4月14日 オンエア
バズったアレの秘密SP Part 3
 

【友人の嘘がなければこの世に生まれなかったあの超有名バラードとは!?】

photo

中学生の時にラジオから流れてくる音楽に励まされ、ミュージシャンになりたいという夢を抱いた青年。 その思いを家族に伝えた時に、父親からある約束をさせられてしまう。
「もし25歳までにデビューできなかったら、俺と同じ保険の営業マンになれ」
この時、彼は18歳。 25歳をタイムリミットとして音楽活動を開始した。

photo

1980年、19歳の春に上京。 曲を作りながらバイトに明け暮れる日々…。
そんな時、音楽仲間から朗報を持ちかけられる。 「レコードデビューの話があんねん!軽井沢で合宿するの、どうや?」と言われ、青年は東京でのバイトを辞め軽井沢へと乗り込んだ。

photo

だが…友人の話は全くのウソだった! 実は喫茶店のバイト要員として、青年を軽井沢に呼びたかっただけだったのだ。
彼は渋々バイトをはじめる事に…しかしこの出来事が、のちの名曲が生まれるきっかけとなる。

photo

軽井沢には青年と同じように夢を抱いた若者がいた。 彼の名前は大木誠。 青年は大木と意気投合、バイトが終わると毎晩一緒に曲作りをするようになった。 そして、夏が終わる前に、二人はあるバラード曲を完成させた。
その曲に大きな手応えを感じた二人は、東京に戻ってからも、ともに創作活動を行った。

photo

だが翌年の春、大木は音楽の道を諦め就職を決め、青年はまた一人に戻った。
それでも落ち込んではいられないと、当時大人気だったオーディション番組「スター誕生」に応募。 見事、決勝大会までコマを進めた。 決勝大会には、ほぼ全てのレコード会社や芸能事務所が原石を求めて参加していた。 だが、結果、どこからも声は掛からなかった。

photo

しかし、彼の心ははまだ折れていなかった。 今度は、音楽業界の客が多い喫茶店でアルバイトを始めたのだ。 そして、音楽関係者を見つけると、4曲のオリジナル曲が収録されたデモテープを渡し、地道なプロモーションを続けた。 だが、時代はバンド全盛期、色良い反応はなかなかもらえなかった。

photo

それでもついにある日、大手レコード会社の担当者から、デモテープの感想を聞けるチャンスを得た。 すると…「最後の曲、いいね。」と言ってもらえた。 そう評価されたのは、かつて軽井沢で大木と作ったあのバラードだった。 そして、「他の3曲は君がやるべき曲じゃない」とアドバイスをもらった。
こうして、青年の目指すべき音楽の方向性が決まり、その後も精力的にライブ活動を続けるなどプロになるために邁進。 だが、あと一歩のところでデビューできないまま、タイムリミットは刻一刻と近づいていた。

photo

そして1985年8月、青年24歳。 父との約束まであと半年という夏、彼はラストチャンスともいうべき、ある音楽コンテストに出場する。 歌ったのはもちろん、この5年間常に大切に歌い続けてきた大木との共作である、あのバラードだった。
そして、見事優勝! ついに青年はプロデビューの切符を手に入れた!

photo

そのデビュー曲こそ、今も失恋ソングの金字塔として多くの人に歌われ続けている、德永英明さんの「レイニー ブルー」。 実はこの曲でデビューが決まったとき、德永さんは大木さんに連絡し、一緒にデビューしようと誘っていた。 だが、大木さんは「音楽を職業にすると楽しめなくなりそうで怖い」と、その誘いを断ったのだという。
結果、ソロ歌手としてデビューすることとなった徳永さんだが、二人の夢だったデビューレコードの盤面には、しっかりと盟友・大木さんの名前が記されている。 その後も德永さんと大木さんはコンサート会場で顔を合わせるなど交流が続いた。

大木さんは音楽を愛し続け、数年前からは音楽活動も再開していたが…今年一月、病気で逝去。
今回、德永英明さんへの取材で、この一連の出来事について、こう回答があった。
「色々ありましたが、今となってはあの時、軽井沢へ一緒に行こうと誘ってくれた友人に感謝しています。そして何より、軽井沢で大木誠に出会えたこと、大木との出会いが無ければ、自分はミュージシャンになっていなかったかもしれない。」

