5月25日 オンエア
日本国民全員が人質! 恐怖の連続爆弾魔
 
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1974年2月18日午前0時23分。
大阪市にある、1日11万人が行き交う私鉄の駅構内で、最終列車が発車した直後、コインロッカーの一つが爆発により吹き飛んだ。 人が少ない時間帯だったため、幸い怪我人は出なかったが、この事件を皮切りに爆破事件が連続で発生。
そして明らかとなった犯人は、誰もが想像しなかった意外な人物だった。

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警察は、コインロッカーに入っていた脅迫状を発見した。
『われわれは多額の現金が必要なため、貴社にそれを用立ててもらう。この書面を貴社がみるころ、ある場所で爆発が起きているはずだ。』
この中で犯人は、要求に応じるなら『政子話し合う、すぐ電話せよ』という文を新聞の広告欄に載せること、そして絶対に警察に連絡しないことを求めていた。 犯人は警察よりも先に駅員が脅迫状を見つけると想定していたと思われた。

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使用された爆弾は、爆竹をおよそ千本を集めて製造されたものだった。 そして時限装置に利用されたのは、タイマーではなくドライアイス。
警察の推測によると、犯人はロッカーの温度を前日に下見して、常時 約10度であることを確認すると、厚さ11cmのドライアイスを爆弾本体の絶縁体として使用。 8時間後にアイスが溶け切ったところで起爆するようにしていた。

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今回、犯人が爆破を8時間後したのは最終電車が出た後の人が少ない時間帯を狙ったと考えられる。 逆を言えば、人通りが多い時間帯を狙うことも可能ということになる。
しかも犯人は脅迫文の中で非常に高い破壊力を持つ爆薬、ニトロを所持していることを示唆。 今回の爆竹の火薬を使った爆破は、あくまで脅しに過ぎないとみられた。

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犯人は警察の介入を警戒していることから、警察はこの事件の全ての報道を控えるようにメディアに要請した。
誘拐事件やハイジャック事件などで人質事件が発生した場合、警察の関与を伏せたり、犯人を刺激したりしないよう、新聞やテレビなどで報道を控えることがある。 しかし、爆破事件で報道協定が求められたのは異例だった。

当時、読売新聞の記者としてこの事件を追っていた、ジャーナリストの大谷昭宏氏は…
「一般の方がいつ危害が加えられるか分からないという時にですね。報道したら全て終わりなわけですよ。あれほど警察に知らせるなって言ってるわけですから。その時点から我々(メディア)は、ある程度 大阪府警に協力していかないと、変な言い方をすりゃ、手組んでこんなやつさっさと捕まえちゃおうぜと。」
犯人は要求に従わない場合は、次なる爆破を示唆している…『日本国民全員』が人質ということになる。 こうしてコインロッカー爆破恐喝事件は、以降、新聞やテレビなどで一切扱われることがなかった。

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爆破事件から2日後。
犯人の要求を飲むことを伝えるため、鉄道会社と犯人だけが知り得る文面が新聞に掲載された。 警察はこの広告が出されるまでに、秘密裏に鉄道会社の重役会議室に臨時電話を設置。 録音、逆探知などの万全の態勢を整え、犯人からの接触を待った。

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また犯人は逆探知を警戒し、公衆電話からかけてくる可能性が高い。 捜査本部は鉄道会社が所有する私鉄沿線にある15の警察署に連絡、管轄内の主だった場所の公衆電話に捜査官を張り込ませた。 監視カメラがほとんどなかった時代、このような人海戦術に頼るほかなかった。

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新聞にメッセージを出して2日後の午後10時47分。 犯人と思われる男から電話がかかってきた。
「明日の午後、3時頃、また電話すると伝えてください」
そう言って、電話は切れたため、逆探知できなかった。 当時は一般家庭にも電話が普及し始めた頃、公衆電話に捜査官を張り込ませていたものの、夜間でも利用する人が多く、電話をかけてきた人物を特定することはできなかった。

