【必見!7色の声を持つ男性】
アンビリアカデミー賞 スゴい日本人部門第5位!
7色の声を持つ超絶プロフェッショナル!
広島でボイストレーナーとして働く三上雅則さん。
しかし彼には、超スゴいもう一つの顔がある。
まずはこちらをお聞きいただこう。
誰もが知るB‘zの大ヒットナンバー「ウルトラソウル」。
だが…実は、歌っているのは三上さん!
まさにアンビリバボーな歌唱力と再現力!
だが、彼のもう一つの仕事は「モノマネ歌手」というわけではない。
三上さんのもう一つの仕事、それはカラオケのガイドボーカル。
ガイドボーカルとは『この曲はこんな雰囲気で歌うんですよ』と教えてくれるお手本機能のこと。
一見、アーティスト本人が歌っているように聞こえるが、楽曲には原盤権というものがあるため、原曲をそのまま使用するとコストがかかる。
そっくりに歌える別の人にお願いしているのだ。
三上さんはこの仕事を18年間も続けている「ガイドボーカル」のプロフェッショナル!
その再現力は先ほどお聴きいただいた通り超一流だが、実は三上さんの本当の「スゴさ」を知るのはここからが本番!
そのアンビリバボーな技について、音楽制作会社の担当、松本さんに聞いてみると…
「ご本人がボイストレーナーをされているという所もあると思うんですけれども、声質を似せるという分析能力・造詣がものすごく深いので。特定のアーティストさんに似せられるガイドボーカリストさんというのは沢山いらっしゃるんですけれども、三上さんは似せられる対象がものすごく多いというのが最大の魅力になっています。プロ中のプロです。」
そう、三上さんが歌声を再現できるアーティストは超広範囲。
今までに担当した楽曲は、メインボーカル・コーラス含め300曲以上もあるというのだ。
それにしても、一体どのようにして、これほどまでの再現性を実現しているのか?
三上さん「声自体をコントロールするときは、座標で言うと軽い声、重い声、これは高い所にあるのか、低い所にあるのかっていう所で、声色をコントロールしています。あとは、息をどのくらい混ぜてあるかみたいなのが横軸として、しっかり鳴らしている声とちょっと薄めている声。その中のどの割合ぐらいで息を混ぜていくような声にするのか、そしてのどの位置的に軽めのトーンにするのか、重めのトーンにするのかみたいな。そのどこに位置しているかっていうのを結構気にしながら、声質に関しては、そこを聞いています。」
三上さん「この仕事自体は、自分で言うのもなんですけど、誰でもできる仕事ではないかなと思いますので、その技が、カラオケに来られる方や音楽界やカラオケ界の役に立てているなら嬉しいなという所もあって続けているのもありますし、トレーナー業ばかりやっていると、教えるばかりで自分が歌うという行為がさほど無くなってくる。自分のプレーヤーとしての技術を衰えさせないためにも、本気で歌うという場所として、ガイドボーカルを続けていて、歌唱力を落とさないようにしているというところもあります。」
そして、彼がこの仕事に真剣に取り組むのは、人が音楽を楽しむ時に見せる笑顔のためだという。
唯一無二の超スゴい日本人だった!
【金魚に隠れた仰天のトリック!】
アンビリアカデミー賞 スゴい日本人部門第4位!
嘘!? 信じられないトリックで世界を魅了するスゴい日本人。
桶の中で、優雅に泳ぐ金魚たち。
どう見ても本物、もしくは本物そっくりの模型を埋め込んでいるようにしか見えないのだが、この金魚を生み出した深堀隆介さんに話を聞いてみると…
深堀「上から見ただけでは分からないと思うんですけど、これを見て頂いたら分かると思います。どうぞ見てみてください」
上から見ると確かにいる金魚。
だが真横から見ると…消えた!
なんとこの金魚、絵なのだという。
深堀さんが制作した、摩訶不思議なトリック作品の数々は世界でも高い評価を受け、300万円の値がつくものもあるという。
一体、どうやって作っているのだろうか?
升の中に樹脂を一層流し込み、そこにアクリル絵の具でヒレを描いていく、その上にまた樹脂を流し込む。 先ほどの絵に重ねるように、金魚の胴体を描き足していく。 そして再び樹脂を流し込むと…金魚が立体的に。 このように樹脂で層を作ることにより、絵が互いに重なり合い影が落ち、まるで生きているかのような金魚が現れるのだ。
深堀さんは以前は、動物や看板をモチーフとした作品を作っていたのだが、全く注目されなかった。
そんな時、ふとベッドの横の金魚が目に映り、ひらめいたという。
深堀「金魚が僕を救ってくれた。金魚すくいしてきた金魚に僕が救われたという。まさに金魚救い。」
そして、取材当時から12年経った現在も、深堀さんは金魚アートを作り続けている。
まさに、金魚に人生を変えられた、スゴい日本人だった。
【友人の嘘から大ブレイク!?】
アンビリアカデミー賞 スゴい日本人部門第3位!
