4月25日 オンエア
子供たちにワクワクを 日本の礎を作った男
 
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その時代、現在の働き方改革とは無縁の光景があった。 休日を返上して働く男たち、仕事に没頭するあまり、徹夜は日常茶飯事。 そんな中…厳しさに慣れた社員からも「鬼」と恐れられる男がいた。 日本の未来のため、出版の常識に闘いを挑んだ男が成し遂げた『奇跡』とは!?

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今からおよそ60年前、科学教育を熱く語る男がいた。 東京にある出版社「学習研究社」(通称・学研)の編集長、根本行庸(ねもと ゆきのぶ)。 根本は常々こう話していた。
「『宇宙飛行士になりたい』『科学者になりたい』そんな夢を描く子供たちの手助けとなる雑誌を作りたいんだ。」

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日本は資源の少ない国だからこそ、科学技術で世界をリードする必要がある。 そういった声が日増しに高まっていた。 だが、これまで専門的な科学雑誌はあったものの、一般向けのものは数も少なく、ほとんど売れていなかった。

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戦後創業した学研は教科書が十分にない時代、教育の手助けになるよう、全教科の参考書となる『学習』を創刊。 ひと月200万部を発行する大ヒットを記録していた。

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そして、子供たちに親しみやすい科学雑誌を目指し、それまで理科辞典の編集をしていた根本たちによる、新たな挑戦が始まった。 彼らはどんな小さい記事でも、一流の学者や専門家らに指導や監修を依頼。 それだけではない、学校で何をいつ習うのか、そしてその学習での狙いなどが記載された学習指導要領をすべて暗記した。

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1960年、根本らが情熱を注いだ『科学の教室』が出版された。 6学年を2学年ごと、初級・中級・上級と分けた月刊誌だった。
しかし…『科学の教室』は売れなかった。 その後も部数は伸びることなく…いつしか社内では、続刊か廃刊かが議論されるようになった。

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そんな中…続刊を望む社長が、科学雑誌の立て直しを託した人物こそ、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気雑誌『学習』の編集長、中川浩だった。
中川は、教科書の延長のようなものを子供達が家で読むわけがないと、『科学の教室』を完全否定。 こうして、中川によって科学雑誌の変革が始まった。 中川が部長になってからは、何日も徹夜して作った資料が一瞬でボツにされることもあった。

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そんなある日、中川は『科学の教室』を6誌体制にすることを決めた。 学習レベルに差のある小学生の場合、2学年ごとにわけた3誌体制では、子供の心を捉える事ができないと中川は考えたのだ。
『学習』は6誌体制で成功していた。 しかし、売れていない科学で同じことをするのは、リスクが高すぎる。 だが…中川は、周囲の反対を押し切り、強引に6誌体制へ踏み切った。 3誌が6誌となったため、当然 作業は倍、徹夜での仕事も多くなっていた。

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そして、中川体制になって数ヶ月後、学年別の『科学の教室』(1962年4月)が創刊された。
しかし…雑誌は売れなかった。 創刊号はおろか、翌月以降も全く売上は伸びなかった。

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子どもの興味を第一に考え、強引なやり方を貫いてきた中川とは、一体どういう人物なのか?
今から94年前、研究職の両親の元、8人兄弟の3男として生まれた中川浩。 その後、第二次世界大戦では、2人の兄を失った。
終戦から5年後、大学を卒業した中川は高校で物理の教師として働き始める。 ところが…正義感が強すぎるために、同僚の教師とトラブルになり、教師になって半年もせずに、学校を辞めることになった。

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しかし、中川の気持ちは折れていなかった。 教師よりもさらに多くの子供たちの教育に携われると、教育雑誌を出版する『学研』に転職したのだ。 科学への思いは、2人の息子に理作、研作と名付けるほど強いものだった。
だからこそ、科学の雑誌が売れないことに、中川は人一倍、苦悩し、ショックを受けていた。

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役員会議で『科学の教室』を今後、どうするかが話し合われることになった。 もともと科学雑誌の続刊を望んでいた社長であったが、経営者として赤字続きの雑誌をいつまでも放っておくわけにもいかなかったのだ。
そこで、中川が打ち出した打開案は、雑誌に付録をつけるというもの。 それは、子供達が虫眼鏡で紙に火をつけて遊んでいる姿を見て、ひらめいたアイディアだった。

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しかし、それは簡単な道のりではなかった。 付録をつけるとなると、また別の予算がかかる…ただでさえ売れていない雑誌を値上げするのはリスクが高い。
当時、大卒初任給が現在の約12分の1、1万7000円、科学雑誌の定価は120円前後。 人件費、流通費等を考えると本誌と付録にかけられる費用はせいぜい70円。 切り詰めて本誌を40円で仕上げたとしても、付録にかけられる費用は30円程度しかなかった。 しかし、中川は雑誌の値上げは考えていなかった。

