6月30日 オンエア
家族の中で唯一耳が聞こえる少女 歌となり日本中に広がった親子の絆
 
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今から9年前、広島県広島市。 この日吉冨(よしどみ)さくらは、運命の転機を迎えようとしていた。
友人から芸能スクールの所属生募集のチラシを見せられた。 幼い頃から、芝居や踊りが大好きだったさくら。 5歳の頃から、ミュージカルやダンスを習っていた。

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さくらは、芸能スクールの入学オーディションを受けても良いか両親に相談した。 実は、さくら以外の家族は耳が聞こえなかった。
これは、家族の中でただ一人聴こえる少女が、母と共に夢を追いかけるストーリー。 歌となり日本中へと広がった「親子の絆」とは?

今から23年前、広島で生まれた さくら。 家族は、自動車メーカーで塗装の仕事をする父と、母のひとみ、2人の姉の5人。 聴覚の障がいは、必ずしも遺伝するわけではなく、家族で初めての耳が聞こえる子供だった。 母のひとみは、聞こえる子供の育て方がわからず、不安で一緒にいる事が多かった。

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そんな母が大好きだったさくらは、いつも母について歩き、率先して手話通訳を行っていた。 手話は手の動きだけでなく、表情も使い意思疎通を図る。 二人はいつも向き合い、言葉を交わしていた。 家では、耳が聞こえない家族の代わりに病院や役所などへの電話もさくらが行っていた。

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そして、中学2年生になった時、芸能スクールの入学オーディションを受けることに。 すると…見事、合格。
芸能スクールでは、ダンスなどのレッスンを受ける他、生徒同士でユニットを組み、アイドルイベントなどの予選にエントリー。 仲間たちと共にコンテスト突破を目指す事となる。

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そして翌年、母ひとみは、レッスンに通いはじめた娘を迎えに訪れた時、他の生徒の親の様子を目の当たりにした。 多くの生徒が、本気で芸能の夢を追いかけていた。 親たちも、子供の夢を叶えてあげたいと出来る事を模索し、親子二人三脚でレッスンに励んでいた。
ダンスが出来たさくらだったが、周りのレベルは予想以上に高かった。 その為、毎日の様にレッスンに通うだけでなく、自宅では母ひとみも協力し、日夜ダンスの練習に励んでいた。

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だが、母ひとみは、歌がうまいとはどういう事なのかよく理解できず、練習が必要な理由がわからなかった。 さくらは、母に余計な負担をかけたくないと、歌の練習を1人で行っていた。 周りが親子で一緒に努力する中、大切な娘のために、してあげられる事が何もなかった。
さらに、知らない間に親同士で話が進んでしまう事があった。 だが、それ以上に辛かったのが…さくらの歌声を聞くことができないことだった。

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ユニットメンバーの親たちの間では、活発な意見交換が行われていた。 コンテスト突破は容易な事ではなかったからだ。
ひとみは、娘の為 音楽や芸能のことについて必死に勉強していたのだが、わからない言葉が次々と飛び交った。 さらに、母親同士の気を遣うやりとりの中、誤解の無いように思っていることを伝えることも大変で、議論のスピードについていけず、会話に入る事が中々出来なかった。

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そんなある日、レッスンが終わった後、さくらは他の親たちに呼び止められ「あなたのお母さんは活動の足枷になるわ」と言われたのだ。
母は頑張ってくれていた。 聴こえない事で、少しついていけなかっただけ。 自分のせいで 大好きな母を傷つけてしまった。

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もう辞めようというひとみに、さくらは「お母さんは もう顔を出さなくていい。だから 続けさせて欲しい」」とお願いした。 そして「聞こえないからって こんなの おかしいよ。私は 負けたくない」」とひとみに伝えた。
こうして芸能スクールを続ける事になった。 スクールには、丁寧に接してくれる人もいたが、ひとみは人が集まるロビーなどに顔を出さなくなった。