友人の嘘がきっかけで大ブレイクを果たしたスゴい日本人とは?
中学生の時にラジオから流れてくる音楽に励まされ、ミュージシャンになりたいという夢を抱いた青年。
その思いを家族に伝えた時に、父親からある約束をさせられてしまう。
父「もし25歳までにデビューできなかったら、俺と同じ保険の営業マンになれ」
この時、彼は18歳。25歳をタイムリミットとして音楽活動を開始した。
1980年、19歳の春に上京、曲を作りながらバイトに明け暮れる日々…。
そんな時、音楽仲間から朗報がもたらされる。
「レコードデビューの話があんねん!軽井沢で合宿するの、どうや?」
ところが…友人の話は全くのウソだった!
実は喫茶店のバイト要員として、青年を軽井沢に呼びたかっただけだったのだ。
しかしこの後、このことがきっかけで彼の人生は大きく変わっていくことになる!
彼は軽井沢で青年と同じように夢を抱いた若者と知り合った。
彼の名前は大木誠。
青年は大木と意気投合。
喫茶店のバイトが終わると毎晩一緒に曲作りをするようになった。
そして、夏が終わる前に、二人はあるバラード曲を完成させた。
その曲に大きな手応えを感じた彼らは、東京に戻ってからも、ともに創作活動を行った。
だが、翌年の春、大木は音楽の道を諦め、就職を決め、青年はまた一人に戻った。
それでも落ち込んではいられないと、当時大人気だったオーディション番組「スター誕生」に応募。
見事、決勝大会までコマを進めた。
決勝大会にはほぼ全てのレコード会社や芸能事務所が原石を求めて参加していた。
だが…結果、どこからも声は掛からなかった。
しかし、彼の心ははまだ折れていなかった。
今度は、音楽業界の客が多い喫茶店でアルバイトを始めたのだ。
そして、音楽関係者を見つけると、4曲のオリジナル曲が収録されたデモテープを渡し、地道なプロモーションを続けた。
だが、時代はバンド全盛期、色良い反応はなかなかもらえなかった。
それでもついにある日、大手レコード会社の担当者から、デモテープの感想を聞けるチャンスを得た。
すると「最後の曲、いいね」…そう評価されたのは、かつて軽井沢で大木と作ったあのバラードだった。
そして、「他の三曲は君がやるべき曲じゃない」とも言われた。
こうして、目指すべき音楽の方向性が決まり、その後も精力的にライブ活動を続けるなど、プロになるために邁進。
だが、あと一歩のところでデビューできないまま、タイムリミットは刻一刻と近づいていた。
そして1985年8月、青年24歳、父との約束まであと半年という夏、彼はラストチャンスともいうべき、ある音楽コンテストに出場する。
歌ったのはもちろん、この5年間常に大切に歌い続けてきた、大木との共作である、あのバラード。
そして、見事優勝!
ついに青年はプロデビューの切符を手に入れた!
そのバラードは時代を越え今も多くの人に愛され続けている。
そんな名曲を産んだ超スゴい日本人とは…そう、徳永英明さん。
そのバラードは彼のデビュー曲、「レイニー ブルー」だった!
そして、このレコードが発売された日の朝…大木さんから電話があり、共に喜んだという。
実はこの曲でデビューが決まったとき、德永さんは大木さんに連絡し、一緒にデビューしようと誘っていた。
だが、大木さんは「音楽を職業にすると楽しめなくなりそうで怖い」と、その誘いを断ったのだという。
結果、ソロ歌手としてデビューすることとなった徳永さんだが、二人の夢だったデビューレコードの盤面には、しっかりと盟友・大木さんの名前が記されている。
その後も德永さんと大木さんはコンサート会場で顔を合わすなど交流が続いた。
大木さんは音楽を愛し続け、数年前からは音楽活動も再開していたが、2022年、病気で逝去。
今回、德永英明さんへの取材で、この一連の出来事について、こう回答があった。
『色々ありましたが、今となってはあの時、軽井沢へ一緒に行こうと誘ってくれた友人に感謝しています。そして何より、軽井沢で大木誠に出会えたこと。大木との出会いが無ければ、自分はミュージシャンになっていなかったかもしれません。』
躓いても起き上がる強さと、数奇な運命が、後に多くの人々の心を動かす、超スゴい日本人誕生のきっかけとなっていた。