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誰もが知る大人気のあのスイーツ誕生秘話

裸一貫から築いた、年商4億円のチェーン店。 その男は幸福の絶頂にいたはずだった。
「俺のせいだ。みんな俺のせいで。」
その時、鳴った一本の電話。 そこから大逆転は始まり、今では誰もが知る、大人気のあのスイーツが生まれることになった。

今から60年前、広島で小さな和洋菓子店を営む家に長男として生まれた孝雅。 創業者の祖父も、二代目の父も昔ながらの菓子職人。 二人が何よりも大切にしていたのが、店で働く従業員とお客さんたちの笑顔だった。
祖父は孝雅にこう言って聞かせた。
「孝雅、お菓子作りは素晴らしい仕事なんだぞ。甘いもん食べるとみんな笑顔になるし、心が温まるんだ」

後に誰もがその名を知る様になるこの店は、今から91年前、孝雅の祖父によって当初は和菓子店として広島で創業。 その4年前に起きた「世界恐慌」の余波で、苦しい生活を送る人が多くいる中、人々を甘いお菓子で明るく元気にしたいという思いがあったという。
だが、祖父が亡くなった後、新たな和洋菓子店が次々と登場。 古くからある店はどんどん淘汰されていった。

そこで大学3年生になった孝雅は、店にパン部門を作って、2号店として開くことを提案。
父は、「やってみろ、パンの修行をするなら神戸に良い所があるから紹介してやる。」と言ってくれた。
孝雅は大学を中退し、パンの本場・神戸にある名店で4年半の厳しい修行を終えた。

パン屋の開店資金に1500万円かかる。 しかし、実家の和洋菓子店には、大金を出す余裕などなかった。
そこで、銀行に融資してもらうために、孝雅は税理士にイチから教えてもらい、事業計画書を作成。 銀行から1500万円の融資を受けることができた。

そして…そして26歳の時、念願の店をオープン。
孝雅「一度きりの人生 やっぱ 目指すならテッペンでしょ。日本一のパン屋に 俺はなる!」
海賊王ならぬパン王へ! その航海の先に待ち受ける荒波とは!?

店の売りは、早朝から販売する焼き立てのパン。 当時周辺に大手コンビニや焼きたてパンの店などほとんどなかった。 すると…あっという間に一大繁盛店に。

オープンから2年後には、チェーン展開を開始。
孝雅の元に仲間がどんどん集まってきた。 共に夢を追いかけ、頑張ってくれる仲間たちの存在。 彼らが孝雅のモチベーションになった。

やがて、経営が芳しくなかった父の和洋菓子店もパンの店へと変え、孝雅は父から経営を引き継ぎ、社長に就任。 毎年1店舗のペースで新たに出店して行き、売上は年間4億円を記録。 孝雅は高級車を購入し、乗り回すようになった。

そんな時、父からこんなことを言われた。
「お前 最近、店増やしすぎじゃないのか? ちゃんと人を選んで店長にしてるのか? 人が育っていないのに店を増やしたら、人も店も潰すことになるぞ」
だが孝雅は、父からの忠告を無視した。 父は、根っからの職人、ほそぼそと和菓子や洋菓子を作っていた。 孝雅は、一軒しかない小さな店を営んでいた父をどこか見下していた。 いつしか、父とろくに言葉さえ交わさないようになっていった。

その後「たかちゃんのパン屋」は、10店舗以上を誇るチェーンに成長。 そして、パンの本場、神戸三宮への店舗進出が叶う事になった。
だが、その翌日。 前日まで、夢を語り合っていた仲間が突如、広島県内のライバル店に転職してしまったのだ! さらに…二人の店長も退職を申し出た。

チェーン展開を始めた頃は、高額な給料、90%以上の有休消化率など、日本一の職場環境を自負していた孝雅。 だがその頃、オープン当初にはなかった大手コンビニが近くに進出し、早朝営業のアドバンテージが消失。 さらに、周りに焼きたてパンの店がいくつも誕生したことで業績が悪化。 赤字の店舗が徐々に出始め、現場の負担や労働時間が増加、ブラック化していたのだ。
それでも新店舗を出せば、しばらくの間 売り上げが上がったため、新規出店は欠かせない状態になっていた。 孝雅は殆ど休みなく働いてきたが、ついていけないと社員たちは去っていったのだ。

