PARA☆DO! 〜その先の自分(ヒーロー)へ〜

毎週水曜 よる10時54分 放送

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2018年9月

9月26日(水)

三阪洋行 選手兼任監督

(ウィルチェアーラグビー)

みんなは一人のために 一人はみんなのために

三阪洋行 選手兼任監督(ウィルチェアーラグビー)

ウィルチェアーラグビーチーム「東北ストーマーズ」の三阪洋行 選手兼任監督

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車いすのラガーマン・三阪洋行選手が登場。
生まれ育った地は高校ラグビーの聖地「花園ラグビー場」がある東大阪市。物心がつく頃には、だ円形のボールを持って公園を走り回っていた。中学ではラグビー部に入り、高校では「夢の花園」を目指す日々を送っていた。
しかし、高校3年の時、練習中の事故で頸髄を損傷し病院に担ぎ込まれた。「先生、僕もう一度ラグビーができますよね」という問いかけに「できる」と答えてくれる医師はいなかった。絶望の日々を送っていたが、車いすラグビー「ウィルチェアーラグビー」との出合いが、その後の人生を変えた。
2004年アテネからパラリンピックに3大会連続出場し、2016年リオでは日本代表のアシスタントコーチとして、日本初となる銅メダル獲得に貢献した。
2014年からバークレイズ証券に勤務しながら日本代表のコーチとして活躍し、さらに現在は、自身が立ち上げた東北ストーマーズで、選手だけでなく監督業までを務める多忙な日々を送っている。
ラグビーでけがをしてからおよそ20年。三阪選手が走り続ける理由とは?三阪選手が見つめるその先の自分とは?

三阪洋行 選手兼任監督(ウィルチェアーラグビー)

選手兼任監督はプレーしながら指導も行う

三阪洋行 選手兼任監督(ウィルチェアーラグビー)

17年に発足したばかりの「東北ストーマーズ」

1981年6月生まれ 37歳 大阪府東大阪市出身 バークレイズ証券所属。
高校生の時にラグビー練習中の事故で頸髄を損傷し、車いすユーザーとなる。8カ月間の入院後にウィルチェアーラグビーと出合い、4年後には最年少で日本代表に選出された。2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンと3大会連続でパラリンピック出場。ロンドン大会では副主将を務め、4位入賞という好成績を収めた。2014年からバークレイズ証券に勤務。
2016年には日本代表のアシスタントコーチとして、リオデジャネイロパラリンピックへ出場。同競技日本初となる銅メダル獲得に貢献した。
2017年には「東北を元気にする」を目標に、ウィルチェアーラグビーチーム『TOHOKU STORMERS(東北ストーマーズ)』を立ち上げ、プレーイングマネージャーとして障がい者スポーツの拡大にも取り組んでいる。

9月19日(水)

中島博光さん

(技師)

パラアスリートの相棒をつくる兄貴分

中島博光さん(技師)

中島博光さんの喜びは、勝利までの過程を選手と歩めること

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中島博光さんがチェアスキーのシートを開発し始めた時期は、今から約20年前。ある日出席したスポーツ向け福祉用品のフォーラムで、チェアスキーのシート構造の進歩が遅れていることについて講師に質問したところ「作り手が見つからない」、と言われ、それなら自分がやろうと思い立った。

2000年に狩野亮選手(アルペンスキー)のシート製作を手掛けたことをきっかけに、マラソン、バスケットボール、テニスなど、さまざまな車いす競技に携わってきた。
中島さんは徹底した現場主義で「製作したいならウチに来てください」というスタンスをとる。シートは選手にとって「相棒」。その相棒をつくり上げる中島さんはどの選手からも信頼され、兄貴的存在として親しまれる。車いすテニスのトッププレイヤー・国枝慎吾選手のことも「ツレ」というくらいの仲で、「選手との距離感が近くならなければ、選手は本当のことを語ってくれない」という。距離が近くなることで選手の癖や特徴を見抜き、シートづくりに生かすのだ。

また、シートの製作作業は選手と共に行う。選手もシートの構造を理解しなければ、遠征先で問題が起きた時に対応できず、選手自身が困ってしまう。
以前は自分の作ったシートを使用している選手を応援するため、現場へ駆けつけていた。しかし、「選手自身がメカニック兼任」となることが選手自身にとって一番良い、と考えている今は、ゆっくり自宅のテレビで観戦するのが楽しみだという。

中島博光さん(技師)

アルペンスキー・狩野亮選手と打ち合わせをする中島さん

中島博光さん(技師)

