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彼なしでは日本人選手たちの活躍はなかった!?

大谷選手が昨年9月に50号ホームランを打ち、史上初の50本塁打50盗塁を成し遂げた時のホームランボール、それキャッチした人は、球団からの買取の申し出を拒否。 その後、オークションに出品、記念ボールとして過去最高額となる約6億6000万円で落札され、大金を手にした。 賛否はあるものの、その人にとって思わぬ夢を掴んだことには違いがない。
その後、大谷選手が所属するロサンゼルス・ドジャースは、日本人投手の山本由伸選手の活躍もあり、4年ぶりにワールドシリーズを制覇! チームはもちろん、ファンにとっても夢を叶えたシーズンとなった。
そして3月にはそのドジャース軍団が来日し、東京ドームで開幕戦が行われる。 日本のファンにとって、まさに夢のような試合になることだろう。

一昨年12月、そのドジャースに、大谷選手の入団が決まった際、記者会見が行われた。 その冒頭、球団の担当者がある日本人の名前を挙げたのをご存知だろうか?
担当者「ドジャースは日本と長くそして豊かな歴史がある。ウォルター・オマリーとアキヒロ・アイク・イクハラから始まり、最終的にヒデオ・ノモ、ヒロキ・クロダ、ケンタ・マエダ、数え切れないほどの選手の入団が入団してきた」
球団担当者が語ったアキヒロ・アイク・イクハラ、実は彼はメジャーリーガーでもなければ、日本でのプロ経験すらない人物。 一体なぜ、そんな彼の名前が入団会見で上がったのか? 実は、彼がいなければ、大谷選手をはじめ多くの日本人選手がドジャースで活躍するという我々が見た夢は、実現していなかったかもしれないのだ。

夢の始まりは、太平洋戦争開戦の4年前。 その男、生原は福岡県で生を受けた。
戦争の影響で全てが失われた少年時代、彼が夢中になったのは野球だった。 そんなある日、所属していた部活の顧問が出張で東京に行った際、彼のためにキャッチャーミットを買ってきてくれた。 テント生地で球が当たる所だけ革を縫いつけた安物だったが、地方ではとても手に入らない代物だった。 それが、野球選手になるという夢を抱いた瞬間だったという。

猛練習によって生原は、地元の高校で持ち前の強肩を生かしキャッチャーとして活躍! さらに2年生から4番を任されチームの主力だった。 卒業後は多くのプロ選手を輩出している早稲田大学の野球部に入った。

だが、2年生の時、練習中に武器だった肩を痛め、レギュラー争いから脱落。 選手としての未来は潰え、生原は夢を見失った…かに思えたのだが、彼には新たな夢が生まれていた。 選手としてプレーはできなくても、指導者としてならば大好きな野球に貢献できる、そう感じた生原は大学を卒業してから2年後、亜細亜大学の監督に就任。

亜細亜大学は、今でこそ毎年のようにプロ野球選手を輩出する強豪校だが、当時はまだ創部4年目。 中には野球初心者もいるなど、同好会レベルと言われていたという。 だが生原は、自身の野球論に基づき学生たちをスパルタ式に鍛え上げた。
すると…亜細亜大学野球部はわずか1年で、東京都の大学リーグの3部から2部に昇格させた。 さらにその後2年で、1部に昇格。 一人の監督がわずか4年で3部から1部にあげたのは、史上初の快挙だった。

そんな生原を支えていたのは、監督になって間もない頃に結婚した、妻・喜美子さんだった。 なんと今回、喜美子さんは、我々に当時の様子を語ってくれた。
喜美子「朝から晩まで野球漬けの男でした。野球が何よりも好きで、とにかく野球クレージーとしか覚えていないです。すごいですよね」

野球部は一部に上がり、甲子園を経験した優秀な選手たちが続々と集まってくるようになった。 ところが、そんな中、生原は学校側から突如 監督交代を告げられたのだ。
実は大学側は一部への昇格を目指している頃から、スパルタ式一辺倒の生原の指導法では限界があると、全国制覇を果たした実績ある指導者に声を掛けていたのだ。 突然の通達に生原は意気消沈、夢はまたも潰えた。

かと思いきや、生原はこれまで全く面識がない、ある大物を訪ねた。 だが…「主人は会わないと申しております。お引き取り願えませんでしょうか」
空振り! それでも生原はその後も諦めずに訪問。 しかし…空振り…空振り。

