オンエア
4年前、111歳で大往生をとげた高木波恵さん。
彼女は100歳を超えた後、長い人生において、幸せを象徴する出来事に遭遇した。
「高木波恵さんの身に起こった奇跡的な出来事を通して、効率ばかり重視する現代において見失いがちな本当に大切なものの存在に気づく事が出来ました」
およそ90年前、海外で教師をしていた波恵は、今から9年前、娘に代筆を頼み、かつての生徒に手紙を書いた。
手紙は無事、海を越え運ばれたのだが、郵便局で『宛先不明』として仕分けられてしまった。
ところが、波恵が出した手紙は、海を越えた先で大騒動を引き起こしていた!
いったい何が起こっているのか?
その裏には、時と海を越えた師弟の絆、それを助けたヒーローたちの存在があった!
今からおよそ90年前。
波恵は、台湾の学校で教師をしていた。
当時の台湾は日清戦争をきっかけに日本が統治を始め、約40年が経過。
学校では日本語が教えられ、話されていた。
波恵は父の仕事の関係で幼い頃から台湾へと渡り、20歳のとき教師になり、結婚して娘が産まれた後も続けていた。
博愛精神が強い警察官だった父の影響を色濃く受けた波恵は…うっかりおもらしをしてしまった子の下着を密かに洗ってあげたり、貧しさのあまり、皮膚病になった生徒たちに対して、自分の生活に余裕がない中、薬を買って塗ってあげたりした。
また、寒くなっても貧しさから長袖を買うことの出来ない生徒がいると、長袖の服を買ってプレゼントすることもあった。
学校でいじめが起こっていることに気づくと、いじめた子に対しても、理由を聞き、優しく諭しながら、いじめをやめさせた。
生徒たちは、自分たちに全身全霊を傾けてくれる波恵をまるで母親のように慕った。
波恵もまた生徒たちを我が子のように可愛がった。
だが、そんな強い絆を時代が引き裂いた。
太平洋戦争勃発。
そして終戦直後、台湾にいた日本人は行政や教育機関から排除され、中華民国政府によって管理されることに。
殆どの財産は没収されて、一時的に収容所へ送られるなどした。
波恵は、生徒たちと別れの挨拶を交わす間も無く日本への帰国を余儀なくされたのである。
その後、息子も生まれ、子育てをしながら農業を行う過酷な生活を送った。
多忙な日々に体は弱り病気がちに。
だが、休むこともままならず、毎日必死に働き、過去の事を思い返す余裕などなかった。
そして時は流れ、今から9年前、戦前の台湾を描いた映画が公開されることに。
その映画とは、1931年の日本統治時代、台湾の高校球児たちが海を越え、甲子園の決勝戦まで勝ち進んだという実話を元にした『KANO』。
映画の公開のおよそ80年前、波恵が教師をしていた頃の台湾を描いた作品だった。
波恵の脳裏に、過去の記憶が鮮明によみがえった。 生徒たちは今頃どうしているのだろうと、気になった。 だが、当時の彼女は、すでに100歳を超え、目も見えにくくなっており、台湾へ会いに行く事など到底出来ない。 そこで、娘に代筆を頼み、楊漢宗(ようかんそう)という生徒宛に手紙を書いた。 当時級長をしていた彼なら、他の生徒たちの状況もよく知っているのではないかと思ったのだ。
だが、波恵が教師をしていたのはおよそ80年も前のこと。 住所も昔のものしか分からず、生徒たちも皆90歳近い年齢で、健在かどうかもわからない。 『無駄かもしれない』と思いつつも、きっと届くようにと祈りながら、台湾に向けて投函した。
そして台湾の郵便局まで運ばれたのだが…書かれた住所が古く、すでに使われていなかったため『宛先不明』として仕分けられてしまった。
郵便局の規則により、日本に送り返される事になったはずだった。
だが、郵便局員の郭は、この手紙が大事な手紙のように感じ、日本に送り返すのを躊躇っていた時、管理部門の陳に今の住所を調べて届けてみるかと提案された。
まずは役所の戸籍係に、宛先である楊漢宗という人物の現住所を問い合わせたのだが…個人情報保護の制約により断られてしまった。
次に、インターネットで手掛かりを探したのだが、有益な情報は何も得られなかった。
そして陳は、他の配達員にも協力を仰ぎ、聞き込みを行った。
だが、有力な手がかりは、何一つ得られなかった。
そんな時…郵便局長に宛先不明の手紙を届けようとしていることがバレてしまい、無駄なことは今すぐやめるようにと言われてしまった。
しかし、電子メールの発達により、手紙を送る機会が減っている今の時代、海外から筆を使って丁寧に書かれた手紙、それは大切な人に向けて書かれた特別な手紙だと感じ、陳は、通常の業務に支障はきたさないように、空いた時間に同意してくれた人のみで作業をするという条件で続けさせてくれるように頼んだのだ。
陳さん「私が子供の頃、郵便局員は家族や恋人など大切な人からの手紙を届けてくれる、幸せを運ぶ存在とされていました。そんな姿に憧れ、郵便局員になった身としてこの手紙は絶対に届けなくてはならないと思ったんです」
こうして、陳と想いを同じくする郵便局員たちにより、業務の合間を縫って、手紙の宛先である楊漢宗の住所探しが続けられた。
だが、なかなか手がかりは得られなかった。
そして手紙の届け先を探し始めて、10日目のことだった。
ついに住所が判明!
