に講義をすることになると思っていたが、与えられる仕事といえば、ドライバーの養成とは全く関係のない雑務だけ。 のちに行われた裁判の判決文には、当時の状況についてこう記されている。
『業務上の必要がないのに原告(串岡)を2階の個室に置いて他の職員との接触を妨げ、仕事らしい仕事を与えられず、上司から命じられたのは研修所内の草むしりや雪かき、ペンキ塗りの仕事のみ』

そんな彼の心の支えとなったのは、妻と生まれたばかりの長男だった。 串岡は心配をかけたくないという思いから、自らの境遇を妻に打ち明けることはなかった。 一方で、妻も彼の言動から会社で上手くいっていないことは何となく想像できた。 しかし、面と向かって聞くことはできなかったという。 そんな彼女にできることは、毎朝弁当を作り、夫を笑顔で見送ることだけだった。

一方で串岡は、日本消費者連盟によって告発された3社の捜査に協力するために地元の検察の呼び出しに何度も応じ、闇カルテルの全容解明に協力した。 もし、刑事裁判で運輸会社の有罪が確定すれば、世間の注目が集まる。 そうなれば、会社も変わってくれるはず…それだけを信じて。

そんなある日、実家の母のところに会社の人間から電話があり、こう言われたという。
「おたくの息子さん これだけ迷惑をかけてなぜまだ会社を辞めないんですかね?」
さらに、会社の幹部が市役所に勤める串岡の兄のところを訪れ、会社を辞めるよう説得して欲しいと何度も依頼したという。

それだけではない…家に突然暴力団を名乗る男がやって来たのだ! そして会社を辞めるように説得するように脅してきたのだ。
のちに行われた裁判の判決文にはこう記されている。
『原告(串岡)が暴力団員から退職を強要された事実は証拠上明らかである』
『何らかの被告(会社側)の関与があった事実を認めることができる』

脅迫を受けた串岡は、直ちに知り合いの警察官に相談した。 だが、脅迫罪で告発や告訴ををしたいが証拠の点で問題があるので難しいだろうと言われてしまった。 幸い、その後、男が自宅に来ることはなかったが、会社の圧力は依然として続いた。

今度は、串岡を説得するため会社幹部がわざわざ自宅にやって来た。 この時 初めて、妻は夫が置かれている深刻な事態に気づいたという。
説得は、妻や同居する義両親も眠らせないまま、翌朝の4時まで続いた。

そんなある日、検事から全く予想していなかった事実を告げられる。 告発を受けた大手3社の不起訴処分が決まったというのだ!
決して、内容的な問題で起訴に値しないと判断されたわけではないという。 不起訴になった理由、それは…ロッキード事件
アメリカの大手航空機製造メーカー、ロッキード社が日本の売り込みに際し、政界に多額の賄賂を渡したとされる戦後最大の疑獄事件である。 検察は前総理大臣・田中角栄を受託収賄罪の容疑で逮捕。 その未曾有の事件に全力を尽くすため、他の捜査に手が回らなくなったことが原因だった。

もはやなす術はなかった。 串岡は何のために闘っているのかすらわからなくなっていた。 隔離された部屋で一人、窓から景色を見て過ごすしかない日々。
家族への執拗な説得も相変わらず続けられていた。 ある日、市役所に勤める兄は運輸会社の幹部にこう言われたという。
「説得できないなら代議士から市長に申し入れて、あなたを市役所から追い出すことになりかねませんよ」
自分だけの問題ならまだしも、親族にも迷惑をかけ続けている…もう限界だった。
だが兄は「お前を説得するつもりはないと断った」という。

続けて兄はこう言ってくれた。
「お前は間違ってなんかいない。自分の信念を貫き闘っている。俺はそんな弟を心から誇りに思う。だから脅しになんか屈するな」
兄の言葉で串岡は決意を新たにした。 相変わらず与えられる仕事は雑用ばかり。 それでも耐え続けた。

長男が生まれて2年後に長女が誕生、二人の子宝に恵まれた。 だが、同期で出世するものや給料が上がるものもいる中、入社四年目で内部告発をして依頼、給与はほぼ変わらなかった。 子供が成長するにつれ、家計の問題は一家に重くのしかかった。
妻・順子「義理のお母さんも息子と一緒にいても将来性はないからと言われたんですけど、後からよく考えてみたら(主人は)悪いことしてないし、これからもやっぱり一緒に生きたいなと」

妻が不満を漏らすことはなかった。 それどころか感謝の言葉を夫にかけた。
とはいえ、育ち盛りの子供を持つ身、家計のやりくりは大変だった。 光熱費や食費、夫へのお小遣いなど必要な文を小分けにして詰めておく。 どうしても足りなくなったら、食費を削らざるをえず、そんな時は夫の親戚を頼った。

そんな生活の中、妻がふと「別れる」という言葉を漏らしたことを覚えているという。
串岡「女房はポロっと言ったんじゃないかと思うんです。言った途端に言っちゃいけなかったと思ったんだなという風に僕は解釈した」