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爆破事件から5日後、再び犯人から電話がかかってきた。 秘書に代わり、鉄道会社の重役社員に成りすました捜査官が電話対応にあたる。
「あとで手紙をやる。おれたちの要求はそれに詳しく書いておく」と言って電話は切れた。
この時も、逆探知は失敗。 公衆電話の張り込みも空振りに終わった。 おそらく犯人は15の警察署の管轄外にある公衆電話からかけてきていると思われた。

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程なく、犯人からと思われる脅迫状が数日に渡って郵送で届いた。 その中で犯人は、金額を5千万円ではなく1億円に変更すること。
さらに、現金の受け渡しについて細かい指示を出していた。 鉄道会社が運営するデパートに務める吉田という青年を現金持参者に、同じく鉄道会社が運営するタクシー会社の木村というドライバーを運搬車両の運転手に指名。 この4日後の午後6時半に会社をたち、直前に電話で伝えた場所まで現金を持って来るようにと記されていた。

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警察は直ちに犯人が指名した2人の人物を調べた。 だが、ともに怪しいところはなく、おそらく犯人が偶然 見かけた彼らを現金の運び屋として指名したものと考えられた。
一般市民を危険に巻き込むわけにはいかないと、警察は、犯人が指定してきた2人に捜査官がなりすことにした。 しかし、大きなリスクもあった。 もし犯人が2人の写真を持っていたら、警察の介入が犯人にバレてしまう。 しかし、現金受け渡しの時間帯は日の沈んだ夜になる可能性が高い…年齢や背格好を似せた捜査官で犯人を欺くことにした。

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そして現金受け渡し日、当日を迎えた。 午後6時頃、犯人からの連絡を受け、先発捜査隊が現地へと急行。
その30分後の午後6時半、現金運搬役に成り済ました2人の捜査官が会社を出発。 そして、約束の時間の10分前にドライブインに到着。

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2人が店内に入って7分、犯人から電話がかかってきた。 犯人の電話を傍受していた捜査本部は、慌ただしく動き始めた。 受け取り場所の変更に合わせて、改めて捜査官を配置し直すためである。

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その時間を稼ぐ必要があることを十分理解していた捜査官は…犯人に何度も行き方を尋ねることで、時間を稼いだ。 すると、「もう小銭がない。5分後にもう一度かけ直すから、そこで待っとけ」と言って電話が切れた。
これで時間が稼げるはずだった。 だが、事態は思いもよらぬ方向へと進んでいく。

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午後9時、ドライブインが閉店。 犯人がどこから見ているか分からないため、2人の捜査官はウエイトレスに事情を説明することができず…犯人と直接連絡をとる術を失った。
その時…爆発音のような大きな音が! それは新たな爆破事件ではなく、偶然の自動車事故。 しかし、タイミングは最悪だった。 事故を処理するためにパトカーがやって来た。 これでは犯人が現れない。

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犯人からの連絡を待つしかなかった。 店から連絡が取れなくなったため、犯人は必ず鉄道会社に連絡してくるはず。
午後9時32分、予想通り、犯人から鉄道会社に電話がかかって来た。 犯人は警察が介入したと怒りを露わにしていた。 鉄道会社の重役になりすましている捜査官は「吉田くんによると現場で偶然事故が起きたそうだ。本当だ、警察には言ってない、信用してくれ。彼らはまだドライブインの前で待っています!」と説明した。

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そして事故処理をしていた警察車両がいなくなった午後11時13分。 ドライブインの前で待つ、受け渡し役の2人に近付く人物がいた。
警察はその男を逮捕

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逮捕された犯人は、神戸市に住む、渡辺真一(仮名/当時44歳)という男だった。
確保時、渡辺が所持していたのは、鉄パイプ3本に鉛の球を詰め、さらに火薬を充填した手製の爆弾。 間一髪のところで、犯人がスイッチを押すのを防げたが、もし作動していたらとんでもない事態になっていた。 その後、周囲を警戒していた捜査官が怪しい車両を発見。 運転手から事情を聞くと渡辺の弟であり、共犯を認めた。

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実はあの事故の時、次の目的地付近にいた弟が偶然、駆けつけるパトカーの音を聞き、兄に伝えていた。 しかし、弟の車から現場のドライブインは離れていたため、捜査官が現場に潜んでいることにも気づかれることなく、兄を逮捕することができた。 こうして報道協定は解除、そのニュースは全国に報じられた。