こうして波恵の手紙は、無事に届けられたのだ。
手紙の内容が気になっていた陳は、受取人の孫娘と知り合いだという局員に連絡をとってもらった。
すると、手紙は大事なものだと思われず、放置されたいたという。
こうして、波恵の手紙は、息子の楊本容と孫娘の手により、ようやく開封される事になった。
そして翻訳し、内容が明らかになると…孫娘は「リアル海角七号じゃない」と思ったという。
『海角七号』とは、戦時中、台湾で教師をしていた日本人男性が当時恋仲にあった現地の女学生に宛てに書いた手紙を、約60年後教師の娘が送ったものの届かず、現代の台湾の郵便局員が『海角七号』という日本統治時代の住所を頼りに送り届けるというストーリーの映画。
2008年に台湾で公開されると、当時『タイタニック』に次いで台湾歴代映画興行ランキングで2位となる記録的大ヒットになった作品である。
今回の出来事は、映画と類似点が非常に多かった。
宛先が旧住所であったため、一度は送り返されそうになった事。
郵便局員が必死な思いで、送り届けた事。
手紙が日本語で、最初は意味が分からなかった事。
そして届いた手紙が大人気映画とそっくりな事に興奮した孫娘が手紙の事をSNSに投稿すると…コメント欄には驚きと賞賛の声が集まり、大きな反響を呼んだ!
そして、手紙の内容を知った郵便局員たちは…
郭さん「私たちが届けた手紙は、先生の教え子への想いがこもったとても大事なものであるとわかり、1通の手紙を届ける事の大切さに改めて気付かされました。これからはどんな小さな仕事でも、一生懸命頑張って取り組もうと思いました」
陳さん「幼いころの私の家はとても貧乏で大変なことばかりでしたが、私を受け持ってくれた学校の先生たちのおかげでなんとか生き抜く事が出来ました。だからこそ100歳を超えた日本人の元教師が80年もの時と海を越えかつての生徒たちを想い、手紙を出したことにとても感動しました。そのため私は…手紙の存在が多くの生徒たちに知れ渡るよう願い、すぐに報道機関に勤める友人に連絡する事にしたんです」
そして、台湾のメディアで取り上げられると、波恵が教え子たちを想って書いた手紙は台湾の人たちの心を大きく揺さぶった。
こうして、波恵のまったく知らないところで、大きな熱狂を生み出し、台湾の市役所や領事館にあたる役所から『素晴らしいお手紙をありがとう』と、突然お礼の電話がかかってくるようになり、波恵たちを驚かせることに。
そして波恵が手紙を投函してから、およそ一か月半。
台湾から返信が届いた。
だが送り主は、教え子の楊漢宗ではなく、その息子・本容だった。
果たして、一体どういうことなのか!?
