今から43年前、福岡県北九州市小倉。
発端はその年の11月7日のことだった。
この日、ある女性が警察に相談に訪れた。
彼女の名前は、鷹野清美(仮名)。
彼女の夫が3日も帰ってこないという。
行方が分からなくなっていたのは、市内屈指の大病院・鷹野総合病院の院長、鷹野秀樹(仮名)。
例年、北九州市の高額納税者番付の上位に名を連ねる、地元の名士であった。
3日前の午後9時頃、鷹野院長は誰と会うかは妻に言わず、外出したという。
そして、翌日の午前9時頃…夫から電話がかかってきて、こう言われた。
「現金を2000万か3000万円準備してくれ。それを『ホテル・ニュー奥村』のロビーに持って来てくれ。」
違和感を覚えつつも、妻は銀行でお金を下ろすと、言われた通りホテルのフロント係に現金を預け、預かり証をもらって帰宅した。
その日の夕方、無事に夫が受け取ったか心配になり、ホテルに確認の電話をしたのだが、夫は受け取りに来ていないという。
若い男性が受け取りに来たのだが、預かり証を持っておらず、身分証の提示もなかったため、ホテル側は渡さなかった。
結局その日、鷹野院長はホテルには姿を見せず、妻が現金を引き取った。
以来、夫からの連絡はなく、帰宅する事もなかったため、警察に相談しにきたのだという。
この話を聞いた警察は、事件性を認め、直ちに捜査を開始。
鷹野は大病院の院長としてだけではなく、夜の街でもその名を知られた人物だった。
いつも高価な一流品を身につけ、時間があれば、部下や知り合いを引き連れ、歓楽街で飲み明かす。
朝まで帰ってこない事も度々あった。
毎月の支払いは、多い時で500万円にものぼったという。
そのため妻は、大金ではあったが、電話の時点で大きく驚くことはなかったという。
警察はまず、ホテルに現金を受け取りに来た男性がどんな人物だったのか、ホテル側に聞き込みを行った。
男性は、20〜30代くらいで、スーツを着たセールスマン風だったという。
そして、預かり証がないと渡せないと伝えると、そのまま帰っていったという。
その後、捜査は一向に進展することなく…失踪から6日目、警察はこの事実をマスコミに公表。
新たな情報が寄せられることを期待した。
その5日後、院長の居場所は予期せぬ形で判明する。
漁師があるものを発見した。
それは、針金やナイロンロープで巻かれていた。
毛布の下にはビニール袋。
中には…何かがガーゼで巻かれていた。
ガーゼの下から出て来たのは、死体だった!
発見場所は北九州市から100キロも離れた、大分県・国東(くにさき)半島の東岸。
遺体は頭部と足がなく、胴体と両手のみ。
指紋を調べたところ…鷹野院長の遺体である事が判明したのだ。
遺体発見後、福岡県警と大分県警による、合同捜査本部を設置。
そして、マスコミもこの事件を大々的に報道。
地元の名士がバラバラの遺体で発見された事実は、世間を震撼させた。
捜査員が事件解決の糸口として、まず目をつけたのは、海に遺棄した際、遺体を包んでいたものだった。 その流通経路から犯人につながる情報を探ろうとした。 すると…毛布にクリーニング店のタグがついていた。
そこで警察は、北九州市一帯のクリーニング店をくまなく回り、どの店のタグなのか確認しようとした。
だが…その数、なんと912店舗。
所轄の刑事にも応援を頼み、しらみ潰しに当たり、ついに店をつきとめた。
そして、毛布の持ち主は安村釣具店の安村省吾と判明。
捜査員は、この男の素性を徹底的に洗った。 安村は当時33歳。 結婚し、妻と共に店を切り盛り、経営は順調のようだった。 だが、その一方で…頻繁に飲み歩いていること、そして愛人の存在も判明した。
しかも、ホテルに現金を取りにきた男とも年代が一致する。
釣具店の店主なら船を手配するのも容易だと考えられた。
警察は鷹野院長と安村の接点を調査することにした。
しかし、いくら調べても、二人の接点を見つける事は出来なかった。
安村と同時に、捜査員は鷹野院長の交友関係も徹底的に洗っていた。
結果、24名もの疑わしい人物が浮上。
しかし、いずれも当日のアリバイがあるなど、事件との関係性は認められなかった。
そして、有力な情報が得られないまま…遺体発見から9日が経過。
捜査本部に泊り込む日々が続いた。