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実は、中川の子供達が遊んでいた虫眼は、駄菓子屋で10円で売られているものだった。 それを聞いて以来、中川は東京中の玩具や駄菓子を扱う問屋街を回った。 科学雑誌の付録となるモノを低予算で手に入れるために、一人、駆けずり回っていたのだ。 そして、足を運ぶ度に店の人とも顔なじみになり、品物を入れる業者やメーカーとも知り合いになっていった。 付録の道具のほとんどは、問屋で手に入る、彼らの協力があれば、付録は30円以内に抑えることができる。

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予算の問題はクリアできた。 しかし、問題は輸送だった。
中川は、会社の発送部門の役員である小林に輸送の相談をしたが、最初、小林は難色をしめした。 当時、雑誌や新聞は文化の向上に役立つとして、国鉄(現JR)が特別に安い運賃で、全国に輸送していた。 しかし、一般の客車の一角に積んでいたため、スペースが限られており、基本的に紙製品以外のかさばる物を運ぶことは出来なかった。 それでも…中川は、何かいい方法がないか探ってほしいと小林にお願いをした。

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そして、小林が考えた方法が、トラックで運ぶというもの。 それまで、トラックの運送会社など無いに等しく、中川たちは輸送手段として国鉄しか考えていなかった。 しかし、小林が改めて調べてみると、ちょうど各地で運送会社が出来はじめていたことがわかった。 さらに、料金も国鉄より安く済む。 これで輸送の問題もクリアできた。

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だが、さらなる壁が…製本などハード面の仕事を担う造本部だった。 中川は、学研社内にある「造本部」の最高責任者、常務の川本のもとを訪れた。 
付録をつける場合、最初の数ヶ月は編集部がハード面も協力する予定だった。 しかし、ゆくゆくは造本部が数万に及ぶ部品の手配から安全・品質管理に至るまで、一切の責任を負うことになる。

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常務は、付録の仕入れ先が問屋だと聞くと、嫌な顔をした。 造本部にとって全国の子供達に、雑誌を完璧な状態で届けるのは当たり前のこと。 これまで取引のなかった、街の問屋のような小さな企業から大量に付録を仕入れて、もし不備があったら責任は取り切れないからだ。

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また、中川は半年後の4月には付録をスタートさせたいと考えていた。 しかし、こうした不安材料を全てクリアにするには時間が短すぎると、常務は難色を示したのだ。 だが、中川は諦めず説得を続けた。 すると…常務は、6学年の3年分、全部で216種類の付録プランを、翌日までに出すように要求してきた。 そう、不可能だということを思い知らせるため、あえて無理難題を突きつけてきたのだ!

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無謀すぎる要求…だが、科学の編集部員たちには、これを聞いて1晩で付録のプランを作り上げたのだ! しかも、それは何月号にどんな付録を付けるのか、その理由や狙いなどもしっかりと書き込まれていたものだった。 全学年の学習プランを暗記している彼らだからこそ、作り上げられたものだった。
しかし、プランは2年分のみ…1晩では2年分が限界だった。

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中川は、この2年分のプランを持って、常務を説得…ついに承認をもらった。 その後、社長、全役員、関係部署の部長らが居並ぶ中で、付録付きの科学雑誌についてプレゼンを行った。 そして…社長の承認も得て、付録付きの科学雑誌が5ヶ月後の4月号からスタートすることが決定した。

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今から56年前の1963年、立体の付録が付いた科学雑誌が完成した!
新学期が始まる4月、年12回発行の『1年〜6年の科学』が発売されると…6学年の初版、合計12万部では足りず、追加注文が殺到! 付録のおかげで、今まで興味を持ってくれなかった子供たちが飛びついた。 その後も着実に部数は増え続け、1970年代後半、『科学』はついにひと月300万部を突破した。

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その後、日本に留まらず、海外にまで広がりを見せた学研の科学教材。 しかし、児童数の減少や小学生のライフスタイルの多様化により2010年、惜しまれつつ休刊した。
だが…多くの科学者が幼い頃付録を使った経験から、科学に興味を持ち、その道を志した。 その中のひとり、天野浩さんは5年前、ノーベル物理学賞を受賞した。 中川たちがまいた種が大きく根をひろげ、今 日本の科学技術を支えている。

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科学雑誌が成功した後も、子どもにとって本当に面白いものを追求し続け、児童教育に情熱を注いだ中川。 50歳で独立し、通信教育雑誌の編集などを行う教育基礎研究所を設立。 晩年まで子供の教育に関わり続け、3年前91歳でその生涯を閉じた。

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中川が奮闘したころから、時代は大きく変化し、かたちは変わったものの、今も学研は子供たちの科学教育のために様々な活動を展開している。
『すべては子供たちの科学教育のために…』
自らの信念を曲げず、中川が生涯をかけて貫いた教育への思いは今…後輩たちに確実に受け継がれている。