4月14日 オンエア
ロコ・ソラーレ誕生秘話
 

今年、2月に行われた北京オリンピック。 この種目・日本初となる銀メダルを獲得した女子カーリングチーム『ロコ・ソラーレ』。 彼女たちの活躍と、その印象的なスマイルは、コロナ禍で沈みがちな我々に大きな喜びと希望をくれた。
そんなロコ・ソラーレの本拠地は…人口4000人に満たない、北海道北見市常呂町。 サロマ湖とオホーツク海に面した漁業と農業の町である。
メンバーの鈴木夕湖吉田知那美夕梨花の姉妹は、この常呂町出身であり、さらにチームの司令塔を務めた藤澤五月も同じ北見市内の出身である。 世界の競合がひしめくオリンピックで一体なぜ、小さな町の地元住民で構成されたチームが銀メダル獲得という快挙を成し遂げることができたのか? そこにはカーリングという未知の競技を日本で普及させた一人の男の情熱と、その思いを受け継いだあるスター選手の故郷への強い想いがあった。

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カーリングが誕生したのは、今から500年以上前のスコットランドと言われる。 その後、カナダやアメリカでは冬のスポーツとして、定着していったのだが…日本での普及のきっかけとなったのは今から42年前、北海道池田町での講習会だった。 そこに160キロ離れた常呂町から参加していたのが、酒店を経営する、小栗祐治
新しもの好きだった彼は、聞いたことのないスポーツの講習会と知り、駆けつけたのだ。 講習を受けて、小栗は「こりゃ、常呂町にもってこいの娯楽になるぞ」と思った。
小栗がそう思ったのには理由があった。 常呂町は、冬になるとマイナス10度を下回ることもある極寒の地。 海も地面も凍りつき、漁業も農業もできなくなる。 人々は出稼ぎに行くか、家に閉じ籠ることしかできず、町には活気がなかった。 町を盛り上げるには、新しい何かが必要だと常々思っていたのだ。

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小栗は、講習会でカーリングについての様々な情報を聞き出すと…さっそく常呂町に戻り、町民を集めて、カーリングを紹介した。
本物のストーンは海外から取り寄せる必要があり非常に高価だ。 そこで墓石工場でビヤ樽などカットしてもらい、取っ手を付けた手作りのストーンを用意した。 また、氷の表面をスイープするブルームは、竹箒や掃除用の毛ブラシで代用した。

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小栗は町民をその気にさせるのがうまかった。 デモンストレーションを続けているうちに、噂を聞きつけ、長い冬に退屈していた者たちが集まり始めた。 女性や子供、高齢者にもできるとあって、参加者は徐々に増えていった。
そうなると、問題は場所だった。 最初は屋外スケート場などを使っていたのだが、参加者が増えていくにつれ専用のリンクが必要になったのだ。

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小栗はさっそく、町の人々に協力してもらい、交代制でリンク作りに着手した。
氷は一度に大量の水を入れて作ろうとすると、上から固まって行くため、気泡ができたり、表面が凸凹になってしまう。 リンクとして使用できる氷を作るには、30分おきに少しずつ水を張っては固め、張っては固めという作業を繰り返さねばならない。

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それには徹夜の作業が必要だった。 さぞや不満が噴出するかと思いきや…自然と町民同士の交流が生まれた。 冬場、家に閉じ籠りがちだった町の人々にとっては、思わぬ楽しみとなったのだ。
その後、小栗は常呂カーリング協会を設立。 町役場にかけあい、海外からストーンなどのカーリング用具一式を取り寄せたり…カナダから世界チャンピオンを招いて講習会を開いたりと、精力的な活動を何年も続けるうちに、小栗は日本カーリング界の第一人者として、本場カナダの雑誌に取り上げられるまでになった。

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そして、この頃から、小栗は次なる夢を見るようになる。
カナダでカーリングをオリンピック種目にするように働きかけていると聞き、常呂町からオリンピック選手を輩出できるかもしれいないと考えたのだ。 町民たちからすれば、小栗の言葉は雲を掴むような夢物語にしか思えなかった。
しかし、小栗がカーリングを常呂町に持ち込んでから7年後、競技の国際的な盛り上がりもあって、日本でも国体でカーリンが実施されることになった! その会場として、長年独自のカーリング文化を育んできた、小栗のいる常呂町に国内初の屋内カーリング場が建設されたのだ!

