3月3日 オンエア
亡き祖父からのメッセージ 〜杉浦味淋〜
 

ミシュラン一つ星にも輝く割烹料理店、『銀座 ふじやま』。 旬の食材の持ち味を活かした料理の数々、コクと旨味を引き出す調理や味付けは、他の店とは一線を画すと多くの食通を唸らせている。
一方、こちらは連日賑わいを見せる人気の鰻店、『目白 ぞろ芽』。 グルメサイトで『うなぎ百名店』に選出されたこのお店。 脂ののった上質な国産うなぎに拘っているのはもとより、その濃厚で芳醇なタレが味に深みを出していると評判を呼んでいる。
実は、今紹介した2つのお店の料理には、ある共通点が! そして、そこには時を経た奇跡の物語があった!

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愛知県碧南(へきなん)市。 今から37年前、一人の若者が大学進学のため東京へ旅立とうとしていた。 彼の名は、杉浦嘉信。 実家は大正時代からある家業を営んでいた。
3人兄弟の長男である嘉信さんがその家業を継ぐと思われていたが、一浪して東京の大学へ行った彼は、卒業後、そのまま東京で酒類の卸会社に就職した。 問屋に勤めれば物流の勉強が出来る、そうすれば家業の役にも立つ…というのは建前で、彼は「絶対に、家業なんか継がない!」と思っていた。 なぜ、彼はそこまでして家業を継ぎたくなかったのだろうか?

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大正時代から続く嘉信さんの実家「杉浦味淋」。 創業者は彼の祖父である杉浦定次郎(さだじろう)さん。 定次郎さんは『愛櫻(あいざくら)』という名のみりんを丹精込めて製造し、売り歩いていた。
その後を任されたのが、定次郎さんの息子である正彦さん。 高校卒業後に、家業を継いで2代目となった。
そして正彦さんと妻の萬智子さんの間に誕生したのが嘉信さん。 自宅が工場のすぐ横にあった事もあり、小学生の頃から面白半分で仕事を手伝うようになった。

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嘉信さんの故郷・愛知県碧南市は、日本有数の『みりんの産地』。 和食を中心に使用され、料理に旨みや甘みを加え、煮崩れ防止や照りを出す効果もある、みりん。
そんなみりんの産地で生まれ育った彼は、ことあるごとに跡継ぎだと言い聞かされていた。 小学生時代は、特に気にしていなかったのだが…中学生になっても、高校生になっても繰り返される父からの跡継ぎコール。 すると次第に、反発する気持ちが芽生えるようになった。

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『家業を継ぐのが当たり前』と言われ続けた結果、継ぐ気が全くなくなっていったのだ。 だが、その事を父に言い出すことはできず、東京の会社で家業のための勉強をしているフリをし続けた。
しかし、就職3年目を迎えた時だった。 父が会社の社長を訪ねて来たのだ。 そして…それから毎週、母親から父は体がしんどそうだという電話がかかってくるようになった。 母の言葉に嘉信さんの心は揺れ動き、ついに家業を手伝うことを決意した。

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実家に戻った嘉信さんは、父のもとでみりん作りを教わりながら、販売ルートを広げるため、営業して回ることに。 『杉浦味淋』の販売ルートは大きく分けて2つ。
一つは、蕎麦店や鰻店などに卸す業務用。 もう一つは、いくつかのディスカウントショップに卸している家庭用のものであった。 だが、それにはブランド名である『愛櫻』の名はなく、製造元として『杉浦味淋』と表示されているのみであった。
しかも、父・正彦さんは、店に頼まれる度に値引きをおこなっていた。 そのため『杉浦味淋』の経営は、安定しなかった。

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そこで嘉信さんは、名古屋市内を中心に新たな販売ルートを広げ、経営を安定させようと試みたのだが、販売ルートを広げることはできなかった。
みりんの種類には、もち米・米麹・焼酎のみを原料とした伝統的な製法の『純米本みりん』がある。 しかし、この時、製造していたみりんは、焼酎の代わりに醸造用アルコールを用い糖類を加えたもの。 短期間で作ることができるため大量生産が可能だったが、味に特徴や強みはなかった。 同様のみりんを作る業者が多く、新たな買い手を見つける事はなかなかできなかったのだ。

