アンビリアカデミー賞 スゴい日本人部門第1位!
「恩送り」に込められた奇跡の連鎖、人生を救われた男の熱き想いとは?
群馬県内で食品会社を経営する南都隆道さん。
その会社の商品は全国の有名スーパーに並び、食通がこぞって買い求めるほど。
だが、彼が父から会社を継いだ当初は、まさに廃業寸前の零細企業だった。
再建へ向けあらゆる手をつくすも八方塞がり。
しかし、そんなとき突如として俄には信じれない救世主が現れたという。
一体どのようにして、隆道さんは救われたのか?
それは、過去から脈々と続く「スゴい」としか言いようのないニッポンの男たちの熱い想いの連鎖が生んだ奇跡だった。
今から32年前、群馬県下仁田町にあった「伊藤納豆店」は、南都隆道の父、伊藤幸夫が始めた納豆店だった。
納豆店といっても店舗はなく、工場で両親が納豆を手作り。
豆は、主婦が買いやすい値段設定にするため、安いものを使用していた。
だがその分、製造方法には様々な工夫を凝らしとことんこだわっていた。
値段は1個70円で、それを毎朝、朝食に合わせて、近所の家庭に売り歩く、引き売りをしていたのだ。
だが時代とともに売り上げは減少。
最盛期に200万円以上あった月商は70万円ほどにまで落ち込んでいた。
そのため父は商売をたたむことを考えていた。
しかし、長男の隆道が続けると言い出したのだ。
こうして、納豆店を継いだ隆道は、店名を心機一転、『下仁田納豆』に変更。
すでに引き売りの時代ではないと思い、群馬県内のスーパーや小売店を回り納豆を置いてもらおうと考えた。
ところが、どこのスーパーも値段が高いことを理由に置いてもらえなかった。
100軒以上営業に回って、置いてもらえたのは、たった2軒のみだった。
その後も奮闘を続けたが状況は変わらないまま。
およそ1年後、埼玉県内のスーパーを訪ねた時のことだった。
1つ300円もする豆腐が置いてあるのを見つけた。
しかも、人気商品だという。
その帰り道…スーパーに置いてあった高級豆腐を製造している『もぎ豆腐店』を尋ねた。
突然の隆道の訪問に応対してくれたのは、茂木稔(47歳)だった。
隆道の話を聞いた茂木に「君は今後、どうしていきたいんだ?」と聞かれ、「もっと値段を安くするしかないかもしれないですね」と答えた。
すると、突然怒り出した茂木に「自分の商売に誇りが持てないなら、とっとと辞めちまえ!」と言われ、追い返されてしまったという!
しかし、実はこのことこそがのちに起こる奇跡の始まりだった!
隆道は一度は追い返されたものの、引き返し…「教えて下さい。なぜ、300円の豆腐が売れるのか」とお願いした。
すると茂木は、「うちの豆腐は、質のいい国産の大豆を使ってる。だから高い。でもな、高くても、旨いから売れるんだ」と言った。
さらに、「うちで使っている北海道産の大豆だ。これを売ってやるから、自分の納得のいく納豆を作ってみろ」と。
その後、売ってもらった大豆で納豆を作ってみると、納豆の味が向上した。
そして試作を重ねたのち、茂木豆腐店に持って行くと…「これをいくらで売れば採算合うんだ?」と聞かれた。
すると、隆道の言い値で全部買ってくれたのだ!
下仁田納豆は、もぎ豆腐店の直売店に並べられることとなったのだが…なんと茂木は、大豆のみならず買い取った納豆にも利益を乗せず、仕入れたそのままの値段を付けたのだ。
それから下仁田納豆は、毎日、もぎ豆腐店に納豆を買い取ってもらえるようになった。
しかし茂木は、なぜ隆道に、ここまでしてやろうと思ったのか?
そこには、彼の過去に隠された、ある出来事が関係していた。
実は『もぎ豆腐店』もかつては一般的な値段のごく普通の豆腐を作る店だった。
ところが、稔が先代の父から店を引き継いで17年ほど経ったある日のこと…なんと最も大口の納入先が突然、取引をやめるとい言い出したのだ!
