現在、兵庫医科大学で法医学講座の主任教授を務め、これまでに3000体以上の遺体を解剖してきた現役の法医解剖医、西尾 元(にしお はじめ)教授。 死因がハッキリせずに亡くなった人の最期の様子をせめて明らかにしてあげたい…そんな思いを胸に解剖にのぞんでいる。
西尾教授のもとに高齢の女性の遺体が運ばれてきた。 おばあさんは、自宅で亡くなっているところを家族が発見。 すぐに救急車を呼んだものの、その場で死亡が確認されたため、警察に連絡が入った。 午後8時ごろ、警察が到着したときには、死後硬直が始まっていた。 死後硬直の状態から、亡くなったのはお昼前後の時間帯と推測された。
家族が仕事から帰ってくると、おばあさんはベッドで亡くなっていたという。 また、おばあさんに持病はなく、朝、家を出る時は特に変わった様子はなかったという。 実は、亡くなったおばあさんは夫婦の遠縁の親戚で、おばあさんには子供はおらず、身寄りもなく、生活に困っていたところを数年前に夫婦が引き取って面倒をみていたのだ。 警察は高齢だったことから、突然の体調不良などによる急性心不全と考えていたが、死因をハッキリさせるため、念のため解剖を依頼したのだ。
西尾教授は解剖を始める前に、いつものように離れたところから遺体全体を観察した。 外表から得られる重要な手がかりを見落とさないためだった。 その時、首に目立たないが微かに擦れたような痕を発見した。 さらに、下半身がほんのり赤くなっていた。 背中も確認してみたが…特に異常は見られなかった。
遺体の表面の観察が終わったあと、解剖が始まった。
メスで首を開いた時のことだった。
舌根部に出血した痕を発見。
舌根部とは、舌の根元のところで、咽の上の辺りにあたる。
舌根部に出血が起こる理由は、ひとつ…首に強い圧力が加えられた時のみ。
これにより、死因は首を圧迫されたことによる窒息死と判明。
つまり、何者かがおばあさんの首を絞めて殺害した可能性があるということになる。
だが、西尾教授は、辻褄が合わないと言う。
おばあさんの遺体には、「あるべきものがなくて、あってはならないものがある」と言うのだ。
警察が現場で調べたとき、おばあさんの遺体は、死後硬直が始まっていて、亡くなってから6時間から9時間が経過していたことを示していた。 そして家族は、おばあさんんを発見した時、ベッドで仰向けだったと言っている。 仰向けで亡くなった場合には、胸とか腹にあった血液は背中側に移動していく。 そして、背中に移動した血液の色が体の外から見えるようになる、こうした現象を死斑と呼ぶ。 だが、おばあさんの遺体の背中には死斑はなく、綺麗なままだった。
さらに、何者かに首を絞められたなら、顔はうっ血して赤くなるはず。
だが、おばあさんの顔は赤くなっていなかった。
首には動脈の他に、近くに静脈が走っている。
首を絞めると、動脈と一緒に静脈も圧迫されることになる。
動脈に比べて静脈の血管の壁は非常に薄いため、首を絞めたときには、まず静脈の流れが完全に止まる。
だが、手の力で思いきり首を圧迫したくらいでは、動脈の流れを完全に遮断することはできない。
首を圧迫したときには不完全ながら、心臓から頭の方には動脈を通って血液は供給され続けるが、脳の方から静脈で心臓へ戻ってくる流れは完全に止まってしまう。
そのため、顔がうっ血するのだ。
おばあさんの顔にうっ血はなかった。
しかし、死因は頚部を圧迫されたことによる窒息死…どういうことなのか?
西尾教授は、その謎を解く鍵が下半身が赤くなっていたことだという。
遺体の下半身が赤くなっていたのは、死斑によるもの。
ということは、心臓が止まった後、おばあさんの体に作用した重力の方向は、頭から足の方に向いていたということなる。
これらが意味することはただひとつ。
数日後…警察は再び家族に聞き込みを行なった。
家族は警察に真相を告白した。
仕事から帰ってきたときに、おばあさんが首を吊っていたのを発見、ベッドに降ろしたのだと言う。
首を吊ったときに、足が床から完全に浮いてると、自分の体重のすべてが首に加わることになる。 それほど強く首を圧迫すると、首を吊った時点で、静脈と一緒に動脈の流れもほぼ完全に止まってしまう。 そのため、顔がうっ血しなかったのだ。 さらに、ロープのような細いものなら首に痕が残るが、タオルのような 太いもので吊ると、かすかに赤みが残るだけだという。 そして、首を吊った状態で何時間も経過したため、死斑は下半身に現れたのだ。
家族は、おばあさんが自殺をしたことが近所に知られたら、自分たちが辛い思いをさせたと思われるのではないかと思ったと言う。 そして、遺体をベッドに下ろした後、2人は自殺の痕跡を隠した。 家族は、出来れば真相が明らかになってほしくないと思いながらも…罪悪感に苦しんでいた。
その後、警察が近所への聞き込みをしたところ、おばあさんはこんなことを話していたという。
「財産も何もない、こんな私を引き取って面倒を見てくれていつも、申し訳ない気持ちでいっぱいなの」
最後に西尾教授は、こう話してくれた。
「事件や事故で亡くなった人を解剖して死の真実を明らかにするということは、誰かがしなければいけない仕事なのだと思います。今の社会の抱える問題点が、死という形でもっとも深刻な形で解剖台に運ばれてきていると思います。」