そんなある日のこと…「血の付いた絨毯を取り替えたという男がいた」と通報があった。
朝になるのを待って、捜査員はある人物の元を訪ねた。
インテリア業を営む、坂田正夫(仮名)。
坂田は血がついていたと言ったのは、話を大袈裟に言っただけで、本当は酒で汚れたから、取り替えて欲しいと依頼されただけだと、警察に説明した。
その依頼主は、スナック『アマゾン』の経営者、小坂圭介(仮名)。
警察は坂田から、交換した絨毯の一部を受け取り、本当に血液が付着していないか鑑定に出す事にした。
小坂圭介は、鷹野院長の知人だった。 捜査員は遺体発見後、院長の妻・清美にも夫の交友関係について詳しく聞いていた。 清美によると、院長は小坂を可愛がっており、家にもよく連れてきて、朝まで飲んでいたという。 さらに、行方不明になる少し前にも、2〜3回、小坂と電話をしていたという。
そして、遺体発見から14日後。
警察は小坂の元を訪ねた。
小坂は聞いてもいないのに、鷹野院長と最近は会っていないと主張した。
小坂は安村と知人だった。
行方不明になった日は、安村とスナックで一緒に飲んでいたという。
さらに、5日から9日まで、釣具店を営んでいる安村と一緒に四国に釣りに行っていたという。
インテリア店の坂田から預かった絨毯については、鑑定で血痕が付着していないことが明らかとなった。
警察は安村と小坂が共謀して鷹野院長を殺害したと睨んだ。
翌日から、安村と小坂の2人について徹底的に調べた。
すると小坂の店の水槽は、釣具店を営む安村から購入したものであり、それを機に知り合った仲であることが判明した。
さらに、小坂も安村同様、愛人に貢ぐなどで金に困っている可能性が考えられた。
さらに…聞き込みの結果、行方不明になる少し前、鷹野院長が小坂に電話をして「4日に食事する場所は君が探してくれるか?」と言っていたことが判明。
この証言により、鷹野院長を誘い出したのは小坂である可能性が高まった。
一方、同じ頃、小坂の『5日に四国に行った』という証言の裏付け捜査も行われていた。
すると、5日の午後10時、小倉から松山に向かうフェリーに乗船していた事が判明。
その際、安村の車で乗り込んでいた。
そこで捜査員は、事件当時、実際にフェリーを操縦していた船長から話を聞いた。
5日の深夜帯にフェリーから海へ物を投げ入れた場合、どこに漂着する可能性が高いか聞いたところ…大分県の国東半島の東岸に漂着する可能性が高いと言う。
そこはまさに、鷹野院長の遺体が発見された場所だった。
当時のフェリーの船長の話…そして、遺体が漂着した場所から、二人は死体を遺棄するためにフェリーに乗った可能性が高いと考えられた。
さらに…遺体に巻かれていたナイロンロープは、安村の釣具店に卸されていたものだと判明。 だが、毛布もナイロンロープも、事件前に捨てたとか盗まれたと言われてしまえば、どうしようもなかった。
もう一点、不安になることがあった。
現金が預けられたホテルのフロント係に、安村と小坂の写真を見せたのだが、二人とも違う気がすると言われていたのだ。
警察は、もう一度、小坂の店の絨毯を張り替えた、坂田に話を聞くことにした。
すると、坂田は…本当は小坂から、泥棒が入り、その泥棒が怪我をして、血で絨毯が汚れたと連絡があったと証言をした。
店に行ったところ、小坂はおらず、彼の愛人のホステスが待っていたという。
坂田は、血がついていた部分だけ張り替えたところ、翌日、小坂から電話があり、全部張り替えてほしいと言われたという。
さらに、張り替える前の絨毯は、小坂がわざわざ取りに来て、自分で焼き捨てると言って持ち帰ったという。
坂田は、小坂に口止めされていたため、警察には小坂が持ち帰らなかった血がついていない箇所の絨毯を渡していたのだ。
この証言により、安村と小坂、2人が犯人である可能性は確実に高まったものの…物証はなく、まだ決定的とまでは言い切れない。 そんな中、警察は捜査の過程で、鷹野院長殺害よりも以前に発生した恐喝未遂事件に2人が関わっていたことを突き止めた。 そしてこの恐喝容疑で、安村と小坂の逮捕に踏み切ったのだ。
取り調べで警察は、2人を恐喝容疑だけでなく鷹野院長殺しの罪でも追及した。 だが、2人はいずれの罪についても全面否認。 逮捕はしても、このままでは起訴できない可能性がある。
