3月7日 オンエア
車いすバスケ!不屈のアスリート
 
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タイヤの焦げるニオイ、ぶつかり合う金属音、激しい攻防がコートで繰り広げられる車いすバスケットボール。 日本国内だけでもおよそ70チームがしのぎを削る、そんなパラスポーツの花形競技で…2年前の日本選手権、最も会場の注目を集めたのは、屈強な男子に混ざり出場していた、1人の女性プレイヤーだった。 彼女の名前は藤井郁美。

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今から37年前、郁美は神奈川県横浜市で生まれた。 兄の影響で小学3年生からミニバスケを始め、中学でもバスケ部に所属。 神奈川県のベスト8に入る強豪校、主将を務めるほどの実力だった。 中3になるといくつものバスケットが強い高校から誘いを受け、郁美自身も将来は実業団でプレーすることを夢みて日々練習に励んでいた。

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ところが…卒業を数ヶ月後に控えた頃、骨肉腫を発症。 骨肉腫とは、骨に発生するがんで、主に10代の成長期に発症する。 近年医療の進歩により、5年生存率は8割を超えるが、外科手術で腫瘍周辺の組織を全て取り除く必要がある。 郁美は、手術でガン周辺の組織を取り除き、人工関節を入れることになった。 さらに…医師からは、もうバスケットは出来ないと宣告された。

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郁美は、手術を受け、1年にも及ぶ長い入院生活を送った。 その後、リハビリの甲斐もあり、なんとか歩けるようにはなったが、生き甲斐だったバスケットボールを失い、推薦の話が進んでいた高校への進学も当然白紙に。
翌年、1年遅れで自宅から近い公立高校に進学した。 自分はもう一生、走ったり飛んだりすることができない。 バスケットボールは見るだけでも辛かった。

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だが、そんなある日のこと…クラスメートにバスケ部に誘われた。 1つ年下に当たるクラスメートのバスケ部員達は、県内で強豪校の選手だった郁美のことを知っていたのだ。
こうして、バスケ部に入部。 名目上はマネージャーだが、練習メニューを組むなど実質的には指導者のような位置付けだった。 そして、自分がプレーすることは叶わなくても、仲間とバスケに打ち込む青春を取り戻した。

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しかし、再び前を向いて歩き始めた郁美にまたしても理不尽な困難が降りかかる。 それは、受験を控えた高3の春…突然 原因不明の倦怠感と食欲不振に悩まされるようになっていた。 診断の結果、大腸の粘膜に潰瘍などの炎症が慢性的に起こる難病、潰瘍性大腸炎であることが発覚した。 この病により、大腸を全摘出するなど、長期の入院生活を余儀なくされ、進路は再び白紙に。

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入院生活を経て高校を卒業した郁美は、スポーツジムで受付のバイトをしながら、特に目標のない生活を送っていた。 だがそんなある日、ふと『車いすバスケ』のことを思い出した。 実は、男子バスケ部の顧問だった教師が、車いすバスケのチームとも交流があり、郁美にそのチームを紹介してくれたことがあったのだ。

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車いすバスケのルールで大きな特徴の一つが…2回漕ぐ間に一度、ドリブルをしなければならない、ということ。 しかしそれ以外、大半のルールが通常のバスケと同じ故に、車いすバスケの方が難しいとされる側面もある。
例えばリングは、通常のバスケットボールと同じく、高さは3メートル5センチ。 普通であれば立った状態から、膝のバネを使って打つため、ある程度距離があってもシュートは届く。 だが…車いすの場合は座った状態で打たねばならず、そもそもの打点が低いうえに、膝が使えないため立って打つよりも何倍もの腕力がなければリングまで届かない。 また車いすを漕ぐ、止める、方向転換する、という動作も当然ながら全て手で行うため、ここも腕の力が重要。 さらに接触プレーも、故意とみなされなければ反則とならない場合も多く、実は数あるパラスポーツの中でも、特に過酷な競技なのだ。

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郁美もあまりのハードさに、当時はそれほどのめり込むこともなかったのだが…高校を卒業し、時間を持て余していたこともあり、軽い気持ちで再び練習に参加するようになった。 その後、男子のチームにいても大きな大会には出場できないため、神奈川県内の強豪女子チームに移籍。 本格的に選手生活をスタートさせた。

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普段から車いすに乗っているわけではないため、当初は操作すらままならなかったが、持ち前の負けん気で誰よりも練習し、その才能は一気に開花していく。 そして…本格的に競技を始めてからわずか3年で、女子車いすバスケットの日本代表に選出されたのだ。 しかし、代表初選出の翌年、オランダで開かれた世界大会。 郁美にとって初めての主要国際大会で、日本は惨敗を喫するのである。

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世界を経験し、実力不足を痛感した。 そこで郁美は、日本代表選手も多く抱える国内最強の男子チーム『宮城マックス』に入団!
実は、国を代表して闘う国際大会などは、男女別のチームで試合を行うのだが、そもそも海外の強豪国では、男女混合のクラブチームがほとんど。 そんな環境で闘う女子選手と渡り合うには、自分も男子チームに入って腕を磨くしかないと思ったのだ。
しかし、当時の日本にそのような慣習はなく、国内の大会では多くのチームが最大の目標に掲げる年に一度の日本選手権に、当時女子選手の出場は認められていなかった。 女子選手が男子チームに入る場合、ほとんどが練習参加という形での加入しか前例がなかったのだ。 しかし、郁美は練習参加ではなく、正式な選手としての入団を希望した。