困り果てた茂木は、付き合いのあった農業を営む人物に相談してみた。
すると、「いいチャンスじゃないか。この機会に自分が作りたい物を作ってみろよ。困った事があれば、いつでも相談に乗ってやるからよ。」と言われた。
こうして茂木は納得いく大豆で、納得のいく豆腐を作る事に専念。
父が作っていた豆腐は『柔らかな木綿豆腐』というのが売りであったが、それを超える滑らかで旨い豆腐を目指した。
そして、納得のいく豆腐が出来上がった。
しかし、良い材料を使っている分、高額になってしまう…すると、相談に乗ってくれていた農家の男性が「良い場所を紹介してやる!」という。
二人が訪れた場所、そこは…百貨店。
実は、農業を営む人物が百貨店に自分の作物を卸していたことから、茂木の豆腐も置いてもらえるように口利きしてくれたのだ。
こうして、茂木の作った『三之助とうふ』は百貨店で販売してもらえることに。
そして、その味は少しずつ、評判となっていった。
そして、突然の取引中止から2年が経つ頃には、『もぎ豆腐店』は多くのファンを獲得、全国的にも有名になっていった。
そんな茂木の元を隆道が訪れたのは、豆腐店が軌道に乗ってから2年後の1993年のことであった。
茂木は最初に下仁田納豆を買い取って以来、利益を上乗せすることはなく、一貫して同じ値段で販売し続けた。
しかし、そんな日々が一年続いた、ある日のこと。
茂木に「うちに納品するのは、今月で終わりだ。」と言われた。
そして、「これからは自分で豆を仕入れて、自分で売ってみろ」と。
そこで、隆道はまず、茂木から許可を得て、それまで『もぎ豆腐店』から購入していた大豆を直接、仕入れる事に。
しかし、問題は売値にして270円の納豆を、どこにどうやって売ったらいいか。
隆道は駄目元で東京の有名百貨店を訪れた。
すると、百貨店のバイヤーは味見もせずに「明日から50個、納品できますか?」と言ったのだ。
さらに、他の百貨店を訪れてみると…そこでも味見もせずに「ぜひ、明日から納品してください」と言われたのだ。
実は、買い取った下仁田納豆は、茂木豆腐店の直営店で全て売られていたわけではなかった。
その多くを茂木がサンプルとして、百貨店をはじめとする店舗に渡したり、送ったりしていたのだ。
隆道は茂木にお礼を言いに訪ねて行ったのだが「つまんねえこと言いにくるんじゃねえ」と言われてしまった。
実は、茂木も『三之助とうふ』を百貨店に置いてもらうようになった後、世話になった人にお礼に行ったのだが…
農家の男性に「俺に礼をする必要はない。いつか、困った若者がやってきたら、そいつにしてやってくれ。」と言われていたのだ。
こうして、多くの百貨店などに置いてもらえるようになった下仁田納豆。
その後、1個300円と高級なものだけでなく、3個1パック300円と比較的手頃なものなど、いくつもの商品を用意。
それらが百貨店に並んだ事で、人々の目に止まることとなり、評判を呼ぶようになった。
そして今では全国190社と取引できるまでに成長。
その後も隆道さんと茂木さんの付き合いは続いたが、今から11年前、茂木さんはガンのためこの世を去った。
隆道さん「仕事は賃金をもらうためにやるんじゃないという事を教わった気がします。仕事は自信と誇りと情熱を持ってやる。それが、重要だって事を教わりましたし、本当に心から美味しいという納豆を作ってみろよと、というようなことでバトンを繋いでいただいたんだと思います。茂木さんからして頂いたことを、次の世代につなげていく事が茂木さんに対する恩返しだと思います。茂木さんもおっしゃるんですけど、恩返しよりも恩送りということが真実だと思います。」
情熱をもってものづくりに携わる人々の思いの連鎖「恩送り」は、未来へと続いていく。
まさに「スゴすぎる人たち」による感謝の連鎖「恩送り」は、これからもずっと続いていく!!