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嘉信さんは看板になる純米みりんを作りたいと考えたが、父・正彦さんからは反対されてしまった。
こうして状況は変わることなく、実家に戻ってから11年の月日が流れた。 その間に、嘉信さんは地元で出会った女性と結婚。 さらには子供も授かった。

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そして今から19年前、37歳の時、父から跡を継ぎ、いよいよ3代目として『杉浦味淋』を背負う事となった。 すると、売上に載ってない、ウラでの値引き…父・正彦さんしか知らない帳面が出てきたのだ。 実は、父・正彦さんは、家庭用のみりんを伝表上の数字よりも値引きして卸しており、その中の3分の1は利益がほとんどなかった。 つまり、業務用の販売でどうにか保っている、ギリギリの経営状態であったのだ。

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そこで嘉信さんは、取引先に通常の値段で仕入れてほしいとお願いして回った。 だが、取引先の店で断られ続け、結果的に取引先は半分に減少。 その結果、家業を継いで一年後には、債務超過の大赤字となってしまったのだ。 嘉信さんは、いっそ看板を下ろすべきか悩んだ。

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そんな時、母から父が『杉浦味淋』を苦労して続けて来たことを聞かされた。 『杉浦味淋』の創業者、祖父の定二郎さんは、嘉信さんの生まれる遥か前、45歳の若さで心臓発作により急逝。 その時、父・正彦さんは、まだ5歳。 嘉信さんの祖母はみりん作りには携わっていなかったため、事情を知った近隣の蔵が分けてくれたみりんに自社のラベルを貼り、売り歩いていたという。

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その後、高校を卒業した正彦さんが家業を継ぎ、みりんの製造を再開。 生活のため、早く商売を安定させる必要があり、大量生産が可能な糖類を入れたみりんに絞って製造していたのだ。 高校を出てすぐに継いだため、正彦さんは経営や営業のことなど全く分からなかったが、それでも『杉浦味淋』を守るため、みりん作りも経営も基礎から必死に勉強したという。

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ある日、嘉信さんは何気なく2階のある部屋に足を向けた。 そこは物置になっていた一室。 そこで、嘉信さんの運命を変える事になる一枚の紙を見つけた。
それは…祖父が作っていた純米本みりん『愛櫻』の配合メモ。 書かれていた数値を一目見ただけで、材料を贅沢に配合していることが分かるものだった。

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このメモを見た嘉信さんは『愛櫻』を復刻させたいという思いに駆られた。 父・正彦さんも「『杉浦味淋』は、もうお前の会社だ。お前の好きにしたらいい。」と言ってくれた。
こうして嘉信さんは、祖父のメモを頼りに『杉浦味淋』の原点作りに着手。 材料は地元・愛知県三河地方の中でも一級品と名高いもち米、米麹、米焼酎に一新。 それをコスト度外視でメモのレシピ通りの配合で製造した。 そして一年後、完成したみりんは…贅沢に材料を配合したことで、他の純米本みりんと比べても甘く濃いものだった。

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早速このみりんを卸してくれる会社や、置いてくれる店などを探し歩く事に。 しかし、「これ、色濃過ぎじゃないです?」と言われ、相手にされなかった。
みりんは長時間熟成すると、色が濃くなっていく。 家庭で古くなったみりんも色が濃くなる。 他のメーカーの『純米本みりん』は、色を薄くする技術開発をおこなっているため、濃い色のまま出荷することは少ない。 しかし嘉信さんは自然に逆らわず、ありのままのみりんを味わってもらいたいという思いから、濃い色のまま販売していたのだ。

