1月26日 オンエア
映画にもなった日本の『映えスポット』驚きの誕生秘話!
 
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ここは、福島県いわき市にある『スパリゾートハワイアンズ』。
ハワイをイメージして作られたこの施設は、南国の植物が生い茂り、巨大なプールに温泉と、幅広い世代が楽しめる観光スポット! 常夏気分が味わえると、全国から多くのお客さんが訪れている。
その人気を不動のものとしたのが…今から17年前に公開された、映画『フラガール』。 寂れた炭坑の町を舞台に、地元出身の少女達がフラのダンサーになるまでの奮闘を描いた作品。 そのモデルになったのが、かつて「常磐ハワイアンセンター」と呼ばれた、こちらのレジャー施設なのだ。
映画で主に描かれていたのはフラガールたち。 しかしその裏には、窮地の炭坑の町を想い、この地に住む人々の未来のため人生を賭けた熱き男の存在があった。 映画では描かれなかった、その奮闘の物語とは!?

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「東北にハワイを作ろう」
そう言った、男の名は中村豊。 当時、石炭を採掘していた『常磐炭礦(じょうばんたんこう)』という会社の副社長で、後に社長となる「常磐ハワイアンセンター」の生みの親なのです!
彼がこんな提唱をしたのにはある理由が…実は当時この場所は荒地、近くには社員の家が建ち並んでいました。 中村がハワイと言い出す数年前までは、石炭は黒いダイヤと呼ばれ、エネルギーの主役。 常磐炭礦は経済的に潤っていました。
しかし その後、エネルギーの主流は石炭から石油へ徐々に移行。 全国の炭鉱は次々と閉山に追い込まれていきます。

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中村は街に活気があるうちからこの未来を察知していたのです。 そして、「我々が立ち上げるべき、新事業は『炭鉱から観光へ』」と提唱しました。
だ〜れもピンとこないのも無理はありません。 当時の日本は好景気、旅行の需要が少しずつ高まっているのを、中村だけは感じ取っていました。 ですがこの町は、温泉こそ沸いていたものの、特別多くの観光客が訪れていたわけではなく、彼の構想を理解できる者はいなかったのです。

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だ〜れも理解はしていませんが、それでも観光を目玉とすることに決めた中村は、早速、アメリカを視察! しかし、各地を回ったものの、中村の心に響く観光施設はありません。
そこで予定を少し変え、休息がてら立ち寄ったのが…ハワイ!
中村は「この素晴らしい常夏の国ハワイ。きっと何年後かには日本からの観光客も多く訪れてくるに違いない。」と確信しました。
のちに年間150万人以上の日本人が訪れ、人気観光地となるハワイ。
自然豊かで温暖なハワイは必ず日本人に受けると、海外旅行に馴染みのない当時から、中村は その可能性を見出し、施設のコンセプトを決めました。 さらに、観光に馴染みのないこの街で、遠い異国の地をテーマにした施設をたった2年で完成させようとしたのです。

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実は中村自身、佐賀県の炭田の出身。 小さな炭鉱経営者の息子だった。
炭鉱への思いは強かったが、石油への移行という予感は的中。 業績の悪化で、会社は2千人の人員整理を発表していた。 致し方ない対応であることは分かっていたものの、中村にとって、この策を受け入れる事は苦渋の決断だった。

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中村はこう考えていた。
「これは早急に何とかしなければ。このまま閉山すれば、雇用は無くなり、街自体がなくなる。山の家族全員が路頭に迷ってしまう!そうなってからでは遅い。」
炭礦で働く従業員と家族の生活と未来を守る使命を人一倍感じていたのだ。

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中村がまず目をつけたのは、炭鉱内に湧き出ていた温泉。 一部が地元の旅館で利用されてはいたが、従業員達にとっては作業の邪魔でしかなく、炭鉱では多額の費用をかけて廃棄していた。 中村は、この温泉を利用した大型の温水プールを観光施設の柱とした。
さらには、地下に温泉を通すパイプを設置し、熱を利用して南国の植物を育てることを計画。
当時作られたハワイアンセンターのイメージ図には、プールと南国の植物が植えられたメインの施設に加え、2つの宿泊用の施設が描かれていた。 そう、中村は宿泊もできる観光施設を計画していたのだ。