フィット感が操作性を左右。選手の体を守るのも大切な仕事

1970年2月20日生まれ 48歳 川村義肢株式会社。
18歳で川村義肢に入社。下肢装具製作に携わっていたが入社10年目にチェアスキーに出合ってシート製作に携わる。現在はチェアスキー以外の競技用シート製作もしており、これまでに106名のパラアスリートのシートを製作。世界のアスリートから信頼されている。

9月12日(水)

水上真衣選手

(競泳)

笑顔でいること

水上真衣選手(競泳)

期待の新星・水上真衣選手

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笑顔がトレードマークのパラ水泳、水上真衣選手。
2017年には50、100m自由形 運動機能障害(S8)クラスで日本記録を更新。今年2018年にはアジアパラ強化指定選手に選出され、2020年東京パラリンピックに向けて、夢をつかもうとしている期待の若手だ。

水泳を始めたのは2歳の時。新生児期脳梗塞による右片まひで、リハビリのためだった。泳いでいる姿は一見、どこに障害があるのか分からない。しかし、実は右足はバタ足ができず、右手の指先も動かせないため水をかくことができない。
速くなるための課題は「右と左のバランス」をいかに取るか。自由に動かすことができる左を強化するのか、それともまひのある右側を鍛え、補うのか—
毎日4500mを泳ぎ、週3日は陸上のトレーニングを行っているが、勝つために最も必要な要素は、精神面の向上だという。そのためには「笑顔でいること」。元気で明るくよく笑う水上選手の周りはいつも笑顔が絶えない。
しかし、中学生の頃はいじめを受けたこともあり、障がいを隠していた時期もあったという。そんな彼女は、いつから笑えるようになったのか? なぜ笑うのか? 彼女の見つめる、その先の自分とは—

水上真衣選手(競泳)

まひのある右手、自由に動く左手のバランスを考えながらフォームを開発

水上真衣選手(競泳)

職場でも笑顔を大切にしている

1994年10月生まれ 23歳 東京都出身 東京ガス人事部人材開発部室所属。
新生児期脳梗塞による右片まひで、リハビリのために2歳から水泳を始める。
2008年、中2から競技としての水泳に取り組み、2009年のアジアユースパラゲームズ(東京)に最年少選手として出場。50、100m自由形、100m平泳ぎの3種目で金メダルという成績でデビュー。以降、国内外の大会で数々のメダルを獲得。2017年には50、100m自由形で日本記録を更新。2018年、アジアパラ強化指定選手に選出される。
2017年4月から東京ガスに入社。水泳と仕事を両立させながら、2020年東京パラリンピックを目指している。

9月5日(水)

井谷俊介選手

(陸上100m)

パラ界の二刀流へ

井谷俊介選手(陸上100m)

東京パラリンピックで金メダルを目指す井谷選手

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パラ陸上短距離界にすい星のごとく現れた井谷俊介選手。
2年半前の2016年2月、オートバイの事故で右足のひざから下を失った。大学3年生だった。
突然の出来事に自分はもちろんショックを受けたが、それ以上に家族、周りの友人の落ち込みは相当なものだったという。
その様子を見た井谷選手は、落ち込んでいる場合ではない、何か出来ることはないか、と考え、始めたのが陸上だった。
本格的に始めたのは2017年の秋。
小さい頃から野球を続けてきたため、運動には自信があり、走るのも得意だった。陸上を始めてまだ1年も経たない2018年の5月に行われた北京GP100mに初出場し、いきなり優勝したことは周囲だけでなく、本人も驚きのデビュー戦となった。
そこから立て続けに優勝、準優勝。年齢はまだ23歳とさらなる伸びしろを残す。
小さい頃からの夢はプロのカーレーサーになること。事故にあって足を失っても今もその夢は変わらない。
しかし、今はその夢を封印し、支えてくれた家族や友人、お世話になっている方々への恩返しすることを目指す。それは、2020東京で表彰台の一番高い場所に上ること。
計り知れないポテンシャルは2年後、この日本で世界に衝撃を与えてくれるはずだ。

井谷俊介選手(陸上100m)

スタートの練習

井谷俊介選手(陸上100m)

“東京の父”カーレーサーの脇阪寿一さんと

1995年4月2日生まれ 23歳 三重県出身 ネッツトヨタ東京所属。
2016年2月 大学生の時にオートバイ事故で右足ひざ下切断
2018年5月 北京グランプリ(国際クラス分け認定) 100mT64クラス優勝(12秒91)
2018年7月 関東パラ陸上競技選手権大会(町田) 優勝(12秒05)
2018年7月 2018ジャパンパラ陸上競技大会(前橋) 準優勝(12秒01)
目標は2020東京パラリンピックで金メダル カーレーサーになること