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渡辺兄弟の兄は犯行の動機について、後の取り調べで次のように供述した。
「世の中の貧富の差があまりにひどいことに腹が立った。こうした世の中で自分も一旗上げるには、爆破を実行に移すことぐらいしかできることがないと思った。」
その後、警察は渡辺兄弟の余罪について追求。 すると勤め先の屋根裏部屋で、多くの爆弾を製造していたことが判明した。

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兄弟逮捕から4日後の日曜日。 コインロッカー爆破事件で脅迫された鉄道会社が運営するデパートの子供服売り場で、再び爆破事件が発生
そう、事件はまだ終わっていなかったのである。 爆発は陳列棚の一部をこがしただけで、幸い客や店員に怪我人などはなかった。

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そして、またもや脅迫状が発見された。 脅迫状には第2第3の爆破、及び放火計画があること、そして、渡辺兄弟の釈放を要求していた! さらに捜査官たちを驚かせたのは…『ウルトラ山田』という署名だった。

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今回の事件から遡ること7年。 神戸にあるデパートのトイレが爆破された。 そしてこの現場から発見された脅迫状の差出人の名が『ウルトラ山田』だった。
さらにその5ヶ月後、同じ神戸で鉄道爆破事件が発生。 しかもこの時は、2名が死亡した。 爆弾の構造が同じだったことから、2つの爆破事件は、どちらもウルトラ山田の犯行として捜査が進められた。 しかし犯人は見つからず、未解決のままとなっていた。
渡辺兄弟逮捕直後に起きた新たな爆破事件、今回は企業恐喝ではなかったため報道協定は求められず、新聞やニュースで大体的に報じられた。 この新たな爆破事件は、7年前に世間を騒がせた爆弾魔『ウルトラ山田』の単独犯によるものなのか? それとも…渡辺兄弟が何かを隠しているのか?

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2つの線で捜査が進む中…鉄道会社が運営する系列デパートのトイレで、不審な懐中電灯が見つかった。 彼女が職場の上司に相談すると…派出所届けることにした。 だがこの時、派出所の警察官は他の対応に追われ、懐中電灯をすぐに調べなかった。

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それから数時間後のこと…懐中電灯を調べようとキャップを外したその時!懐中電灯が爆発!
この日も…前回と同じ日曜日だった。 爆弾は懐中電灯を改造した手製のもので、キャップを開けると爆発するようになっていた。 これにより、懐中電灯を開けた警察官が右手の指を3本失う重傷。 派出所にいた他の警察官たちも軽傷を負った。

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捜査官たちは、渡辺兄弟と関わりのある人物の仕業では考えた。 捜査官たちがそう考えるにはワケがあった。
実は派出所が爆破される4日前、検察は兄弟を恐喝爆破事件の容疑で起訴。 そのことは新聞で報道されていた。 ウルトラ山田を名乗り、兄弟の釈放を要求してきた犯人にとっては、十分すぎる理由だった。 以来、犯人は…『日曜日の爆弾魔』と名づけられた。

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爆破事件が連続して日曜日に起きていることから、捜査本部は週末に鉄道会社が運営するデパートを中心に約5000人規模の捜査官を配備。 周辺に爆弾がしかけられていないか、新たな爆破事件を警戒した。
だが、派出所爆破から1週間後の日曜日、駅の地下トイレで爆弾が発見された。 犯人は警察の動きを嘲笑うかのように、デパートではなく、その向い側にある駅のトイレに爆弾を仕掛けていた。 幸い爆弾は不発に終わり、怪我人なども出なかったが…『日曜日の爆弾魔』の犯行を今回も封じ込めることができなかった。

神出鬼没の爆弾魔。 しかし、警察も後手に回っているだけではなかった。 最初に届けられた脅迫状、そして地下トイレの爆弾に使用されていたスプレー缶から、同一人物のもと思われる指紋を検出。 前科者の指紋リストなどから、犯人特定を急いだ。 しかし『日曜日の爆弾魔』は、そんな警察の動きを察したのか、それ以降、ピタリと動きを止めた。