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さらに、一級品を使用し、原価が通常よりかかっているため、価格は他のみりん蔵が500ミリリットルで700円〜800円程度のところ、900円前後に設定したが、販売先は思うように見つからなかった。
そして、突破口が見つけられないまま、2年の月日が流れた。 その間、これまで通りの製造法の業務用販売の売り上げで何とか経営を保っていたが、苦しい状況に変わりはなかった。 続けるべきか、看板を下ろすべきか、日々 悩んでいた。

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そんなある日、150キロ以上離れた飛騨高山の商店であるものが見つかったと連絡があった。 それは…美しい彩色と桜の彫刻が施され、中心には『愛櫻』の文字が彫られている看板。 その横には杉浦定次郎の名が。
この看板は、嘉信さんの祖父が作り、愛櫻の広告として商店に飾ってもらったもの。 酒造メーカーが、このような看板を作る事は良くあるが、みりん蔵の看板は、ほとんど見た事がないという。

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しかし、どうすれば現状を打破できるのか、その答えをなかなか見いだす事が出来ずにいた。 祖父のメモを基に作ったみりんも、売れ残ったまま、ただただタンクの中に放置している状態だった。 そのみりんを出してみると、真っ黒になっていた。 嘉信さんは、それを飲んでみて驚いた。 甘味も旨味もさらに増していたのだ。

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嘉信さんは3年間熟成させた愛櫻を売り出すことにした。 しかし、黒いみりんは当時珍しく、売り込みをかけても相手にされなかった。
そこで、彼はある勝負に出る。 それは、千葉の幕張メッセで毎年開催されている、アジア最大級の食品・飲料の総合展示会への出展。 このイベントには、飲食関係者が何万人も訪れる。 食のプロたちに、『杉浦味淋』の味を知ってもらおうと考えたのだ。 すると、同業他社も多く出展するなか、他のみりんと比較される事で、『愛櫻』の濃い甘みが引き立ち、注目を浴びることに!

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さらに嘉信さんは、食品展示会への出展と同時期に、家庭用みりんのネット販売も開始。 始めは、月に数件注文が入るくらいだったのだが…500mLで1000円以上と高額であるにもかかわらず、何度も買ってくれるリピーターのお客さんが増えていき…いつの間にか、口コミで、『こだわりのあるみりん』だと評判になり、売り上げが伸びていったのだ!
その後も、展示会に毎年出展し続けた結果…冒頭で紹介した、ミシュラン一つ星に輝く、割烹料理店『銀座ふじやま』や、人気の鰻店『目白ぞろ芽』など、多くの料理店がその味に惚れ込み、大口の契約が次々と決まっていった。

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そして、地道な努力の結果、倒産寸前であった杉浦味淋は、見事復活を遂げたのであった。
看板を下ろすか迷っていた時、偶然発見した、祖父が書いた配合メモ。 そして『愛櫻』の看板。 話したことも会ったこともない天国の祖父からメッセージが、復活へと導いてくれたのだ。

嘉信さんはこう話してくれた。
「全て偶然です。僕が探そうと思っても探せないものですよね。偶然だったかもしれないですけど、必然に出てきたのかなと。ある意味お祖父さんが見ててくれた。背中を押してくれたのかなっていう風に、今は凄く感じています。」

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偶然出てきた祖父が作っていたみりんの配合メモ。 そして、祖父の時代の看板をきっかけに誕生した杉浦味淋の黒いみりん『愛櫻』
実は今年の2月、嘉信さんは、瓶のラベルを愛櫻の名を大きく掲げたものに変更。 文字はあの看板と同じ字体である。

祖父、そして父の想いを引き継いで『杉浦味淋』の看板を守り続ける嘉信さん。 家庭では3人の子供の父親、そんな彼にこんな事を聞いてみた。
スタッフ「お子さんにも杉浦味淋を継いでほしいなと思いますか?」
嘉信さん「僕にとっては嫌々継いだスタートですので息子に対して『みりん屋のせがれだからやれ』とか『やるのが当たり前』それは絶対言いたくないですね。僕がですね魅力あるというのか、息子が『お父さんの仕事面白いよね』『なんかやってみたい』っていう会社にするのが僕の使命なのかなと今は思っています。」