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施設の目玉は、中村が心打たれたフラやタヒチアンダンスのショー。
そしてこの計画の原点、“炭鉱に代わる雇用“を実現するために、中村はメインの施設はもちろん、宿泊施設や飲食店の従業員など、全てを炭鉱マンやその家族といった地元の人でまかなう事に決めた。
従業員達は中村に刺激を受け、首都圏のホテルなどに研修へ行き、修行をつんだ。

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総料理長やダンスの教師といった専門職のスタッフに関しては、よそから呼び寄せる事にした。 だが、ダンサーは地元採用することした。
「さすがにダンサーは、東京からプロを呼んだ方が良いのではないでしょうか?」という意見もあったが、中村はこれにこう反論した。
「常磐炭礦の社宅だけで6千戸。そこにはあらゆる年齢層の家族が住んでいる。この家族を結集し、隠された才能を見つけ育んでこそ、新しい産業、家族の新たな収入源につなげることができる。ハワイアンセンターの計画を成功させる必要があるのだ。家族が「常磐ハワイアンセンター」で働けるということこそ『一山一家』の伝統に相応しいと思うんだ。」

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「一山一家」、それは常磐炭礦に古くから根付いている言葉。
山で働くすべての人間が家族であり、常に助け合って生きていこうという考え方である。 中村はこの伝統を活かしてこそ、ハワイアンセンターの成功があると考えたのだ。

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「炭坑から観光へ」という挑戦、それには、多くのトラブルが立ちはだかった。
工事の遅れにより、地下の温泉パイプが出来上がっておらず、秋の冷え込みを受け、ヤシの木が弱ってしまった。 すると、中村は石油ストーブを使って、ヤシの木を温めることを思いつき、炭鉱中の家からかき集めることにしたのだ。 これにより、集まったストーブは約200台。 温泉パイプが完成するまでの一ヶ月間、ヤシの木を守ることができた。

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一方、ショーに関わる人探しにも苦戦していた。 フラダンスとタヒチアンダンスの教師に関しては、よそで探していたが、見つかっていなかった。 そんな時、中村がテレビを見ていて、ある人物を見つけたのだ。
その人物は、カレイナニ早川さん(本名:早川和子)。 フラダンスとタヒチアンダンスの両方を踊れるだけでなく、現地ハワイでのダンス経験もあり、キャリアも申し分なかった。 早速連絡を取り、依頼をしてみると、指導は引き受けてくれた。
だが、そんな早川もその後、施設の詳細を聞いた時は、こう思ったという。
「東北にどんなものを作るのかと、疑心暗鬼っていうような。何を夢物語を仰るんでしょうこの方はと」

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また、地元の温泉旅館組合も不安を感じていた。 実は、ハワイアンセンターに建設が計画されていた宿泊施設は、地元の温泉旅館組合よりも多くの人数を収容でき、料金は格安。 客を奪わないでくれと組合から抗議の連絡をうけることもあった。
しかし、中村は…「温水プールとショーを目当てに、1日数千人以上ものお客さんが来てくれると予想している。ウチに入りきらん客が旅館に流れ、温泉旅館の良さも味わう。相乗効果で観光客が増える! これからの地元の繁栄に繋がるんだ!」と力説! 旅館を周り、理解を求めた。

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そして、オープンまであと10ヶ月と迫った頃、中村はなんとダンサーと演奏者を育てる「常磐音楽舞踊学院」を開校。 ダンサーを育成する舞踊科は、なんとか18名の生徒が集まり、寮生活のもと、コーチの早川によるレッスンが始まった。
だが、集まった生徒達は…フラガールになりたいと思って入学した者はほとんどいなかった。 大半が踊りの素人だったのだ。
早川さんはこう思ったという。
「素人が踊っているようなショーでは許されない。厳しく教えてプロ意識を育てなきゃ」
だが、生徒達は自分達の踊りが求められている意味が分かっていなかった。

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レッスンを見た中村は、生徒達にこう語りかけた。
「これは常磐炭礦の伝統を受け継いだ大切な事業です。この街に住む人達の将来は皆さんの努力にかかっています。このまま閉山してしまえば、ご両親、おじいちゃんおばあちゃん、何千人という家族が路頭に迷う。そんな人達を救わなくてはいけない。」
「君たちには是が非でも頑張って欲しい。立派なショーでお客さんを毎日、沢山呼べるように!そうすれば、10年後、20年後、もっと先の未来まで、皆でこの街に住めるんです。ここで、日本一有名なショーをみせるんだという、心意気で練習に励んで下さい。」