捜査員は事件につながる証拠を見つけ出すべく、小坂の店の徹底捜索を行った。
その一方で、遺体を覆っていた毛布やビニール袋、ロープなどから新たな物証を見つけられないか、再度 調べ直す事に。
勾留期限はおよそ一ヶ月、それまでに起訴するに足る証拠を見つける必要がある。
遺体発見から3ヶ月近く…のべ6700人が投入された異例の大捜査。
そして…小坂が経営するスナックから鷹野院長と同じ、AB型の血液が検出された。
さらに、院長の遺体を包んでいたガーゼから 毛髪が発見された。
当時は、まだDNA鑑定が捜査に用いられていない時代。
しかし、毛髪から得られた血液型や髪の太さ・染色とパーマの状態から、安村の妻のものと見てほぼ間違いないという鑑定結果が出たのだ。
こうして安村と小坂は、全てを語り始めた。
2人は6歳の年の差はあったが、知り合ってから頻繁に飲み歩く仲に。
互いに自営業、家庭を持ちながら愛人がいるという共通点もあった。
そして、どちらが言い出したかは不明だが、遊ぶ金を得るため鷹野院長を脅し、現金を強奪、口封じのために殺害するという綿密な計画が立てられた。
実行の数日前、小坂が鷹野院長を誘い出し…そのまま監禁。
持っていた現金95万円を奪った。
「こんな事をして、タダで済むと思ってるのか」という鷹野院長の言動に怒りを覚えた小坂は、突発的に左脇腹を刺した。
それでも2人は、鷹野院長にまだ意識があったことから、当初の計画を変更することはなく、妻に現金を用意して指定したホテルまで持ってくるようにと伝えさせた。
そして、現金を受け取るため、ホテルに向かったのは小坂だったが…生やしていた口髭を剃り、安村の妻が持っていたウィッグを付け、変装して出向いた。 そのためホテルのフロント係は、写真を見せられても、同一人物だと見抜けなかった。 しかし、預かり証を持っていなかったので、現金は受け取れず、鷹野院長に電話して渡すように説明して貰おうにも…この時すでに院長は電話に出られる状態ではなかった。
もはや現金を奪う事は出来ない、そう思った2人は当初からの計画は狂ったものの…犯行の露見を防ぐため殺害を実行。
その後、運搬しやすい様に遺体をバラバラに切断した。
小坂が変装用に着けていたのは、安村の妻のウィッグ。
そこに付いていた彼女の毛髪が、遺体を巻くガーゼに落ちたと推測される。
その日の夜、海に遺棄すれば見つかる事はないと考えた2人は、車に遺体を乗せフェリーに乗船。
警察の推測通り、深夜、バラバラにした遺体を海に投げ入れた。
そして、その後行われた裁判では…遊ぶ金欲しさに綿密な計画を立て、殺害。
さらにあまりにむごい方法で遺体を処理するという、その残虐性から両者ともに死刑判決。
1人の被害者に対し、2人の被告に死刑判決が下るのは極めて異例だった。
彼らは警察に疑われても、殺人の証拠は何一つ残していない。 自供しない限り逮捕はされない、そう思っていたという。 しかし、事件を解決するため捜査に当たったのべ6700人もの捜査員たちの執念により、2人の犯行は白日の元に晒されたのである。
日本犯罪史上、未曾有の凶悪犯罪を企んだ殺人鬼。
だが、当時 事件を取材した記者は、今回、我々に対しこんな話をしてくれた。
この記者は、事件前からスナック『アマゾン』の常連であった。
小坂は、明るく・朗らかな印象の男であり、『ヒゲのマスター』として、その界隈では有名だったという。
彼には、今なお忘れられない出来事がある。 恐喝未遂容疑での逮捕前、小坂と安村両名と喫茶店で1時間半ほど会話した。 おそらく、自分たちが逮捕されるかもしれないという情報を入手しており、その真偽を確かめるべく接触してきたようだった。
その日は雨、小坂は時折、雨が当たる窓を見つめていた。
何かを後悔している…そんな表情に感じたという。
逮捕後、警察署に報道陣が詰め掛けた際、小坂はこの記者の顔を見るなり、急に涙ぐんだ。
それが印象に残っていると語ってくれた。
もしかしたら、安村と出会った事で、小坂の中にあったちょっとした欲望が膨らみ、彼自身を凶悪な犯行へと駆り立ててしまったのでは…そう 記者は感じたという。
獄中、小坂は店を処分して得た300万円を遺族に渡そうとしたが、拒否されたため、犯罪被害者を支援する団体へ寄付したと言われている。