赤字を出し続ける店舗は閉めざるを得ない。 残りの店舗で少しでも売り上げをのばさなければならないが、毎週のようにスタッフが辞め、職人が足りなくなった。 店を守るため、孝雅は広島県中の店舗を一人で回り、パンを焼いていった。 家に帰って休む暇もなく、車中で仮眠を取っては、各店を巡回する毎日。

そんな時…過酷な労働環境の中でも、頑張ってくれていた社員と連絡が取れなくなった。 将来パンの店を開きたいと言う夢を持ち、頑張り屋で責任感のあった彼女は、店の売上低下をカバーする為、毎日一生懸命働いてくれていた。 そんな社員でさえも、心が折れてしまったのだ。
仲間たちに夢を与えていると思っていた。 だが実際は、みんなの夢と心を壊していた。

そして、自らもガードレールにぶつかる自損事故を起こしてしまった。 それでも、店を開けなければ全てが終わってしまう…そんな強迫観念から病院にも行かず、孝雅はパンを焼き続けた。
だがついに…2億円もの借金ができてしまっていた。

銀行からは、これ以上追加融資はできないと言われ、連れて行かれたのは弁護士事務所だった。 そこで、破産手続きに関する書類を渡された。 このままでは、店はあと半年も保たない状況だった。
日本一のパンの店を作る…父には出来ない事を成し遂げるはずだった。 周りを幸福にするはずだった。 だが、実際には自分の存在がみんなを不幸にしている。

絶望し、死ぬことが頭をよぎった、そんな時、弟・賢治から電話がかかってきた。 弟は栃木県で小さなベーカリーを営んでいた。
弟は、「俺の貯金から2000万円くらいなら貸せるから、それで店の立て直しを図ったらどうかな?」と言ってくれた。
弟は夫婦二人三脚で店を営み、懸命にパンを焼いていた。 1個100円のパンを売り、2000万円を貯める事がどれだけ大変か、同業だけに容易に想像がついた。 それが…弟の全財産であろうことも。

弟から父が自分の心配をしてくれていると聞き、孝雅は父に会いに行った。
すると…父から「何にもしてやれなくて、すまんな」と謝られしまった。
孝雅は、今まで周りの人に支えられていたことに気がついた。

孝雅は弟から当面の運転資金として、申し出の半分である1000万円を借りる事にした。
だが、短期間はしのげても、大きな問題があった。 銀行がこのまま破産手続きなどを進めることになったら、店は続けられない。 孝雅は銀行に融資を続けてくれるように必死に頭を下げた。

すると…担当銀行員は、パンを初めて食べた時に孝雅のパンのファンになったと言ってくれた。 そのため、元々店を潰す気はなかったと。
実は、担当銀行員は孝雅に危機感を抱かせるショック療法として、融資を止めると言っていたのだ。

さらに、ある事実も教えてくれた。
「ですが、最初に1500万を融資した理由は別にあります。計画書は杜撰でしたが、お祖父様とお父様の息子さんなら大丈夫だという判断です。」
そう、最初の融資1500万円は、孝雅のパンの味や事業計画書が評価されたわけではなく、代々この地で祖父と父が築き上げてきた商売 の信用があってこそのものだったのだ。

孝雅の新たな闘いが始まった。 弟から借りたお金や、銀行の融資で延命している間に、店を早急に立て直す必要があった。
そんな時、地元広島の和菓子店の商品が東京に進出し、全国的に大ヒットしていることを知った。 もし東京でヒットすれば知名度は全国区になり、一気に借金の返済が見込める。

東京では多くの商品を置く店よりも、名物の一品を打ち出す店の方が人気がでる傾向がある。 そして、ヒット商品を作るには奇をてらったものではなく、すでにあるもの同士をこれまでとは違った形や方法で結びつけることが必要だと本に書かれていた。
孝雅には、絶対にこだわりたいポイントがあった。
祖父「孝雅 お菓子作りは素晴らしい仕事なんだぞ、甘いもん食べるとみんな笑顔になるし、心が温まるんだ」
食べた人が笑顔になり、心があたたまる甘い味…。