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その後、常呂町ではその施設を使い、小学校の授業でカーリングが取り入れられるようになった。 さらに、中学、高校でも採用されるようになり、子供たちの間にカーリングが浸透していった。
小栗はこのチャンスを見逃さなかった。 運動神経の良い子を見つけると…カーリングを始めるようにその親たちを説得して回ったのだ。 熱心に教える小栗の事を子供たちは『小栗のおじさん』と呼び、慕った。

そして、そんな活動を初めてからおよそ10年の月日が流れたころ…ついに小栗が長年抱き続けたあの夢が現実となる。
長野オリンピックで、カーリングが初めて正式種目に採用されることになったのだ! そして、オリンピックの日本代表選手10人の中に常呂町出身者が5人も選ばれたのである。 その全員が小栗の愛弟子だった。 町からオリンピック選手を出し、町を活気づける…小栗の夢が叶った瞬間だった!
その後も常呂町は、オリンピック選手を次々に輩出。 そしてオリンピックでの日本チームの活躍により、マイナースポーツだったカーリングの注目度も飛躍的に上がっていった。 小栗の情熱は、着実に身を結んでいた。
だがそんななか…今から12年前、常呂町出身のオリンピック選手が下した、ある決断が大きく報じられた。 彼女の名前は本橋麻里
12歳の時、小栗に見出されてカーリングを始めた本橋は、メキメキと頭角を表すと、19歳の若さで当時日本最強だったチーム青森に加入、最年少メンバーとしてトリノ、バンクーバーと2度のオリンピックに出場したスター選手だった。
だが、バンクーバーオリンピックの終了からわずか半年後、本橋はチーム青森を離れ、地元の常呂町で新チームを結成すると宣言したのだ。

しかし、彼女はこの時24歳、一体なぜ選手としての全盛期を迎えるこのタイミングで新たなチームを作ることにしたのか? そこには常呂町でカーリングと出会い、常呂町から世界に羽ばたいていったものにしかわからない複雑な思いがあった。 それは、多くのオリンピック選手が聖地・常呂町の出身でありながら、その常呂町に世界を目指すチームが存在しない、ということ。
実はチームを強化し世界と渡りあっていくには、練習時間や場所の確保のほかに、海外への遠征費など莫大な費用がかかる。 したがって、当時の日本にあったカーリングの強豪チームは、そのほとんどが都市に本拠を構える実業団チーム。 人口4000人に満たない常呂町に大企業などあるわけもなく、選手たちは競技を続けるために、地元を巣立って行かなくてはならなかったのだ。
できることなら、生まれ育ち、カーリングと出会い、カーリングが好きになった常呂町で戦いたい。 そんな思いから、彼女が作った新チーム、それが『ロコ・ソラーレ』だった。
ロコは『常呂っ子』のロコ。 ソラーレはイタリア語で太陽を意味する。 『常呂町から太陽のような輝きを持ったチームを』という願いを名前に込めた。

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だが、問題は山積みだった。 常呂町に大口のスポンサーはない。 彼女は小口のスポンサーを多く集めるため、慣れないスーツに着替えて北海道中を奔走、支援を呼びかけた。
また結成メンバーには、後にメダリストとなる当時高校生だった、吉田夕梨花や、高専でバイオを研究しカーリングを続ける予定ではなかった鈴木夕湖の姿もあった。 だが、日本のトップレベルで活躍する有力選手たちは、すでにほとんどが都市部にある強豪チームに所属していたため、チーム結成から数年は苦戦が続いた。

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強くなってオリンピックの代表に選ばれなければ、スポンサーも集まらない。 本橋には焦りに近い思いもあった。
ところが、ある日、支援を募りに行った企業の担当者から聞かされた意外な言葉が、彼女の考えを大きく変えることになる。
「オリンピックだけのチームじゃスポンサーになれません。オリンピックが終わっても、地元に長く残り続けるチームじゃなくては」
求められていたのは、強さだけではなかった。 オリンピックは4年に一度、そこでだけブームになっても、本当の意味で街の活性化には繋がらない。 彼の言葉に打たれた本橋は、チームの強化だけでなく、地元のイベントやカーリング教室にも力を入れていく。 この街の選手やここで暮らす人々が長く、楽しく、カーリングをずっと続けていけること…それが最終的な目標であると、改めて気づかされたからだ。

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そして、チーム結成から4年が経ったある日のこと…本橋は、その時地元に帰ってきていたある選手と喫茶店で会っていた。 それが、今回のオリンピックでも、天真爛漫な笑顔で日本中を魅了した、吉田知那美だった。
その年、吉田は所属する札幌の北海道銀行フォルティウスで日本代表となり、ソチオリンピックに出場。 活躍を見せたものの…大会終了直後にチームから戦力外通告を受け、失意のまま地元に帰ってきていたのだ。

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吉田は、このとき、カーリングから離れることも考えていたという。
そんな彼女に本橋は…強さだけを追い求めるだけではない、地元に根付いた活動を大切にするチームコンセプトを伝えた上で、『カーリングをもう一度、楽しもう』と、吉田を誘ったという。 こうして、吉田知那美がロコ・ソラーレに加わった。

