11月3日 オンエア
前代未聞の火事が発生 窮地を救ったヒーローとは?
 

今から6年前の12月22日、新潟県糸魚川市で大規模火災が発生。
消防士たちが懸命に消火活動にあたるが、火の手は弱まらない。 それどころか、なぜか勢いを増していく炎。 まさに絶体絶命…しかし最悪の状況に陥った街に思いもかけないヒーローたちが現れる。

日本海と北アルプス山脈に囲まれた街、新潟県糸魚川市。
人口およそ4万人が暮らすこの街には、本町通り商店街と呼ばれる通りがある。 商店街とその周辺には、料亭や酒店など、古くからある店舗や多くの住宅が連なっていた。

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午前9時45分頃。 商店街の近くにあるラーメン店でその悲劇は始まった。
出火元は糸魚川駅の目の前にあり、本町通り商店街の近くに位置するラーメン店。 出火の原因は、コンロの火の消し忘れ。
それにより、中華鍋が過熱され、出火。 さらには壁に付着した油かすに燃え移り、1階天井裏まで延焼。 ラーメン店の2階が激しく燃えているばかりか、火は隣接する精肉店にも燃え移っていた。

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この時点で、通常の火災発生時と同じく、消防車・救急車など7台が出動、消火活動が始まった。 特別な火災ではない…現場にいる消防隊員は懸命に消火活動を行いつつも、そう思っていた。
だがその時、通常の火災とは違う異変が起きていた。

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消火活動を開始して、およそ1時間後。 最初の出火元であるラーメン店から、北側およそ100メートルの位置にある建物にて、新たな火災が発生。 糸魚川消防本部の別部隊が現場に急行した。
消防本部は、偶然、立て続けに火災が起きた…そう思っていた。 だが、明らかに不可解な点があった。 火災が発生したのは火の気のない空き店舗。 しかも、建物内は全く燃えておらず、なぜか屋根だけが燃えていたのだ。

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風が強くて、飛び火していたのだ。 飛び火とは、火の粉が飛んで離れた場所に燃え移ること。 つまり、ラーメン店の火災の火の粉が風に舞い、空き店舗の火事を引き起こしていたのだ。
そして、2軒目の火災から30分後には、強風による飛び火の影響で、2件目の火災現場から西に50メートル程先の建物、さらに そこから北に50メートル程先の建物でも火災が発生。
しかも強風は、飛び火だけでなく、火災そのものにも悪影響を及ぼしていた。 1件目のラーメン店から出た火が風に煽られた影響で、次々に延焼。 火災はどんどん拡大していった。

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住民たちは、次々に避難を開始。 火災の状況を見守った。
一方、消防は必死の消火活動に当たった。 しかし、火の手は次々と店舗や家屋を飲み込んでいき…糸魚川市消防本部の消防車、全てを動員しても鎮火は出来ないと判断。 新潟県内全ての消防本部、さらには隣接する富山県・長野県にも応援要請を行った。
だが、この間にも火災は拡大し続けた。 その結果、1件目の火災から5時間後には、本町通り商店街とその周辺の大部分が延焼。 しかも、火の勢いは全く衰える気配がなかった。
最初は消防も、他の火災と同程度の時間で鎮火できると踏んでいた。 強風によって飛び火したとはいえ、一体なぜ、街は火の海と化したのか?
実はそこには…この最悪の事態を招いたいくつもの要因があった。 今回の最悪の事態を招いた要因とは?

大規模火災の原因① 地形

新潟県の最も西側に位置する糸魚川市。 北アルプス山脈を背にし、市街地の左右には高い山が迫っている。 このような地形の場合、谷を吹き抜ける強い風が頻繁に観測されることで知られる。
実際この日、糸魚川市には強風注意報が出されており、午前中から強い風が吹いていた。 1件目の火災発生直後、多少風は強まっていたが、まだこの時は消火活動にも影響せず対処できると消防隊員たちは考えていた。
しかし、2件目の火災が発生した頃の11時40分には、最大瞬間風速24.2メートルを記録。 現場には台風並みの風が吹き荒れていた

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さらにこの日は、フェーン現象が起きていたと考えられる。 麓にある湿った空気が高い山を駆け上がり、上空で水分を放出、乾いた空気になる。 この乾いた空気には、山を下る際、温度が急激に上がる性質がある。 その結果、同じ空気でも、風上より風下の方が温度は高くなってしまうのだ。
いつも以上の強風と暖かく乾燥した風を生むフェーン現象が重なり、飛び火による火災が至る所で発生したのである。 しかし、延焼が拡大した原因はこの強い南風だけではなかった。