その時のことを、早川さんはこう話してくれた。
「自分達がこの常磐炭鉱を背負っていくという意気込みをあの子達、持ったんですね。」

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素直で先入観もないぶん、踊りはメキメキと上達。
また、同じ「常磐音楽舞踊学院音楽科」に通うバンドのメンバー達の中には、元炭坑マンの姿もあった。 そんな若者のパワーに他の従業員たちも触発されていった。
そして、ついに…1966年1月15日、炭礦会社が作ったリゾート施設「常磐ハワイアンセンター」は産声を上げた。 心配されたヤシの木は無事に育ち、観光客を迎えた。 フラガールの踊りに、観客は皆、ステージに釘付けになった。

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この転換劇、彼女たちの活躍はメディアにも取り上げられ、さらなる盛り上がりを見せた。 全国各地からお客が集まり、連日大盛況となったのだ。
また、ハワイアンセンターの成功は、温泉旅館にも客を呼び込むことに。 増改築や新規開業も相次いだ。
中村の考えは見事に的中したのだ。
その一方で、あまりの繁盛ぶりに役員達は、オープン当初から客室の増設を進言。 だが中村は「地元の繁栄が第一」と、温泉旅館の増築が落ち着くまで、一切耳を貸さなかったという。

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その後、「常磐ハワイアンセンター」は、「スパリゾートハワイアンズ」に名称を変更。
今も従業員のほとんどは地元出身であり、地域に根付いた施設であることは変わっていない。

常に時代の先を見て、会社と地元の為に尽力してきた中村。 彼はハワイアンセンターの建設前にこのようなことを言っている。
「常磐炭鉱が永年に渡って作り上げてきた「一山一家」の精神は、新しく誕生するハワイアンセンターに受け継がれ、花を開くものと私は固く信じております。」

ハワイアンセンター開業当時から、フラガール達を育て上げてきた、早川さん。 御年91になった彼女は、今でも中村さんから指導を頼まれた時のことをよく覚えている。
「愛情を持って子供達と付き合ってくださいって。あなたが愛情がなかったら、子供達はついてきませんよと。人間の基礎、人間生きていくための色んな基礎。それと愛情、これを早川、あなたは教えてくださいって。」

そんな早川さんに指導を受けた初代フラガールの一人、本田さん。 当時はダンス経験などなかった彼女だが、フラの魅力に引き込まれ、現在は地元いわきの町で多くの人にフラダンスを教えている。
「『ひまわりのようになりなさい』っていう言葉があるんですけれども、太陽に向かって元気を出して踊りましょう。太陽っていうのはお客さんだと思うんですけどもね、ハワイアンズにすればね。だから私も『ひまわりのように』っていう先生の言葉をいつも思いながら(指導して)いますね。」

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炭鉱の町に生まれたレジャー施設「スパリゾートハワイアンズ」。 開業してから約60年の歴史の中で、二つの大きな危機を乗り越えてきた。
一つは、今から約12年前に起きた「東日本大震災」
本震から一ヶ月後に起きた余震の影響もあり、施設に大きな被害が発生、休業を余儀なくされた。
そんな中、地元を想うフラガール達は復興を願い、「フラガール全国きずなキャラバン」を実施。 日本中を周り、東北の地から笑顔と元気を沢山の人々に与えた。 その活動が実り、営業再開時には数多くのお客さんが来場。 無事に再開を果たすことができた。
もう一つは、4年前から猛威を振るう、新型コロナウイルス
緊急事態宣言の発令を受け、臨時休館を決定したが、その期間もショーをネットで配信するなど、時代に合わせた策をとり、危機を乗り越えた。

故郷を守り、多くの人に笑顔を与えるため、努力を惜しまない、スタッフ達。 彼らはこれからのハワイアンズに対してどのような思いを抱いているのだろうか?
「新しいことだけを追求していったんじゃ、やっぱり飽きられちゃう部分もありますし、これだけ50年、60年と長く愛されてきた施設ですから、過去の資産と言いますか、やってきたことをきっちりと押さえながら、それを踏まえながら、新しいことにチャレンジしていくって事が必要かなっていうふうに思っています。」
「今よりもっとお客様にワクワクや感動していただくために、そしてお客様に『また来たい』という、そのリピートをいただけるようになっていけたらなと思います。」

彼らはこれからも家族のように手を携え、地元と共に進化し続けていく。