6月13日 オンエア
アンビリバボーなセカンドライフ
 
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荒野を駆け巡る一人の男。 今から17年前、自衛官を退官した高山良二さんは、誰も予想だにしないセカンドライフを選んだ。 穏やかな老後を捨て、遠い異国の地で命がけの道を歩む決断。 そんな夫の夢に複雑な感情を抱きながらも、その想いに寄り添い、後押しした妻。 一人の男の定年後の挑戦が多くの人々の心を動かし、世界を変えることになる!

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事の始まりは今から26年前。 愛媛県松山市在住の主婦・高山里枝(さとえ)さんは、正直ホッとしていた。
陸上自衛隊に所属していた夫・良二さん(当時45)。 PKO・国連平和維持活動のため、カンボジアに渡っていた夫が、半年間の任務を終え、無事 帰国したのだ。

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だが…夫の様子がおかしかった。 さらに、なぜか急に英会話を始めた。 それだけでなく、何やらブツブツとお経を唱えるようになり…当時まだ珍しかったパソコンの使い方まで習い始めた。
里枝さんが「あなた、何か私に隠してる?」と聞くと…自衛官を退職したらカンボジアに行くというのだ。 退官は、今から9年後。 時間が経てば さめるだろう…里枝さんはそう思っていた。 だが…時が経っても その熱は冷めるどころか、高まるばかりだった。

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何が彼を駆り立てるのか? きっかけは…現地で目にした、過酷な現実だった。
そこにいた少年が牛を繋ごうと、落ちていた鉄の固まりで杭を打った瞬間だった! 爆発が起き、少年と牛は即死。 鉄の固まりは、不発弾だった。
1970年から22年間 続いた内戦により、カンボジアには膨大な数の不発弾や地雷が残されている。 不発弾が約240万個、地雷が400〜600万個と見られ、年間800人を超える犠牲者が出ていたのだ。

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不発弾や地雷で犠牲者が出ると、いつも「オレなら…地雷が処理できるのに」と思っていた。 彼が所属するのは、陸上自衛隊の施設科部隊。 自衛隊の任務遂行のために、道路や橋の建設をする部隊だ。 建設ルートに地雷原があった場合に備え、地雷処理や爆弾処理に関して高い技術を持っていた。 だが、今回の任務は、あくまで住民が選挙で投票できるように道路を整えたり、橋を作ったりすること。 基地や建設ルート上にある地雷や不発弾は撤去できるが…それ以外のものは任務に含まれないため、勝手に処理することは出来なかったのだ。

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広大な土地のどこに地雷が埋まっているかわからない状況では、畑も満足に作れない。 多くの国民は貧困にあえぎ、希望を見いだせないでいた。 結局、半年の任期はあっという間に終わり、日本に帰国することになった。 その時、高山さんの胸に「このまま見捨ててしまって良いのか?」という思いが湧き上がった。 だが、すぐには無理だった。 まだ成人していない息子も2人いる…「いつか、必ずここに戻ってくる」そう心に誓った。

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高山さんは英会話のレッスンを続け、現地で必要な事務処理をこなすため、苦手だったパソコンの使い方もマスター。 さらに、仏教国であるカンボジアの人たちを理解するため、東大寺の僧侶資格まで取得した。

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そして、2002年5月9日。 55才になった高山さんは、自衛隊を定年退官。 そのわずか3日後、老後の蓄えから2年分の活動資金400万円を手にカンボジアに出発することになった。 どうせ そのうち帰ってくるだろう、里枝さんはそう思って夫を送り出した。

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高山さんは、早速動き始めた。 紛争地帯に残された地雷や不発弾の処理を支援する非営利団体、JMAS(ジェーマス)、その現地副代表に就任した。 JMASは、当時 設立されたばかりの団体。 当面の活動は、不発弾による事故を防ぐための啓蒙活動と、不発弾の処理だった。 日本から招いた専門家4人とカンボジア各地の州に出向き、不発弾の処理にあたった。

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しかし、処理できる不発弾は1日、せいぜい3個程度。 そんな中、現地の子供たちが不発弾を抱え、高山さんの元へ集まってくる。 今まで不発弾を処理する組織がなかったため、処理して欲しくて持って来るのだ。 カンボジア国内に残る不発弾だけでも約240万個。 その処理に追われる日々が続いた。