【世界の名作として超有名なあのアニメは作者の故郷では全く無名の作品だった!!】

photo photo

その作品を生み出したのはイギリス生まれの女性小説家、ウィーダことマリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー
きっかけは、彼女が外国に旅行へいったとき…旅先で馬の代わりにある動物が息も絶え絶えに荷車を引く姿を目撃したことでした。 子供の頃から動物好きだった彼女はその哀れな光景に心を痛め、帰国後、一気にある物語を書きあげます。 ですが、その小説は彼女の母国イギリスや物語の舞台となった国でヒットする事はありませんでした。

photo

ところが100年後、彼女の書いたその小説は、日本では知らぬ人がいない程の名作となり、さらにアニメ化もされ、大ヒットすることになるのです。 作者の母国イギリスでは知られていない、日本における大ヒット作品、それが…みなさんご存知『フランダースの犬』
画家を夢見る少年ネロと、荷車犬だったパトラッシュの絆を描いた物語は、名作中の名作として知られ、今なお、愛され続けています。 しかし、実はこの小説は人気作家だったウィーダの数ある作品の中で、祖国イギリスや舞台となったベルギーでは全く注目されなかったものだそう。

photo

そんな作品が日本で広まるきっかけとなったのが、今から114年前に作者であるウィーダの死がアメリカで報じられた事でした。 当時ニューヨークにいた外交官の本田増次郎が、新聞でウィーダの死と小説「フランダースの犬」の存在を知り、読んでみると…大感動! 日本にいる友人の編集者に送ったところ、彼も大いに気に入り、すぐさま児童書として出版。 子どもたちに愛され、版を重ね、47年前(1975年)、欧米の児童文学を紹介するアニメシリーズ「世界名作劇場」の第一弾として放送されたところ、大ヒット。

photo

その結果…ネロがひと目見たいと願ったルーベンスの画が展示されているアントワープの聖母大聖堂に日本からの観光客が殺到! 不思議に思ったベルギーの人たちに、徐々に知られるようになったのです。 そう、超名作フランダースの犬は、日本でバズったことをきっかけに、正真正銘世界の名作となったのです!

【日本で話題をさらったあの実況を担当アナウンサーはずっと後悔していた】

photo

昨年7月東京オリンピック・スケートボード女子ストリート競技で…13歳の西矢椛(もみじ)選手が史上最年少で金メダルを獲得。
その快挙の一方、視聴者を沸かせたのが…「お〜〜ヤッバっ!ハンパないっスね〜」と、やたらフランクな解説と、この「決まった!13歳 真夏の大冒険!」という実況だった。 だが、実況を担当した倉田アナ本人によると…「申し訳ない気持ちでしかない。そんな気持ちがずーっとあります。」と言う。
いったい、なぜなのか?

photo

倉田アナがスケートボードの実況担当になったのは、新型コロナの影響で本番のわずか4ヶ月前のことだった。 だが、スケボーを見たことさえなかったド素人。 分からないことだらけだった。
実は、ストリートで生まれたスケボー競技には、採点に基準がなく、採点者の感覚に委ねられている。 教則本もないため、独学でスケボーを徹底研究。 ネットで解説サイトやプレー動画を見まくるとことで、感覚を養ったという。

photo

そしてあのフレーズが生まれたのは、女子の決勝。 金メダルの期待が掛かる、13歳 西矢選手の最後のトリックの時だった。
倉田アナはこう話す。
「あのトリックを決めて着地を成功させた瞬間になぜか13歳、真夏の大冒険ってキーワードだけがポンと出てきたんですよね。」

photo

だが、本来であれば、実況を担当する場合、本人に会うなど直接取材をした上で、キャッチフレーズなどを考える。 ところが、今回はコロナの影響で取材が一切できなかったのだという。
したがって…「嬉しい反面、他の媒体を通して得た情報しか私はなくて、直接話を聞いてないのに、しかも『13歳、真夏の大冒険』っていう勝手なキーワードを西矢選手に付けてしまって、何より本人がそのキーワードをなんだこれ!ってきっと思ってるだろうし、申し訳ない気持ちでしかない。そんな気持ちがずーっとあります。」

そこで、今回、倉田アナと西矢選手がオンラインで初対面。
勝手にキャッチフレーズをつけてしまったことを謝罪する倉田アナに西矢選手はこう言ってくれた。
「ぜんぜん大丈夫です。多くの人に私のこと知ってもらうきっかけになって嬉しいです。ありがとうございます。」
「倉田さんと瀬尻さんの実況がめっちゃ面白かったです。」

photo

西矢選手と話すことができた倉田アナは…
「ちょっと受け入れてくれてたのかなって思って少しほっとしてます。こんなこと言いやがってって思われてたら本当にどうしようって思ったけど、そうじゃなかったなって思ったんで、それがよかった。」