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ちょうどその頃、渡辺兄弟も自供を始め、仲間などがいないことを話した。 この供述に嘘はないと判断され、渡辺兄弟の共犯者の線も消えた。
事件からおよそ半年が経過。 捜査官たちの脳裏に、迷宮入りという言葉がよぎり始めていた。 その時、捜査官が3つの爆破事件の現場写真に全部同じ人物が写っていることに気がついた。

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捜査官が突き止めた爆弾魔の正体。 それは…まだ幼さが残る、中学2年生の少年だった。
日曜日に起きた爆破事件、その3つの現場で撮られた写真に少年は写っていた。 そして、警察から事情を聞かれた彼は、一連の爆破事件を起こし、脅迫状を送ったことを認めた。 さらに現場から見つかった指紋も、少年のものと一致した。

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少年は1人っ子で母親と2人暮らし、母親が働き生計を立てていた。 小学生の頃、新聞配達などをして家計を助けていたが、6年生にあがると学校を休みがちになり、事件を起こした中学2年生の時にはほとんど登校していなかった。
そんな中で爆弾に興味を持つようになった少年は、世間で起きていた爆破事件に刺激を受け…面白半分にやってみたという。 動機は、ただそれだけ。
そして驚くべきことに、あの脅迫状は、少年が筆跡などから身元がバレるのを防ぐために、母親に頼んで書いてもらったという。

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当時、読売新聞の記者をしていた、ジャーナリストの大谷昭宏氏は、こう話す。
「中学になってから家庭環境のこともあって、いじめにあってしまって、引きこもりになってしまった。そこにですね、(母親は)いろいろ負い目を感じていたと思うんですよね。」
やがて少年は母親に暴力を振るうように…
「やっぱりそういう中でお母さんとしてはですね、息子が言うんだから、という思いがあったんですね。」

少年は一連の爆破事件で身柄を保護され、少年院へと送られた。 その後の捜査で 少年は渡辺兄弟との接点はないこと、また7年前、デパートのトイレが爆破され、現場から『ウルトラ山田』と名乗る脅迫状が届いた事件とは、無関係であると断定された。 当時、少年は6歳、ただ名前を借りただけだった。
こうして半年間に渡る事件は解決し、国民の平和は取り戻された。 だが…本当の『ウルトラ山田』は、捕まっていない。

時代は1970年代初頭、日本は高度経済成長のピークを迎え、事件の4年前には、その象徴とも言える日本万国博覧会が開催された。 大谷氏によれば、そんな成長著しい日本の社会的背景が、事件に影響を及ぼした可能性があるという。
「どんどん大企業が栄えていく、そこにいらっしゃる方たちは、裕福さを自分たちのものにしていく。社会が急激に発展していく時は、どの時代でもそうですけど、ついていけない人たち、取り残される人たちがいるわけです。ですから、兄弟で言えばなかなか自分の生活が良くならない。少年からすれば、友達が非常に良い生活の家庭に育ってきている。自分はお母さん助けて新聞配達をしなければいけない。そういう、みんなが一斉にそっちに向かっている時に、ふと振り返ると自分だけが置いていかれていると。そういう状況の中で、本当は人のせいにするべきではないんですけど、それを社会のせいだ、他人のせいだと置き換えてしまった。それが背景としてあったと思う。」

経済が発展するからこそ、都市に人が溢れ…多くの関係のない人たちを巻き込む『都市型犯罪』も、この時期からどんどん増えていったという。
大谷「この2つの事件は、今の時代に置き換えると、やはり一連の都市型犯罪とよく似ている部分があるんです。当時は経済が上り調子だった。今は下り坂ですけど、必ずそういう中で、一番先に貧しさを一身に背負ってしまう、上手くいかない人たちが出てくるわけですよね。そういう想いから、犯行に走ってしまう。もちろんそれは、許し難い事なんですけど、ただ、どんな社会もですね、なるべく置いてけぼりにする人がいないように、取り残される人がいないようにという社会を作っていかないと、あってはならないのですが、こういう事件というのは、なかなか防げないということの教訓になっていると思う。」