孝雅は、子供の頃、父の作ったシュークリームが大好きだったことを思い出した。 父のシュークリームは、プリンやアイスを食べた時と同じように口の中で溶けていく感覚があった。
そこで、目指したのは究極の口どけをもつクリームパン。 普通のクリームパンは、クリームが糊状になっており、口溶けを感じることはない。 口溶けが売りのクリームパンなど、聞いたこともなかった。

それから、来る日も来る日も、理想の口どけを目指し、研究を続けた。
そして…ついに究極のクリームパンが完成! 孝雅はそのクリームパンに亡き祖父が掲げていた創業当時の屋号をつけることにした。

亡き祖父が掲げた創業当時の屋号、それは…「八天堂」
孝雅は祖父の思いを受け継ぐ意味で、開発したクリームパンに「八天堂」と大きく印字し売り出したのだ。 元々、八天堂は祖父の地元で親しまれたお堂の名前だった。 世界恐慌で生活に苦しむ人を、甘いお菓子で明るく元気にして、少しでも世界の“発展”に寄与したい。 そんな祖父の思いから、語呂合わせでつけられたもの。
孝雅はクリームパンにその思いを込め、店の名前も「たかちゃんのパン屋」から「八天堂」へ変更した。

孝雅が開発した究極の口どけを持つクリームパンには、様々なこだわりがある。
「口どけ」を追求する為、カスタードクリームに生クリームを多く配合。 パンを焼いた後に、クリームを入れる事でクリーム本来のふんわり感を維持。 できたパンを冷蔵庫でしばらく冷やすことで、クリームの水分をパン生地に馴染ませ、一体感としっとり感を高める。 材料にリキュールやバニラエッセンスなどは使わず、シンプルにして、何度でも飽きずに食べられる味に。

そして、広島でのテスト販売を経て、いよいよ東京に進出。 まず、東京都北部の「東十条商店街」で販売すると、発売当初から売れ行きは絶好調。 さらに、埼玉県の大宮駅で売り出すと、坪当たりの売り上げで過去最高の数字をたたき出した。 そして選ばれたブランドしか出展できないといわれる品川駅では…この駅だけで1日1万個という大ヒットを記録。

その後クリームパンは、大阪・名古屋・福岡・そして地元広島などの駅構内でも購入可能に。 今や、全国のコンビニやスーパーでも販売が開始され、シンガポールやカナダ、マレーシアなどへ世界進出も果たした。 2016年には、地元広島に体験型カフェをオープン。 地域の人々や観光客の笑顔があふれている。

幸せをもたらしたのは、お客さんだけではない。
宮川沙織さん「コロナ禍になった時にエキナカの店舗がですね、売り上げがほぼ0になってしまったので、すごく私たちも不安だったんですけれども、社長自らいち早く会社内に社員の100%の雇用を保障するということを宣言していただいて。すごく助かった、安心したっていう思いが残ってます。」

そして昨年、鳥インフルエンザなどの影響でクリームパンに欠かせない卵が入手困難になり、製造が危機に瀕した時。
関徳麻子さん「日頃から代表は色んなことを社員スタッフ全員にしてくださることもあって、やっぱり何か会社が困った時こそ、より力になっていかないとという風に思って。卵を使わないカスタード、牛乳の味が際立つカスタードを開発しました。先代からのお菓子を通して人々を笑顔にしたいっていうその想いを、やはり私達も受け継いでこれからもやっていきたいと思ってます。」

結果、コロナ禍でも一度も売り上げを落とさず、昨年にはどん底だった時の20倍以上となる、年商41億円を記録。
孝雅さんはこう話してくれた。
「よく先達の方々がおっしゃられていますけど、諦めたらおしまいだと。色んなことがこれからあるでしょうけど、(社員たちと)支え合いながら頑張っていければなというふうに思ってます。」