4回目…生原は妻の喜美子を連れて行った。 喜美子と一緒なら門前払いされないと考えたのだ!
作戦は見事成功! ついに家にあげてもらうことができたのだ。 和服を着て玄関に佇む女性を気の毒に思ったのか、大物の妻が取り次いでくれたのである。

生原が何度も訪ね、どうしても会いたかった人物。 それは…日本野球連盟の副会長を務めたこともあり、日本野球界の重鎮だった鈴木惣太郎。 そんな人物に対し生原は、無謀とも思える自身のある夢を語ったのだ。

そして、生原が向かった場所が…のちに大谷選手をはじめ、数々の日本人メジャーリーガーが活躍することになる、ロサンゼルス・ドジャースだった!
そして生原を迎えたこの男こそ、当時、ドジャースのオーナー権会長だったウォルター・オマリーである。
実は、生原が頼み込んだ鈴木は、当時、唯一メジャーとのパイプを持っていた。 元祖二刀流・ベーブルースを擁するスター軍団を来日させ、日本のプロ野球チームと対戦させた人物だった!

自分にはスパルタ以外の理論がなく、確かに指導者としては未熟であると感じた生原。 そこで、アメリカで最先端の野球理論を学び、帰国後、日本で指導者として活躍したいと鈴木に夢を語った。 そんな生原の野球に対する情熱に胸を打たれた鈴木は、ウォルター宛てに紹介状を書いて送ってくれたのだ。

ウォルターも鈴木の頼みならばと留学を快諾。 のちにこの出会いが多くの人々の夢を叶えることになる。
生原「マイネームイズ アイク・イクハラ」
この「アイク」というのは、生原という名前がアメリカでは発音しにくいことから、この数年前にアメリカの大統領を務め人気があったアイゼンハワーの愛称であるアイクからとったもの。 鈴木が付けてくれたニックネームだった。

留学の予定は2年間。 この間ドジャース側からの給料は発生しないため自腹。 かかる費用は約200万円!現在の金額に換算すると約13000万円だ。
そのため2年間、生原は家族を残し一人でアメリカに行くことに。 留学費用は両家の両親が必死に工面してくれたという。

さっそく選手たちの練習を見学する生原だったが、この時 見学したのはドジャースではなく、明日のメジャーリーガーを目指すマイナーリーグ、いわゆる傘下のチームの選手たちだった!
それでも生原が印象的だったのは…ほぼアウトになると思われても、打ったバッターは全力で走る。 今でこそどんなプレーでも全力で走るというのは日本でも当たり前になっているが、当時の日本ではそういったプレーは少なかったのだという。

生原は、マイナーチームのゼネラル・マネージャー、ピーターを紹介された。 のちにドジャースのオーナー職を継ぐ、会長の一人息子・ピーターは当時傘下のチームの責任者。 いわば “子会社の社長” という存在だった。
生原の英語力は学校で習った程度。 初対面の二人の共通項は、まだ年齢だけだった。

生原は、クラブハウスでの勤務を命じられた。 最初に与えられた仕事は、選手のスパイク磨き。 さらに選手のユニフォームの洗濯。 大学野球の監督から一転して、雑用係。
選手の中には…「お前がスパイクを磨くと打てなくなるんだよ!俺のスパイクに触るな」と言い出す者までいた。 当時のアメリカには、日本人などの有色人種に対する偏見がまだ色濃く残っていた。

そんな中、ある事件が起きる。 生原は英語の聞き違えから、試合で使用する帽子を間違った球場に送ってしまったのだ。 この他にも、言葉や文化の違いによるミスを何度も重ねてしまい、そのことはピーターの耳にも入った。
ある日、生原は会長親子に呼ばれた。 クビを覚悟した生原だったが…会長親子は妻・喜美子さんと子供をこちらに呼ぶように言ったのだ。

家族とともに暮らすことにより、気持ちに余裕が生まれた生原。 なんとかしてチームの役に立ちたいと、以前にもましてクラブハウスの掃除などに力を入れた。
さらに日々の雑用をこなすかたわら、毎朝4時に起き、誰もいないオフィスへと向かうと、苦手な英語を克服するため野球の記事を貪るように読んだ! 生きた英語を学びつつ、メジャーリーグの情報もくまなくインプット。 決して夢を諦めることはなかった!