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そして翌年…また一人、傷つき地元に戻ってきた選手がいた。 今や世界のフジサワと称される、日本の司令塔、藤澤五月である。
藤澤は、ジュニア時代から天才と呼ばれ、強豪・中部電力のエースとして活躍していた。 だが、一人で全てを背負い込んでしまう性格から重圧に耐えられず、ソチオリンピック出場を逃すと、エースとしての責任感から中部電力を退社。 失意のままチームを去り、地元に帰っていたのだ。

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そして本橋はここでも、「さっちゃんも入らない?私たちはもう先に進んでるよ」と藤澤を誘った。 こうして藤澤もチームに加入することになった。
だが実は、藤澤を加入させたという事実は、本橋にとっても重大な決断をせまるものだった。 本橋と藤澤は同じ司令塔、スキップというポジションを務めていたのである。 天才と呼ばれる藤澤を誘う以上、試合に出るのは藤澤になる。 つまり自分が作ったチームにも関わらず、試合に出場する機会を失うことを意味していたのだ。

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プレッシャーを感じる藤澤に、本橋は「さっちゃんのやりたいようにやればいいんだよ」と声をかけた。 ロコ・ソラーレでは、エースが一人で責任を背負い込まなくていい。 チームには、かつて所属先がなかったり、続けるか悩んだりと、カーリングで苦しみを味わったメンバーばかり。 みな、カーリングの辛さを知っているからこそ、誰よりも「楽しむこと」の重要性もわかっているのだ。
こうしてオリジナルメンバーの吉田夕梨花、鈴木夕湖に吉田知那美と藤澤五月を加えた4名。 それにリザーブとしてチームを支える本橋という、第二期ロコ・ソラーレの快進撃が始まった。

2016年、日本選手権で初優勝を果たすと、次の年も2位に入り、ついに2018年に開催される平昌オリンピック出場をかけて、藤澤がかつて所属していた強豪中部電力との日本代表決定戦に挑む事になったのだ。
ロコ・ソラーレ、そして常呂町の悲願まであと1勝。 だが、その最終決戦を4ヶ月後に控えたある日、チームに衝撃的な知らせが舞い込んでくる。

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常呂町にカーリングの礎を築いたあの小栗祐治さんが、闘病の末…帰らぬ人となったのだ。 その悲しみは、彼女たちにとって計り知れないほどの大きさだった。
実は本橋だけでなく、ロコ・ソラーレのメンバー全員が幼い頃から、小栗さんと交流があった。 彼女たちは小栗さんが亡くなる少し前、見舞いに訪れた病院で、『ロコのオリンピック出場が、俺の最後の夢だ』と声をかけられていた。

訃報を受け、チーム全員が同じ思いを抱いた。 必ずオリンピック出場を果たし、その姿を天国の小栗さんに見せるのだと。
そして、そんな思いを抱えて望んだ代表決定戦で、彼女たちは見事勝利を収めた。 長年選手を輩出するだけだった聖地・常呂町のクラブチームがついにオリンピックの出場権を獲得したのだ。
そして迎えたオリンピック本番でも彼女たちの躍進は止まらなかった。 世界の強豪を次々と撃破。 そして3位決定戦、強豪イギリスを破り、銅メダルを獲得。 日本中にカーリングブームを巻き起こしたのである。

常呂町はこれまで以上に沸き返った。 凱旋パレードでは、人口4000人の町に1万5000人が集まった。
そして、5人は小栗さんの墓前に報告に出向いた。 すべての礎を築いてくれた小栗さんの最後の願い。 自分たちのオリンピック出場とメダルの獲得によって、地元はもちろん、日本中の人たちにカーリングの面白さがわかってもらえるようになったことを最大限の感謝の気持ちと共に伝えた。

さらに4年後の今年行われた北京オリンピック。 彼女たちは再び快進撃を続けると…銀メダルに輝く快挙を成し遂げた。
北海道の小さな町で生まれたチームが、世界の檜舞台でさらなる飛躍を見せたのだ。

全ての始まりを作り出した小栗のことを、本橋は親しみを込めてこう語っている。
「常呂町にカーリングをもってこようとした小栗さんはバケモノ。かなわない…」
だが、ロコ・ソラーレのメンバーたちは…今回はリザーブメンバーからも外れ、日本で応援していた本橋に向かってカメラ越しに何度も手を振った。 さらに藤澤は右手に「麻里ちゃん」という文字を書いて試合に臨むなど、今や彼女たちにとって、本橋の存在こそがかけがえのないものになっている。
誰よりも常呂町を愛した一人の男のバケモノ級の情熱。 そしてその遺志を受け継いだスター選手によって繋がった、情熱のバトンはこの先も確実に受け継がれていくだろう。