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さらに、不発弾だけでも予算が足りず…地中に埋められ、より処理が困難な400万個から600万個の地雷には全く手がつけられなかった。 地雷原を安全な土地に戻したい…その夢は2年が経った頃には、到底 実現不可能なものに思えてきた。
カンボジアに渡ってから、2年4ヶ月後、高山さんは帰国。 精神状態はボロボロだった。 茫然自失…そんな姿を見た家族は、彼がカンボジアに戻ることはもうないと思っていた。

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そんなある日…高山さんは、つてをたどり、当時の外務副大臣を訪ねた。 そして、住民参加型の地雷処理をするための予算を出して欲しいと交渉した。
高山さんは、諦めていなかった。 どうすればカンボジアの地雷処理が出来るのか? 帰国してから、ずっと考え続けていたのだ。

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海外から来る専門家の数はたかがしれている。 とても400万個を超える地雷を全て取り除くことはできない。 だが、地雷を除去できるカンボジア人を育成すれば、処理のスピードは格段にアップする。 支援から教育へ…それは誰もやったことがない挑戦だった。

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帰国から2年後の6月、高山さんは 再びカンボジアに渡った。 発展途上地域の開発のために、日本政府が行っている経済協力「政府開発援助」。 その中から、高山さんの事業にも予算が下りたのだ。
向かったのは、バッタンバン州、タサエン村。 この村は、内戦の最後の激戦地だった。 そのため、数十ヘクタールに及ぶ地雷原が60箇所もあり、住民5000人が貧困にあえぐ、カンボジアで最も貧しい地域の1つだった。

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現地住民の中から、地雷探知員、通称デマイナーを募集。 正当な賃金を与えた上で、6週間の研修を実施した。
まず、1人のデマイナーが、幅1.5m、奥行き40cmの範囲の雑木や草を地面ギリギリまで取り除き、金属探知機を使えるようにする。 別のデマイナーが、金属探知を行い反応がなければ、さらに40cm前進。 これを繰り返す。

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金属反応があれば、それが何であるかを探知棒やショベルなどで慎重に調べる。 この時が一番危険で、地雷を作動させないよう細心の注意が必要。 慎重に、金属の正体を探し当てていく。40cmを進むのに1時間以上要することもある。 地雷が発見されれば、標識で印をつけ、専門家が 爆薬で爆破処理を行う。
33人のグループで、一ヶ月活動すると、約1ヘクタールがクリアされる。 3つのグループで3ヘクタール、年間 30ヘクタールを超える土地が農地として使用可能になる計算だった。

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高山さんらは、細心の注意を払いながら、村人たちに地雷除去の基礎をみっちり教え込んだ。 だが、村人たちにとって、デマイナーはあくまで生活費を稼ぐ手段で、復興への希望を持つものはいなかった。 なぜなら、日々の生活で手一杯。 かつ、それまでのカンボジアに対する国際支援は、『金』と『モノ』が基本、消費したらそれで終わりだったため、『復興』という発想すらなかったのだ。 高山さんは、村人たちに「地雷を取り除くことが、村の未来を作ることになる。一緒に頑張ろう。」と伝えた。

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だが、半年が経った ある日。 久しぶりに日本に一時帰国するため、首都プノンペンに戻ったときのことだった。 高山さんの元に、7人のデマイナーが地雷処理中に爆死したという知らせが入った。
処理していたのは、対戦車用の大型地雷。 その爆発は、高山さんがかつて経験したこともない規模のものだった。 亡くなった7人の中には、デマイニングの仕事で知り合い、結婚を控えたカップルもいた。

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村人たちは、これで地雷処理を怖がってやらなくなるだろう。 自分がこの村の復興の芽を摘んでしまった…高山さんはそう思った。
だが、爆発事故の後、地雷処理を続ける意志があるかどうか、アンケートをとったところ…なんと、79人中、やめると答えたのは1人のみ。 その1人も母親の介護のため、仕方なくやめるということだった。 後ろを向く村人たちはいなかった。 彼らは、自ら 立ち上がろうとしていたのだ。

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それから3年間、高山さんはタサエン村でデマイナーの育成と地雷処理に全力を尽くした。 すると、徐々に成果は上がり始め、少しずつ地雷原が減り、代わりに農地が増えていった。 一方で、予算確保のため、日本政府や企業との交渉など、やることは山積みだった。
たまに日本に帰国したとしても、講演会などの広報活動で全国を飛び回る日々。 そんな高山さんをサポートしたのが…妻の里枝さんだった。 講演会などがあると、里枝さんが受付を担当した。