さらに熱戦を繰り広げた日などには、選手のために冷たいビールを用意するなど、自分なりに工夫して選手と積極的にコミュニケーションをとった。 すると…徐々に周囲が生原を認めはじめていった。
そんな生原の忙しい日々も…留学期間は終わりが近づいていた。 だが、まだマイナーリーグでの仕事しかしておらず、もっと学びたいことがたくさんあった。

そんな中、マイナーチームのゼネラルマネージャーをしていたピーターがドジャースの副社長に昇格。 すると、生原は留学生ではなく正社員として迎え入れられた。 生原のひたむきな努力を、オーナー親子は見ていたのだ。
こうして留学生から正社員となった生原はオーナーの後継者・ピーターとともに名門ドジャースの本拠地、ドジャー・スタジアムで働くことになったのだ。

今回、我々は妻の喜美子さん以外にも当時を知る人物に話を聞くことができた。
その人物とは、ピーター・オマリー本人! 近年は高齢のためメディアに出ることはないというのだが、今回、長年苦楽を共にした盟友のことならと、特別に取材に応じてくれたのだ!
ピーター「アイクはとても情熱に溢れていました。仕事で手を抜くことは絶対にありませんでした。本当に朝早くから夜遅くまで、その日できることはその日のうちに終わらせるのが彼の仕事のやり方でした」

ドジャースの試合の際は、自ら名乗り出て、ストライク、ボールなどのランプを操作する係を担当。 そしてその際には、必ずラジオで実況、解説やデータもチェック。

この頃、日本では巨人が2年連続で日本一、メンバーには長嶋茂雄や王貞治が名を連ねるまさに最強軍団! そんな最強軍団が、3連覇に向けて本場の野球を学ぼうと、初めてロサンゼルスでキャンプを行うことになったのだが、実はその時、選手はもちろん同行の記者団も含めて、面倒を一人で見ていたのが生原だった!
そんな生原のおかげもあり、その後 巨人は9年連続で日本一に。 いわゆるV9という夢を実現させることになる!

他にも、生原は日本の選手にとって夢を繋ぐ重要な役目を担ったことが…それは一昨年大谷も受けた、右肘の靱帯再建手術。 今でこそ、利き腕の靱帯断裂は職業病と言われているが…かつては引退を余儀なくされるものだった。 しかし、今から51年前ジョーブ博士が、手首の腱を肘に移植し再建する手術を世界で初めて成功させたことで、靭帯断裂を起こしても選手生命を伸ばすことができるようになった。
その手術を日本のピッチャーとして初めて受けたのが、当時 マサカリ投法で活躍していた村田兆治。 実はジョーブ博士がチームドクターとして所属していたのが他ならぬドジャースで、そんなジョーブ博士となんとか現役を続けたいと願っていた村田兆治を繋いだのがアイク生原なのだ。 こうしてアメリカのドジャースで働きながら、日本野球にも大きく貢献するという夢をいつのまにか叶えていたアイク生原。

メジャーリーグで学ぶことは尽きることがなかった。 当初2年間の予定だったアメリカでの生活は17年になっていた。 そんな、ある日、生原に大きな転機が訪れた。
現在の「横浜DeNAベイスターズ」の前身「横浜大洋ホエールズ」から球団幹部にならないかというオファーが来た。 長年、成績と人気が伸び悩んでいた「ホエールズ」は、チームの体質を改善するため、アメリカで成功している球団、ドジャースの社員で経験豊かな生原を幹部として招き入れようとしたのだ。

生原にとって、日本の球団で、選手の育成にまで関与できる幹部になる話は魅力的であり、当初の夢だった日本での指導者への道も開ける。 まさに、単身アメリカに留学してまで叶えたかった夢に近づく願ってもいないオファーだったのだ。
ピーターは、生原に傍に居て欲しかったにもかかわらず、日本に帰る場合のことまで分析・熟考し、そのメリットまで話した。 そして、その決定は生原に一任された。

生原は日本の球団からの誘いを断り、ドジャースに残ることを選択した! 生原は、ドジャースに恩返しをしたいと考えたのだ。
ドジャースに残ってくれた生原を「オーナー補佐」に昇格させたピーターは、国際担当も兼務させ、ある重要な任務を言い渡した。 それは野球をオリンピック競技にすること。
国際オリンピック委員会も、野球を加えることに前向きで、ピーターは正式競技として採用されるよう尽力していた。 そして、生原を各国との交渉役に抜擢したのだ。 2人は様々な関係者に接触しアピールを続けた。
その結果、野球はロサンゼルスオリンピックで正式競技にはならなかったものの、公開競技という試験的な形で実施されることになった。 満員のドジャースタジアムで行われた決勝では、日本が強豪アメリカを下し、見事金メダルを獲得した。

