1月13日 オンエア
「大丈夫じゃない人生」を楽しく生きる
 
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私、岸田奈美。
私には4歳年下のダウン症の弟・良太がいます。 中学2年生の時に大好きだったパパが突然天国へ。 高校1年の時、今度はママが大病で長期入院。 しかも、下半身麻痺に。
けっこう大丈夫じゃない人生を送った岸田家。 だけど、私の家族は笑顔で楽しく生きています!
全然大丈夫じゃなかった岸田家が大丈夫だと思えたのには、あるきっかけがありました。 それをみなさんにお話ししましょう。

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時は14年前に遡る。
当時、奈美さんは高校1年生、母・ひろ実さんが突然病に倒れた。 大動脈解離…手術は成功したものの、その後遺症で下半身麻痺に。 一生立てる見込みはなかった。 それでも、ひろ実さんが笑顔を絶やすことはなかった。

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そんなある日、外出許可がおりた時のこと…母・ひろ実さんが「ほんまは生きてるんが辛い。ずっと死にたい思っとってん。」と言った。 自分は子供たちのお荷物でしかない、そう思うといたたまれなかった。
すると奈美さんは「死にたいなら死んでもええよ。ママが死ぬより辛い思いしてるん、私 知ってる。でも もう少しだけ私に時間をちょうだい。」と言った。 「ママが生きてて良かったって思えるように私がするから。大丈夫、大丈夫や!」と。

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奈美さんはその時のことをこう話してくれた。
「あの時『嫌だ死なないで』『頑張って』『そんな事言わないで』って言ったら、それこそ死んでしまうだろうなって思ったんです。『頑張れ』とか言っちゃうと否定することになるじゃないですか。本当にお母さん独りぼっちになっちゃうので、私にとっては悲しいという気持ちにとことん寄り添わないといけないと、野生の本能で感じた。」
それに…この「大丈夫」と言う言葉、私にとってパパから遺された一生忘れられへん言葉だったのです。

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建築関係の仕事をしていた父・浩二さん。 いつも家族にいたずらを仕掛けては、楽しそうにしていた。
さらに浩二さんは幼稚園生の奈美さんにパソコンをプレゼントした。 のちにこのパソコンが奈美さんを救うことになる。

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小学校にあがった奈美さんは、アニメや少年漫画が好きないわゆるオタク少女に。 そのため、女の子同志の話題や遊びについていけず、学校に居心地の悪さを感じていた。 すると浩二さんは、「友達はなパソコンの向こうにいくらでもおるんやで」と言って、チャットのやり方を教えてくれた。
パソコンの向こう側の人々とやり取りをすることで、奈美さんは生き甲斐を感じることができた。 どんな時も自分に寄り添ってくれる、そんな父が大好きだった。

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今から17年前、奈美さんが中学2年生の時、浩二さんは急性心筋梗塞で倒れ、2週間意識不明、そのまま息を引き取った。 落ち込む奈美さんに母・ひろ実さんが浩二さんの最期の言葉を伝えた。
「奈美ちゃんは大丈夫や。奈美ちゃんは俺に似てる。だから何があっても絶対大丈夫や」

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父がどう言う意味で大丈夫と言ったのか、それを奈美さんはずっと考え続けていた。
その後、奈美さんはネットに浩二さんとの思い出を書いた。
そうしたら…『父さん 最高だな』『そんなお父さん羨ましいな』という書き込みが…父を褒めてくれる言葉の数々に、奈美さんは救われた気持ちになった。

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そして、あの時…母・ひろ実さんに「大丈夫、大丈夫や!」と伝えた。 それ以降、ひろ実さんが奈美さんたちの前で泣くことはなかった。
高校を卒業した奈美さんは、母のこともあり、福祉とビジネスを学べる大学に進学した。 そして、在学中から働いていた福祉関係の企業に就職。

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大学卒業から6年が経ったころ退職し、心機一転、新たな道に進み始めた一昨年10月のことだった。 ひろ実さんの車が調子が悪くなり、乗り換える車を探さないといけなくなった。
実は元々ドライブが趣味だったひろ実さんは、障がいがあっても運転できる車を購入。 子供たちが学生の頃は、学校への送り迎えをすすんでするほどだった。

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どうせならボルボがいいと、ひろ実さんと奈美さんは思っていた。
なぜボルボかと言うと、浩二さんが生涯乗り続けていた車、それがスウェーデン生まれの高級車、ボルボだったから。 家族とボルボの1番の思い出は、神戸の自宅から千葉のディズニーランドまで片道700kmを往復したことだという。
しかし、浩二さんの死後、車検などの費用を考えると車を維持するのは難しく、生活のために手放すしかなかった。 そして…いつかボルボを買うことが岸田家の夢になった。

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買うつもりはなかったが、2人は近くのボルボのお店に行った。 対応してくれたのは、山内さんという男性だった。
座席が高いと車椅子から乗り移れず、横幅が大きいと駐車場で車椅子を横付けするスペースが確保できない。 そのため、ボルボでひろ実さんが乗れる車種は、1種類だけ。

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しかもこの車種はすでに生産終了で新車は国内に数台しか残っていないと告げられた。 さらに彼女たちには、車椅子用に改造するには、中古車では難しいと断られた過去があった。 価格は420万円!最後の一台ということで399万円までなら値引きできるというが…岸田家にとっては高額なのには変わりない。
しかし、奈美さんは購入を決意!