出てきたのは、息子の本容が中国語で書いた手紙と一枚の写真だった。
「拝啓 高木先生、楊漢宗の長男の本容と申します。お便りちょうだいし大変嬉しいです。あいにく父は半年ほど前から病院の介護センターに入院しております。それでも高木先生のお手紙を目の前に持っていくと、父は特別はっきりした様子で先生のお手紙を見つめ、家に帰ってまた見ると申しておりました」
教え子の楊漢宗は90歳近い高齢だが存命であり、波恵の事を覚えていた。
さらに、封筒の中には、他にも、教え子たちからの手紙や写真が計10枚以上入っていた。
実は…楊本容「波恵先生が80年もの時を超えてなお、父たちの事を気にかけてくれている事を知り心を打たれました。そこで父の代わりに私が力になりたいと思い、先生の教え子たちを探す事にしたんです」
こうして、楊漢宗の息子・本容は、来る日も来る日も昔の住所を頼りに、波恵の教え子たちを探して歩いた。 そしてかつての生徒たちに波恵の手紙のコピーを渡すと、彼らは恩師の手紙に感激し、心を込めて返事の手紙を書いたのだ。
だが、波恵が特別気にかけていた、貧しくいじめにあっていた楊爾宗からの手紙や写真はなかった。
楊爾宗は生きていたら88歳、しかし、彼は体が弱く小さかったため、もう他界しているかもしれないと思った。
実際、多くの生徒が、高齢のため既にこの世を去っていた。
その頃台湾では、本容によって波恵の教え子探しが続けられていた。
そして、楊爾宗と10年前まで交流があったという人を見つけることができた。
住所はわかったものの、今も存命かどうかは分からなかった。
果たして彼と会うことはできるのか?
楊爾宗は生きていた!
波恵の元に届いた実際の手紙が残っている!
なんと手紙は、綺麗な日本語でしたためられていた!
戦後台湾では日本語の使用が禁止され、80年以上経っていたが、波恵たちとの交流に使った日本語をずっと大切にしていた爾宗は毎日、日本語で日記をつけ続けており、覚えていたのだ。
「思いもよらず刹那に先生の消息を得て、びっくりして喜びに耐へません。学校を卒業して80年、高木先生は慈愛に満ちた優しい偉大な先生で、ヒフ病の折、メンソレータム薬をいただいた事、貧しい家庭に生れた私に着物も頂いた事、今でも先生に感謝しております。体格の大きい同級生にいじめられた時、先生は優しく助けてくれましたね。先生にして頂いた事は電影の如く頭上に浮んで今でも先生に感謝しています。恩師の御長寿と御健康を祈っています。楊爾宗」
その後、波恵は、多くの教え子たちと、手紙での交流を続けた。
手紙の多くは、なんと、同じく日本語で書かれていた!
生徒たちにとって波恵との交流に使った日本語は、大切で忘れがたいものだったのだ。
波恵は一人一人の健康と幸せを祈る、思いを込めた手紙を返し、それにまた返信が来た。
こうして、30人を超える80年前の教え子たちとの、心と心の交流は続けられた。
だが、波恵と生徒たちとの絆の物語はこれだけで終わりではなかった。
手紙の交流が始まって5ヶ月後。
なんと、教え子たちが母校の講堂に集まり、波恵とのオンラインでの再会イベントが行われたのだ。
陳さん「波恵先生と生徒たちが手紙で交流を始めた事は知っていましたが、私は彼らをなんとしても再会させてあげたいと思ったんです。そこで彼らが通った小学校や、日本のテレビ会議システムの運営を行う会社などに協力してもらい、オンラインでの再会イベントを開いたのです」
波恵はこのときを振り返り、こんな言葉を残している。
「生徒たちの姿が映し出されたとき、できることなら一人一人抱きしめてあげたい気持ちでした。『さよなら』も言えずに帰国した私、長かった。夢の実現でした」
そして今から4年前の2020年2月、高木波恵さんは111歳で天寿をまっとうした。
その1年後、楊爾宗さんも恩師の後を追うように天国へと旅立った。
だが…波恵さんの精神は、娘さんや息子さん、その子供たちにも伝わり、着実に後世へと引き継がれている。
陳さん「現代は人間関係が希薄で効率ばかり重視する傾向がありますが、それでは大切なものが手からこぼれ落ちていってしまうと思います。ですが 人と人との確かな絆を持ち、苦しい時助け合っていく事が出来れば、誰もが幸せな世界を作ることが出来るのではないかと思いました」