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そして、里枝さんも一緒にカンボジアに行こうと、パスポートを申請。
そんな頃…里枝さんに脳腫瘍が見つかった。 腫瘍はかなり大きくなっていて、手術が成功しても、意識が戻らない可能性が高いというのだ。

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そして…高山さんは、所属していた地雷処理支援団体、JMASに辞表を提出。 だが…手術前日、里枝さんは意識を失い、危篤状態に陥ってしまった。
そして、緊急手術が行われ、里枝さんは一命を取り留めた。 しかも、奇跡的に後遺症はほとんど残らなかった。

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翌年7月、高山さんは自らNPO法人を設立。
里枝さんのために、年間4ヶ月は日本に滞在できるようにしたうえで、活動を開始。

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地雷を処理したい…あの日抱いた想いが、今では広大な農地として形になっている。 だが、新しく起ち上げたNPO法人の目的は、地雷処理だけではなかった。 その名前は…『国際地雷処理・地域復興支援の会』。 高山さんはカンボジアで住民たちと苦楽を共にすることで、地雷除去だけではカンボジアの復興はできないと気づいた。

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高山さんは地雷処理を進める傍ら、自衛隊時代の本業である道の整備を行い、日本の企業に働きかけ、80基もの井戸を設置。 さらに、住民の雇用創出のため、日本企業を4社 誘致。 株式会社キンセイは、着物を包む「たとう紙」の制作に60人の村の女性達を雇用。 勤勉で器用なカンボジア人達の仕事は丁寧だと評判を呼んでいる。

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それだけではない。 日本で寄付金を集め学校を建設。 現在は日本語クラスが2つ、コンピューターを教えるクラスが1つある。
この活動を知った日本の企業から、村にもっと多くの学校を造ろうと声が上がり、新しく4つもの学校が建設された。 タサエン村は、子供達の貧困、無学という最悪の状況を脱却することが出来たのだ。

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さらに、地雷が撤去された地には、この地方の本来の農産物である キャッサバという芋が植えられた。 しかし、安く売ってしまえば、いつまでも豊かになれない。 高山さんは、安価で売られているキャッサバに付加価値を付けられないか?と考え、焼酎の製造販売を始めるため、蒸溜所を建設。 製品は、カンボジアのお酒を意味する「ソラークマエ」と名付けられ、販売が始まった。

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農作物はたくさん出来る。 芋が獲れない時期は、サトウキビでラム酒、米で米焼酎を製造。
豊富にあるフルーツは、ドライフルーツなどの加工食品にすることで、村の雇用を生み出した。 その農作物はすべて、住民たちが自らの手で地雷を撤去した、地雷原から生まれたものだった。

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高山さんが活動を始めてはや17年。 処理した地雷・不発弾は今や4000個近く。 かつて年間数十人の犠牲者が出ていたタサエンでの地雷事故は、激減。 あの事故から12年間で、わずか2件にまで減っている。 かつて、カンボジアで最も貧しかったタサエン村…その人口は5000人から7000人にまで増えた。

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我々が取材に訪れていた、今年5月9日…この日は高山さん72歳の誕生日。 今では、村人たちは「ター」と、彼のことを慕ってる。
見て見ぬふりはできない…ただ、その思いで活動を始めた高山さん。 あの時 踏み出した一歩が、カンボジアの村を、そして 高山さんの人生を変えた。

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だが、急速な発展に伴い、カンボジアに新たに問題が生まれた…『ゴミ問題』だ。 タサエン村のような田舎では、ゴミの収集を国がしてくれない。 学校などでは 焼却炉でゴミを燃やしているが、現状は惨憺たるもの。 高山さんもこの問題に頭を悩ませている。 完全復興はまだまだ先だ。

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活動を始めてから 17年。 今や、老若男女5000人もの支援者が高山さんの活動を応援している。
東京支部長の中里さんは、海外支援についてこう語る。
「海外支援と聞くと、会社を辞めて駐在しなくてはいけないと思う方も多くいるとは思うのですが、会社をやりなかがらでもできる支援があるということを知ってほしいです。」

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タサエン村の外れに、地雷で亡くなった7人の慰霊塔がある。 高山さんは、今でも 毎月ここにやって来る。 飾られているのは、殉職者達の顔写真。 その一番左端には、1人分のスペースが空いている。 高山さんは、自分が亡くなった時、ここに写真を飾って貰い、彼らと向こうの世界で再会するのだという。