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実は奈美さんはボルボを購入する前、会社勤めをしていたころからあることをしていた。 それは、文章や写真などを配信するサイト、noteへの投稿。
家庭で起こったこと、障がいのある母と弟との日常をユーモア満点に書き綴っていた。 すると、記事をアップするたびに反響は大きくなり、閲覧数は100万回を超えるほどになった。 これをきっかけに、奈美さんは職場を退職し、作家へと転身。

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そして一昨年、初の著書を出版。 手元に入ることになっていた印税を車の購入費に充てようと考えたのだ。 こうして奈美さんは、母のため、そして亡き父のためにボルボを購入した。

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だがここで大きな問題が発生する。 ボルボを障がい者用に改造する実績が日本国内ではほぼなく、工場で断られてしまった。 実は、ボルボの運転席の下には配線系統が複雑に配置されており、改造が困難だったのだ。

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それでも山内さんは諦めなかった。 すると その3日後、改造してくれる工場が見つかったのだ!
車とその改造費を支払った結果、岸田家の全財産は、7,7802円、ギリギリセーフ!!

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そして一昨年11月、岸田家は改造を終えたボルボV40と初対面。 生き生きとした表情で運転するひろ実さん。
これにてめでたしめでたし…と思ったそこのあなた! 話はこれで終わりじゃないんです! 岸田家の全財産が7,7802円という、全然大丈夫じゃない状況になりましたが、このあととんでもないことになっちゃいました!

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その後、奈美さんは感謝の意味も込めて、ボルボを購入した話を記事に投稿。 すると、2週間ほどで80万人が閲覧。 さらに、少しでも支援したいという人々から寄付金まで寄せられた。 その数、1500人!
だが奈美さんは、この寄付金を車検代など車にかかる費用や生活費には充てなかった。 奈美さんは寄付金の使い道について、こう公言した。
「ボルボに乗って家族で楽しい場所へ行き、楽しいnoteを書くためのガソリン代や高速代にします。」
「ボルボのnoteを他言語翻訳し、世界に発信するための経費にします。」

特に記事の多言語翻訳は、奈美さんの兼ねてからの願いだった。
今から6年前、ミャンマーに招待されて、ダウン症の子供を育てる家族に向けて、ひろ実さんが講演したことがあった。 講演後にこんな言葉をかけられたという。
「ミャンマーでは障がいのある子供が生まれたら追い出す村もあり、肩身の狭い思いをしてきました。でも日本では良太さんが楽しそうに暮らし、愛されている。岸田一家が同じ地球上にいる事を生きる希望にします。」
さらに下半身麻痺であっても自動車を運転できるという話をすると、現地の人々はみな驚きの声を上げたと言う。

奈美さんはこう話す。
「母が手だけで車を運転出来るという事を海外の人に知ってもらうだけでも、ものすごく誰かの希望になったり、救いになったりするんだって事を思ったので、翻訳にはすごく思い入れがありました。」

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そこで奈美さんは、SNSで外国語への翻訳に協力してくれる人を募集。 すると、ある女性が名乗り出てくれた。
倉本美香さん、ニューヨークで暮らす彼女は、目が見えないなど重度の障がいを持つ娘さんを育てていた。
そして彼女は驚くべき提案をしてくれた。
「お金は、どうか気になさらないでください。コロナでニューヨークもかなり厳しい状況で私たちの仕事もずいぶんなくなったりしていますが自分が困った時こそ人助けがしたいんです。」
さらに倉本さんが各国の翻訳家に呼びかけたところ、記事は無料で13カ国後で翻訳、配信されることになった。 その結果、世界中で大きな反響を呼び、多くの人を勇気づけている。

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まだ幼稚園児やった私にパパがくれたパソコン。 そのお陰で私はパソコンの向こう側を知りました。 そして、パソコンの向こう側にいる人たちにめっちゃ助けられました。 もしかして、パパはここまで見越して幼い私にパソコンをプレゼントしてくれたのかも…なんてね。 でも今の私が「大丈夫」って言えるのは、パパのお陰やで。

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一昨年 発売された岸田奈美さん初の著書。 実はこの書籍のページ番号は、奈美さんの弟、良太さんが書いたもの。 あまり字を書くのが得意でない良太さんだが、姉の初著書のため、ひとつずつ丁寧に書いていったという。
この出来事も奈美さんは記事として投稿。 そこにはこう綴られている。 「不恰好で大きかったり小さかったりする数字は私のために書いてくれたものだ。それだけで意味がある。これは(この数字は)弟の言葉だ。」

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そしてこちらは奈美さんの父、浩二さんの日記。
奈美さんは作家に転身した直後、日記のある一部分に目が止まったという。 それは…『是非、神戸を舞台にした小説を、誰か書いて下さい。』
神戸は、浩二さんがひろ実さんと結婚した後に移り住んだ街。 この街で2人の子宝に恵まれ、家族の思い出を育んだ。 だからこそ、このような一文を残したのかもしれない。
そんな父の希望を叶えるため、父の愛したボルボで楽しい事を見つけに日々街へと繰り出している。