慎ましい家族の生活を続けた。 そして15年以上の月日が流れた。
今から24年前、長男に続き長女が大学を卒業。 これで子供達への責任は果たしたと考え、55歳になった串岡はある決意を固める。

数日前に串岡は会社に損害賠償を訴える通告書を送った。
結婚からおよそ30年、文句ひとつ言わず支えてくれた妻。 曲がりなりにも懸命に生きて来た。 しかし、地元の有力企業である会社を提訴すれば、何が起こるかわからない。 これまで彼女が懸命に守ってくれたささやかな生活が失われる可能性もあった。 それでも妻は「今までよく堪えたわね」と言ってくれた。

そして提訴する前日の夜、串岡は自らの決意を子供達に話した。
金銭的な苦労を始め、会社から強いられた理不尽な境遇について、夫婦はこの時まで、子供たちには決して悟られないように生きてきた。 そのため、二人にとっては初めて聞く話ばかりだった。 長男は地元の企業に就職。もし父親が地元では有名な大手企業を訴えたことが知れたら、勤め先で嫌がらせを受ける可能性も考えられた。 それでも、長男も長女も串岡のすることに賛成してくれた。

内部告発から28年、串岡は会社を相手に民事訴訟を起こした。 提訴はこれまでの給料格差と社内での不当な扱いに対する慰謝料などの損害賠償を求めるものだった。
串岡の提訴が報道されると、思わぬことが起こった。 全国から励ましの手紙や電話が殺到!
そして、その年末には『内部告発』が流行語大賞にノミネートされた。 授賞式には串岡さん本人が出席。

一方、裁判では、刑事事件での不起訴を盾に取り、一度はその存在を認めたにも関わらず、闇カルテルは明確に存在が認められたものではないと主張。
また串岡に対する離職勧告や理不尽な扱いについて、事実無根と真っ向から反論した。

そして、提訴から3年後の2005年、心配していた息子への嫌がらせなどもなく、ついに判決の日を迎えた。 判決は…串岡さんの勝訴!
会社側に1356万円の支払いを命じる判決が出されただけでなく、昇格させなかったことや、退職の強要などの事実があったことなど原告の主張をほぼ認めた完全な勝訴だった。
串岡「勝訴の判決はとても良かったと思いました。そのときの私の思いは、判決は日本国家が残っていく限り残り続けると、そういうふうな表現をしました」

その翌年、串岡さんは60歳を迎え、会社を定年退職した。
36年のサラリーマン人生をまっとうしたご主人について妻・順子さんは…
「主人は本当に人のことを悪く言ったり、そういうことは一回も聞いたことない。だから本当に今も感謝しているですけど、私にしたら本当に素晴らしい主人です。」

串岡さんの一件や、牛肉偽装事件などがきっかけとなり、今から21年前、勤務先の不正など内部告発をした人を守るために、通報者の解雇や言及などを禁じた『公益通報者保護法』が成立。
さらに、3年前には従業員300人超えの企業に対し、内部通報を受け付ける窓口の設置を義務付けるなどの改正法が施行された。 しかし串岡さんによると、今も告発者が特定され不当な扱いを受けたり、告発した情報が握り潰されたりするケースが後を断たないのだという。
串岡さんは現代の法律が抱える問題点のひとつに雇い主が通報者を解雇や懲戒処分にしても刑事罰が課されないことがあるという。 これでは通報者を保護できないと、昨年末、有識者は『刑事罰を導入すべき』との報告書をまとめた。 改正案は今開かれている通常国会に提出される見込みだという。
串岡さんが内部告発を行なってから今年で51年、78歳になった今も内部告発を行なった人々への支援を行なっている。
串岡「不正や違法については声をあげる。ダメなものはダメなんだと声を上げ続けなきゃならない。勇気を持って上げなきゃならないというような精神というものを多くの人が持ち続けられるようになれば良いなと思ってます」

内部告発からおよそ30年後に会社の提訴を決意。 子供達に自らの意思を伝えた串岡さん。
当時の心境を息子・正人さんは…
「ただただもう驚いて、こういうことを父親が受けていたのかというふうに思って、すごい人生を歩んできたなというような形で、両親と祖父母は知っていて僕と妹だけ知らなかったので、よくここまで、逆に知らないで隠し通せたと言ったらおかしいんですけど。もし知っていたら自分自身も大学に行く選択をしなかったと思いますし、本当に驚いたのが正直な気持ちです」

自らも仕事を失う覚悟で串岡さんを守ってくれた兄・一夫さん。
兄弟の中で一番親身になって支えてくれた一夫さんは…今から5年前、86歳で亡くなったという。

勝訴の判決から今年でちょうど20年。 子供達も独立した現在、串岡さんは妻・順子さんと二人、穏やかな生活を送っている。 天気が良い日はときおり夫婦で散歩に出かけることが何よりの楽しみだという。
そんなご夫婦にこんなことを聞いてみた。
「生まれ変わってももう一度一緒になりたい?」
順子「そうですね。これ以上良い人はいないと思います」
串岡「今度はもう少し出世するエリートの人間と結婚したら良いよと思いますけど」
順子「人間性ですよ。ありがとうですね」