大規模火災の原因② 密集地域

大規模火災が発生した本町通り商店街とその周辺は、店舗や住宅が密集する地域。 しかも、昭和初期に建てられた木造建築も多くあった。 そのため、火災現場と隣接する建物に次々と火が燃え移ってしまったのである。 これらの悪条件が重なり、被害は消防の想定を遥かに超える規模へと発展、商店街を火の海へと変えていった。
強風は消火活動にも影響を及ぼした。 強風でホースの水が流され、火災現場まで届かなかったのだ。

実は、この火災から84年前の1932年にも糸魚川市は大規模な火災に見舞われていた。 被災した地域は今回の火災の範囲と重なっており、その際は368棟が全焼するという甚大な被害が出ていた。
この火災を受け、地域では当時、できうる最大限の出火・防火対策を取ってはいた。 だが今回の火災は、約80年前の消防の想定を遥かに上回る大規模なものだった。

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今は南風のため、北側に向かって火は燃え広がっていた。 しかし鎮火に時間がかかり、風向きが変わってしまうと別の方角の建物にも火が移ってしまう可能性があった。
そんな状況の中、現場では更なる最悪の事態が起きていた。 消火のための水が足りなくなっていたのだ!

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消防車の中には、水が積まれている車両もあるが、それは初期消火用の量でしかなく、通常は街中にある消火栓を使用する。 消火栓と消防車をホースで繋ぎ、水道水を吸い上げ、車両に繋いだ数本のホースから放水し、消火にあたる。 この時、使用される水は、水道局の貯水施設に貯められたもの。 一度に全ての消火栓を使うことは想定されていないため、配管はみな繋がっている。

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しかし今回は、同時に使用せざるを得なかった。 すると手前の消火栓でほとんどの水を吸い上げることになり、奥まで水が届かなくなってしまう。 つまり、商店街に設置された消火栓を全部、同時に使用する事は不可能であった。

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また、水道局の貯水施設の他に商店街周辺の地下には、消火用の水を貯めた『防火水槽』と呼ばれるものが11基存在していた。 だが、1つの『防火水槽』には、一軒の建物を消火するのに必要とされる、40トンの水しか貯められない。 応援要請を行った頃には、すでに30棟近くの建物が炎上。 つまり、この水だけで全てを鎮火する事は不可能だった。

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そこで、隊長らは応援が来る前に水の確保に全力であたっていた。 糸魚川市には大きな河川があったが、現場から距離があるため、利用できず。 また近くにある海岸には、多くの波消しブロックが敷き詰められていた。 そのため、水を吸い上げるための巨大なホースを入れる隙間がなく、海水もすぐに利用できなかった。 つまり、現場に何台もの消防車が駆け付けても、消火活動ができないという状況に陥っていたのだ。

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新潟県糸魚川市を襲った大火災。 しかし肝心の水がなく、消防も消火活動ができないという絶体絶命の状況だった。 その時だった…大規模火災を食い止める、ヒーローたちが現れた!

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時間は、ラーメン店の火災発生直後に遡る。
木島吉朗(よしろう)さんは、この糸魚川市で生まれ育った。 自宅は本町通り商店街にあり、1階で長年、日用雑貨店を営む一方、市内で『協栄産業』という会社も経営していた。 吉朗さんの息子・嵩善(たかよし)さんも、協栄産業で働いていた。

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二人は、会社で消防のサイレンを聞き、火事の様子を見に行くことにした。 しばらくして、他の場所も火事が起きていることを気がついた。 確認のため、嵩善さんは許可を得て近くにあるビルの屋上に向かった。 すると…自宅のすぐ近くから火が上がっていた。 なんと、木島親子が住む自宅は、最初に飛び火した空き店舗の2軒隣だったのである。

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消防隊員たちが「水が足りない」と言っているのを聞いた、木島さん親子はあることを閃いた。
実は、木島さん親子の会社『協栄産業』は、コンクリートの製造を行なっている。 コンクリートは、セメント・砂利、そして…水を混ぜて作る。 つまり、工場には大量の水を貯めておく、貯水タンクがあったのだ! しかも協栄産業の場合、井戸水を使用していたため、安定して水を確保できる。 本来はコンクリートを運ぶ、ミキサー車! 今回はそのタンクの中に水だけを入れて、火災現場に運ぶことにしたのだ。 積載できる水量、一台およそ5トン!

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さらに、消防本部でも…コンクリート会社の組合に応援要請をお願いすることを思いついていた。
消防本部「昭和62年(1987年)の春に糸魚川市内で林野火災が発生しました。その時に水が足りないという事で、現場に生コンクリートのミキサー車で水を運んできてもらって、その水を活用して、消火活動を行なってというのが、職員の頭の中に残っていた。」
そう、吉朗さんと消防本部は、ほぼ同じタイミングでミキサー車による水の運搬を閃いたのだ!