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こうして今から12年前、郁美は神奈川から仙台に移住し、男子チーム宮城マックスに加入した。 しかし、当時前例のない彼女の決断には、一部関係者から批判の声もあったという。
入団当初は全く練習についていけなかった。 それでも郁美は懸命に食らいついていった。 天性の負けず嫌い…突き動かしたのは、自分の決断を批判した者たちへの反骨心だった。

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だが、そんな彼女の覚悟を理解してくれた人たちもいた。 そう、他ならぬマックスのチームメートたちだった。 彼らは全員、彼女を女子選手としてではなく、レギュラーを争うライバルとして扱い、練習では常に激しくぶつかってきた。 その甲斐もあり、日本最強の男子チームで腕を磨いた郁美は、やがて女子日本代表では押しも押されもせぬ主力選手に成長。

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また私生活でも今から7年前、マックスのチームメートで当時男子日本代表のキャプテンを務めていた藤井新悟さんと結婚。 翌年には、長男「蒼空くん」も誕生した。
そして…その年の9月、2020年に東京でオリンピック、パラリンピックの開催が決定。 そして、単身男子チームに乗り込んでから10年、34歳の時、ついに日本選手権で女子選手の登録が正式に認められたのだ。

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そして迎えた一昨年の5月、日本選手権当日。 初めて女子が出場するということで、メディアの注目も郁美に集まった。
しかし、ここは男子の強豪がしのぎを削る日本選手権。 体格、パワー、不利をあげればキリがない。 だが、この大会で郁美は全試合に出場したばかりか、準決勝で18点、決勝戦でも13点を決める大活躍で宮城マックスの大会9連覇に大きく貢献。 さらに、郁美個人も優秀選手賞に値する大会ベスト5に選ばれたのだ。 度重なる病気により、将来の夢を閉ざされ続けた少女が…ついに念願だった日本最高峰の舞台で優勝を果たした!

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次に目指すのは、いよいよキャリアの集大成として迎える東京パラリンピックの…はずだった。 日本選手権からわずか2ヶ月、3度目の病魔が郁美を襲った。 乳がんだった。
その後 手術は成功し、医師からは復帰の準備を進めても良いという許可が下りたのだが、郁美の心は沈んでいた。
当時のことを振り返り、こう話してくれた。 「なんかもう疲れてしまって、別にバスケをしなくても、ふと家族3人で食卓を囲んでいるだけで十分幸せだって思えて、これで十分じゃないかなって。」

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だが、手術からおよそ10日後のこと。 郁美が練習に現れた。 今度は誰かを見返すためではなく、支えてくれる人、応援してくれる人のために、彼女は再びコートに戻ってきたのだ。 復活を遂げた郁美は、昨年の日本選手権にも男子に交ざって出場。 またしてもチームの10連覇に大きく貢献し、2年連続のベスト5にも選ばれる活躍を見せた。
そして、いよいよ来年に迫った東京パラリンピック。 日本は、開催国として出場が決まっている。 郁美の恩師岩佐監督は昨年、女子日本代表監督に、ご主人である新悟さんは、代表チームのコーチに就任。 メダル獲得へ向け日々、チームの強化に取り組んでいる。

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およそ3週間前の先月15日からの3日間、大阪で車いすバスケ 女子日本代表の国際親善大会が開催された。 親善大会とはいえ、参加したのは昨年の世界選手権で優勝したオランダと、準優勝だったイギリス、そしてオーストラリアの3カ国。 どの国も東京パラリンピックではメダル候補であり、ロンドン、リオと連続してパラリンピック本大会にすら出場することが叶わなかった日本にとっては格上の相手だ。

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違いはなんといっても、その身長差。 車いすバスケではジャンプすることができないため、座高部分の身長と手の長さがそのまま大きな有利不利を生む。 体格に優れた欧米のチームは、ゴール近くにいる身長の高い選手にパスを集めることで、比較的簡単なシュートを打つことができるが、日本には身長の高い選手がおらず、ゴール下の密集地帯でシュートを狙うのは難しいため、成功率の低いゴールと離れた距離からのシュートで勝負しなくてはならないのだ。

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しかし、嘆いていても事態は進展しない。 郁美さんら選手たちは何年もの間、そんな欧米の強豪国と対等に渡り合うための練習を積んできた。
高さで対抗できない以上、やることは一つ。 スピードで翻弄し、外からのシュート成功率を上げること。 そのために郁美さんは、この10年岩佐監督と二人三脚で、シュート力の向上を目指してきた。

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初戦の相手はオーストラリア。 前回のリオパラリンピック・アジアオセアニア予選では、3戦全敗を喫するなど、これまで何度となく日本の前に立ちはだかってきた強豪国だ。 しかし、日本は試合開始直後からスピードとアウトサイドのシュートでリードを奪うと、その後も終始リードを保つ展開で相手を圧倒! なんと56対43で見事勝利をおさめたのだ!! そして、その後行われた、世界2位のイギリス、さらに世界チャンピオンオランダ相手にも…前半終了時には日本リードで折り返すなど、大型選手が揃う強豪相手に一歩も引かない戦い。 僅差で敗れはしたが、来年の東京パラリンピックに向けてその準備が順調であることを大きく世界にアピールした。

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そして、優秀選手賞に当たる大会ベスト5に日本から唯一選出されたのが、やはり郁美選手。 来年の東京パラリンピックでも、日本代表、そして藤井郁美から目が離せない!