オリンピック後もピーターと共に、野球界に尽くした生原。 その後も生原は日本で指導者になることはなかったが、違う形で夢を実現していた。 例えば、彼のおかげで日本野球界で大活躍を果たした一人の選手がいる。 そのことを本人に語ってもらった。
「本当にアイクさんに会わなかったら私の野球人生はない」
彼は当時、プロ4年目、体は大きいが球が速いわけでもなく伸び悩んでいた。 そこで当時の監督の指示で生原のいるアメリカへ武者修行に行くことになった。
(アメリカに)留学しなさいと言われた時は非常にショックでしたね。日本に帰ってそのまま戦力外通告って可能性もあったので」

そんな彼に生原は、ある変化球の特訓を行った。 特訓のためにキャッチャーをかって出て、自ら何度も球を受けてくれたのだという。
のちの大投手が生原と特訓した変化球こそ、生原がアメリカに渡り、感銘を受けた変化球、それは…スクリューボール!
左投げの投手が投げる利き手方向に沈む変化球である。 そして、この球種を決め球に日本球界の大スターになった投手こそ、最多勝3回、沢村賞も受賞した元中日ドラゴンズのエース、山本昌。 日本プロ野球界で唯一50歳まで現役を続け、最終的に219勝を重ねた。
山本(私は)アイクさんが作った200勝投手なので、本当にこの方に会わなかったら私の野球人生はないですし、アイクさんにあれだけ可愛がっていただけたからこそプロ野球の世界でやっていけた」

さらに生原は、他にもある日本人選手の夢の実現に影響を与えていた。 それこそ今から30年前、ドジャース初の日本人選手となる野茂英雄!
ピーター「ドジャースが野茂を獲得したのにアイクは大きく貢献してくれました。彼のおかげだと思います」
実は生原はまだアマチュア選手だった頃から野茂投手と面識があり、ピーターさんにもいい日本人選手がいると教えていたのだという。

しかし残念ながら、生原がドジャースで日本人選手が活躍する姿を目の当たりにすることはなかった。 病が彼を蝕んだのである。 野茂投手がドジャースで大活躍する3年前、生原は胃がんを患った。
彼の入院中、ピーターは忙しい仕事の合間を縫ってほぼ毎日、見舞いに訪れた。 生原が入院したこの時期にちょうどバルセロナオリンピックが開催されていた。 この大会から、野球が正式競技になっていた。
それから数ヶ月後…今から33年前の10月26日、アイクこと生原昭宏は永遠の眠りについた、享年55。

ドジャース初の日本人選手野茂投手の活躍もあり、その後、黒田投手や前田投手など数々の日本人選手が夢をつないだ。 そして世界中を沸かせた大谷選手もそのユニフォームに袖を通すことに。 これらドジャースでの日本人選手たちの活躍もアイク生原という一人の日本人が海を渡っていなければ、なかったのかもしれない。 多くの人々の夢を叶え、多くの人に夢を見させたアイク生原。 しかし一方で、彼自身もまた海を渡り、かけがえのない友人をえるという人生最大とも言える夢を叶えていた。
そして、生原は現在、ロサンゼルス郊外にある霊園で眠っている。 その場所は、ピーターさんの父ウォルター・オマリーの隣である。

日本野球界に貢献し多くの人々の夢を叶えたアイク生原。 亡くなって10年後の2002年、彼は日本のプロ野球の発展に大きく貢献した人物として野球殿堂入りを果たした。 孫にあたるサラさんにアイク生原さんの話を聞いてみると…
サラ (生まれる前に亡くなっていたので)おじいちゃんとは一回も会っていないけど、強い気持ちを持っていると思った。なぜかおじいちゃんみたいになりたいと思った」
そう感じたサラさんは、サーファーとして3年後のロサンゼルスオリンピックを目指す一方で、アメリカ人選手が日本での大会に参加する際、手助けをするなど、サーフィン界において祖父のアイク生原さんと同じく日米の架け橋になれるように日々奮闘しているという。
サラ 「もっと日本とアメリカの架け橋になりたいという夢は強くなった」

最後に取材を受けてくれた妻の喜美子さんと娘のスーザンさんが間近で見て感じたことを語ってくれた。
スーザン「夢があって一生懸命頑張って、その方向に向かえば誰でも何でもできる」
喜美子「ピーターさんのアシスタントになれたのも、努力した結果ではあっても、(野球が)好きだからできたんだと思います。あれだけ野球好きの人っているんですかね?怖がってしない人は多いと思いますけど、やりたいことはやるべきだと思いますよ」