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その後、さくらは様々なオーディションにチャレンジ。 モデルなどの仕事を勝ち取って行き、高校2年生の時には、新たに参加したユニットで日本最大級のアイドルイベント『東京アイドルフェスティバル』にも出演。
さらに努力を重ねていった。 そして高校2年生の秋には、芝居の道に進みたいという思いが強くなっていた。

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そんな時、一本の電話が掛かってきた。 それは、少し前にオーディションを受けた芸能プロダクションからのものだった。 残念ながら、その選考からは漏れてしまったのだが…芸能プロダクションが運営する高校に学費免除の特待生として転入してこないかという誘いだった。
その高校に転入すれば、念願だった芝居を高いレベルで学ぶことができた。 さらに高校卒業後、事務所に所属するチャンスも大幅に広がるため、今転入すれば、夢に大きく近づく事になる。

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さくらは、母に相談した。 その高校は、広島から遠く離れた東京にあった。 転入するには、数ヶ月後に上京する必要がある。 ひとみは、娘の幸せを願い、転入を認めた。

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だが、上京を控えたある日、彼女は娘から信じられない事を告げられる。 さくらが、あるアーティストのライブに出演するというのだ。
そのアーティストとは…手話とダンスを交えて歌を届ける二人組ユニット、ハンドサイン
実は、彼らのファンだった二人。 ライブを見に行った際、懇親会で話した事をきっかけに、さくらは彼らとSNSで繋がっていた。

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実はこの3ヶ月ほど前、さくらは芸能スクールの所属生が出演するライブイベントで、歌いながらの手話を披露していた。 そのことをSNSで知ったハンドサイン。 さらに、さくらが間も無く上京すると知り…お母さんへ向けて曲を披露しないかとオファーしたのだ。

さくらさんはこう話してくれた。
「私がスクールに入って(お母さんが)本来だったら入らなくてもいい聞こえる世界に飛び込んで苦労した部分もあるんですけど、お母さんには 分からない世界だけど受け入れてくれた事にすごく感謝してます。『ありがとう』っていう気持ちを込めてパフォーマンスで伝えました。」

ハンドサインのTATSUさんはこう話してくれた。
「親子の愛って 本当に素敵なんだなと思って、この二人の物語を一個の曲と映像にしたら、すごく世の中の人たちに愛が伝わるんじゃないかなと思って、作ろうと思いましたね。」

さくらさんはライブの8日後に上京。 芸能の高校で1年間勉強に励んだ後、その努力が認められ、大手芸能事務所に所属が決まった。
昨年6月には、日本・イギリス・バングラデシュ三カ国、共同制作の舞台に出演するなど、現在も夢に向け邁進している。 そして、今もハンドサインのライブに度々出演し、自身がモデルとなった曲を共に披露している。

さくらさんとひとみさんの実話をもとに作られ、親子の愛を歌った楽曲『この手で奏でるありがとう』…どの様な反響があったのだろうか?
TATSU「YouTubeでミュージックビデオを配信してるんですけど、海外の方からのコメントってものすごく多いですね。そういう家族の愛みたいなものって世界共通なのかなと思いますね。」

そしてこの曲に込められた想いについて聞いてみると。
TATSU「僕の母は、母子家庭で僕を育ててくれたんですけど、さくらちゃんの年代の時って、多分お母さんにありがとうなんて気持ちはなくて、お母さんにしてもらったことに対して当たり前じゃんと思ってたら、ありがとうも言えないと思いますし、逆もあると思うんですよね。」

SHINGO「僕もやっぱり、13歳で父親を亡くしまして、母親が僕と妹をずっと育ててきた中で、自分もやっぱりいっぱい迷惑かけてますけど、なかなかありがとうって伝えられなかったので。」

TATSU「このMV『この手で奏でるありがとう』見てもらって、愛があるって事は当たり前じゃなくて、改めて感謝の気持ちをありがとうで伝えよう、そんな事を僕は伝えられればいいかなと思ってますね。」