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こうして、従業員たちが一丸となり、災現場へ水を運んでいった! 消防本部は、ミキサー車が運んでくれる水を貯めるために、多くの簡易水槽を用意。 ミキサー車は、簡易水槽、さらにはマンホールの下にある防火水槽にも水を補給。 これにより、応援に駆け付けた市外の消防隊も放水できる事に!
現場に集結したミキサー車の数は、協栄産業や他の企業も合わせて、32台! それらの車、全てがフル稼働し、次々と大量の水が運ばれていった。 そして、水を運び終えると…再び水を積み、火災現場に運び続けた。

だが、火の勢いは夜になっても衰えず、この時点で火災面積は、4万平方メートルにも及んでいたのである。 それでも…決して諦める事はなかった。
県内外から集結した消防車等の車両235台、消防隊員1800人以上。 1分1秒でも早く鎮火させるため、懸命な消化活動が続いた。

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そして、それに応えるかのように、ミキサー車は水を運び続けた。 木島親子は、消防本部と連携し、到着したミキサー車に水を運ぶ場所を指示していく役目を担った。 さらに、協栄産業の事務員たちは、何往復もする運転手たちのために、おにぎりを作ってサポートした。
こうして、みなが休む事なく活動し続けた。 同じ想いを胸に…「なんとしても…絶対にこの街を守るんだ!」

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そして、最初の火災発生からおよそ30時間後…ついに鎮火。
焼失面積4万平方メートル、147棟が焼失したが1名の死者も出ず。 また、風向きが変わる前に鎮火できたため、北の方角以外に被害が及ぶ事もなかった。
ミキサー車は、1台平均18往復。 およそ17時間、休む事なく水を運び続けた。

残念ながら、木島親子の自宅は、火の手を免れず全焼した。 だがその後、元の場所近くに再び自宅兼雑貨店を建築し、故郷を離れずに暮らしている。
また、そのほとんどが焼失してしまった本町通り商店街も…地域の住民が一致団結し、新たな建物が建ち並び、以前の姿を取り戻すまでに復興した。
だがその一方で…街中には焼け残った状態のままの建物や、火災後に憩いの場として造られた施設の中には、炎で溶けた街灯や焼失した建物の跡地から発見された写真も…火災の記憶を風化させないよう保存されているのだ。

糸魚川市は、この火災の教訓を活かし、従来の5倍、200トンの水が入る防火水槽を設置。 さらにその数を増やしただけでなく、それぞれの防火水槽を繋ぎ、離れた場所からでもすぐに水が送れるシステムを作るなど、対策を講じている。
また、糸魚川市の火災でミキサー車が活用された事により、全国の多くの消防本部がコンクリート製造会社と提携、大規模火災が発生した際への協力体制が敷かれるようになった。 最悪の条件が重なった大規模火災にも関わらず、なんとか被害を食い止める事が出来た。 その裏には…街を愛し、街のために戦った多くのヒーローたちの存在があった。

糸魚川市を襲った大規模火災。 消防隊員らによる懸命の消火活動の末、発生から約30時間後、火は鎮火した。
この大火災で、犠牲者が一人も出なかった要因について、吉郎さんはこう話してくれた。
「糸魚川の住民みんなに協力してもらったけど、一致団結して、消火に協力して頂いたというのが一番じゃないですかね。」

後日、木島さんが経営する『協栄産業』社員一同に対し、被害拡大の防止に尽くし、消火活動の推進に大きく貢献したとして、感謝状が贈られた。
そして息子・嵩善さんには、今回の消化活動を通じて、印象に残っていることがあるという。
「知り合いで消防団で消火作業に当たっている方も、作業中、見かけるんですよね。その時の表情見ていると、やっぱり皆さん同じ想いだな、というのも感じていて、少しでも被害を食い止めたいという想いで、皆さんやってくれたと思いますし。消火・鎮火し終わって被災地見た時に、この街を何とか元どおりに復興していこうと思った方もいらっしゃいますし。あの火事を通して、地域の絆というのをすごく私自身は感じましたね。」

嵩善さんは現在、糸魚川市の復興に向け、様々な活動に参加している。
さらに火災直後、ある出来事が…
「そのタイミングで実は子供が生まれたんですよね。この子供が糸魚川大好きだなと思ってもらえる街に、僕はしなきゃいけないなと思っていて、今の親世代の方々が私たちのために、街を盛り上げようとしてくれていたように、今度は私たちが街を盛り上げて、子供達が糸魚川好きだな、この街いたいな、東京出ても、また戻ってきたいなとか、そうした想いを少しでも持ってくれたら、僕は嬉しいなと思うので、そうした街に僕たちはしていきたいなと思っています。」